東天の獅子 第二巻 天の巻・嘉納流柔術 夢枕獏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)轡《くつわ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)会津三方道路|開鑿《かいさく》工事 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)こより[#「こより」に傍点]で遊んだ ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/02_000.jpg)入る] 〈帯〉 そして講道館は新時代の台風の目となる! 維新後、柔術は衰退した。 しかし、休火山が突然噴火するかのごとく、混沌の中からとてつもない漢《おとこ》たちが生まれてきた——この気概を見よ。 「新しい風は、もう吹きはじめてる」 [#改ページ]  東天の獅子——とうてんのしし——  第二巻  天の巻・嘉納流柔術  夢枕 獏  双葉社  目次  五章 気楽流柔術  六章 群狼邂逅  七章 揚心流戸塚派  八章 柔術対柔道  九章 弥生祭  十章 御式内 [#地から2字上げ]題字 岡本光平 [#地から2字上げ]装幀 高柳雅人 [#改ページ] 東天の獅子 第二巻  ◎天の巻・嘉納流柔術◎  五章 気楽流柔術 (一)  その男は、鷹揚な足取りで、天龍橋を渡ってきた。  袴に、黒紋付の羽織。  紋は、�丸�に�十�の字の轡《くつわ》紋であった。  五〇歳をいくらか出ているだろうか。  轡紋だからというわけではないのだろうが、顔が、馬並みに長い。唇の両端が下がっていて、どこか抜けたような印象を与えかねないが、眸《め》が据わっていた。  どんな時でも笑いそうにない、怖い眸であった。  自らの意志で、人をひとりふたり斬り殺したことがある人間は、このような眼をしているかもしれなかった。  右手に、ステッキを握っていた。  その男のすぐ後方に、若い男が従っている。  二十五、六歳であろうか。  肌の色の浅黒い、眼の細い青年であった。  細い眼の中に、針の先のような光が点っている。  上野。  不忍池《しのばずのいけ》。  池の中にある島に寄って、そこからもどってきたところらしい。  島にある弁財天に参拝してきたところなのだろう。  ふたりは、ステッキの男を先頭に橋を渡り終え、左手に折れた。  不忍池を左に見ながら歩き出した。  桜が満開であった。  池に沿って植えられている桜に、午後の陽が差している。  風が吹く度に、陽光の中に花びらが舞った。  花びらは、地に落ち、そして水面にも落ちた。桜の花びらが幾つも水面に浮いて、風に吹かれて動いている。  桜の下に、思いおもいに茣蓙《ござ》を敷いて、花見客たちが飲んでいる。  その賑いの間を、男はゆるゆると歩いてゆく。  と—— 「なんだと——」  荒っぽい男の声が響いてきた。  先の方に、人だかりがあった。  今の声は、その人だかりの中から響いてきたらしい。 「謝まりゃあ済むってえことじゃねえ」  今度は別の男の声が響いてきた。 「北島……」  男は、後ろからついてくる青年に低く声をかけた。 「はい」  青年は、低く答えて、男を抜いて人だかりの方に向かって先に進んでいった。  走っているようには見えないのに、走るような速度であった。  身ごなしに、常人にはないものがある。  五〇年配の男は、北島と呼んだ青年の背を見やりながら、歩調を変えずにゆるゆると歩いてゆく。  ほどなく、男は、先に人だかりの中に立った青年——北島の横に並んだ。 「どうだ」  人の間から覗くと、その光景が見えた。  五〇年配と思われる女と、ひとりの若者が、池を背にして立っていた。  若者は、二〇歳前後であろうか。  素足に一本歯の高下駄を履き、古い白袴を穿いていた。  古そうだが、しかし、きちんと洗濯されたものだ。  そのふたりを、見るからに壮士風の男たち五人が囲んでいた。  井の字絣の着物。  縦縞の袴。  長髪に高下駄。  そのうちふたりは、手に太い桜のステッキを握っていた。 「この壮士たちが飲んでいるところへ、そこのふたりが通りかかって、女の方が、壮士にぶつかって、酒をこぼしてしまったということらしいです」 「酒を?」 「壮士のひとりが、杯を持った手を伸ばしたら、それが歩いてきた女にぶつかってしまったというのが、本当のところらしいんですが——」 「ほう」  五〇年配の男は、あらためて、その光景を眺めた。  若者は、一本歯の下駄を履いているが、子供と見まごうばかりに背が小さかった。  丈は、五尺一寸あるかどうか。  髪は短く、顔も身体も、毬のように丸みを帯びていた。  双眸が暗い。  何を考えているのかわからないような眸であった。 「すまんです」  青年が、ぼそりと言った。  その言葉に、強い会津訛りがあった。  その声を聴いて、壮士たちが笑った。 「だから言ってるだろう。謝まりゃ済むってえわけじゃないんだよ」  壮士たちのひとりが言った。  そう言われては、答える言葉がない。  青年は沈黙した。  怯えているのか、困っているのか、怒っているのか、そういう表情が、青年の顔からは欠落していた。  ただ、黙った。 「どうしてくれるね」  壮士が言った。 「どうすればいいんですか」  青年の背後から、女が訊ねた。  弱り果てた女の眼が、救いを求めるように、見物している人間たちに向けられた。 「もっと若ければ、こぼした分だけ酌をさせるところだが——」 「お酌ならいたします」  女が言うと、壮士たちが大きな声をあげて笑った。 「では、お洗濯代を——」  女が懐に手を伸ばしかけるのを、若者が制した。 「払うことはない。酒で濡れたのは八重さんの方だ」  若者は、低い声で言った。 「何でおまえが止めるのだ」 「律義な女ではないか」  壮士たちから声がかかった時——  ぎろり、  と若者の視線が動いた。  その眼から、さらに表情が消えていた。 「いけません」  女が、若者の右腕を掴んでいた。 「何がいけないんだね」 「怪我をするからだろう」  ステッキを持ったひとりの壮士が、言いながら前に出てきた。 「止めましょうか」  半歩、前に出かけた北島を、 「待ちなさい」  五〇年配の男が、止めた。  ステッキを持った壮士が近づいてくるのを無視するように、若者は女の肩を押して、 「行きましょう」  歩き出そうとした。  そこへ、 「けいっ」  声をあげて、壮士が手に持ったステッキを横に振ってきた。  頭や、胴をねらったのではなかった。  歩き出そうとした若者の足を払うように、身を縮めて、低い場所をステッキで横に薙いできたのである。  壮士のステッキが、若者の臑《すね》をおもいきり叩いたかと見えた時——  ステッキは、空を切っていた。  若者は、地上に下駄を残したまま、宙に跳んでいたのである。  素足のまま宙に跳び、そこでトンボを切って、若者は再び同じ場所に立った。  同じ場所というのは、下駄の上という意味である。若者は、下駄の上から跳んで、宙でトンボを切り、また同じ下駄の上に降り立ったのであった。  しかも、それはただの下駄ではない。  一本歯の高下駄であった。  下駄は、若者の足が離れて、再びもどってくるまで、その一本の歯の部分以外の場所を、地に触れさせなかった。 「ほう……」  それを眺めていた五〇年配の男は、感心したような声をあげた。  ふいうちを仕掛けたはずなのに、それをかわされた壮士は、頭にかあっと血が昇っていた。 「こ、こ、この」  ステッキを振りあげ、若者に殴りかかっていた。  若者は、背後の女を庇いながら、小さく上体を横へ傾けただけであった。若者のやった動作というのは、それだけだ。  にもかかわらず、ステッキで殴りかかった壮士は、まるで、そこにあった見えない石に蹴つまずいたように、 「わっ」  前につんのめって、そのまま池に転がり落ちていた。  水音がして、水飛沫があがった。 「何をした」  壮士のひとりが高い声をあげた。 「何もしていない」  若者は、ぼそりと答えただけであった。 「なにっ」  掴みかかっていった壮士の身体が宙を飛んで、池に落ちて水音をたてた。 「やわらの手か」 「気をつけろ」 「こいつ、やわらを使うぞ」  三人の壮士が、若者と女を囲んだ。  ひとりは、ステッキを持っている。 「せやっ」  ステッキを持った男が、若者の頭に向かってそれを突き出した。  こん、  という音がした。  若者が履いた下駄の先で、そのステッキの先を、上へ蹴りあげていた。  頭上を後方へ越えてゆくステッキの下をくぐって、若者はすうっと壮士の懐に入り込んでいた。  若者の身体が、壮士の下に入り込んだと見えた瞬間、牛の角に跳ねあげられたように、壮士の身体が宙に浮きあがっていた。みごとに壮士の身体が、空中で逆さになっていた。爪先が天を向き、ふたつの下駄が、桜吹雪の中に飛んでいた。  若者が、右足を下駄の上に残し、左足を下駄から離して、その左足で壮士の下半身を宙に跳ねあげていたのである。  そのまま、頭から堅い地面に叩きつけていれば、壮士の首の骨は折れていたろう。さもなくば、鉢を割られていたに違いない。  しかし、若者はそうはしなかった。  壮士の身体を池の方に投げ飛ばしていたのである。  壮士は、頭から池の中に落ちていた。 「小僧、動くな」  声があがった。  壮士のひとりが、女の後ろに回わって、その頸に刃物をつきつけていた。  匕首《あいくち》であった。 「それ以上、つまらん真似をしようってのなら、こっちにも考えがある」  壮士の眼が尖っていた。 「北島」  五〇歳がらみの男が声をかけた時には、もう、北島は傍にはいなかった。  若者と向き合っていた残った壮士は、勢いを得たように、 「おとなしくするんだな」  酒臭い息で言った。  その時—— 「痛《つ》うっ!」  女に匕首を突きつけていた男が、高い声をあげていた。  若い男——北島が、壮士の匕首を持った右手首を右手で掴み、ねじりあげていたのである。  壮士の手から、匕首が落ちた。  壮士の右腕は、一本の棒のようになって上に向かって垂直にねじりあげられていた。壮士は膝を突き、顔を地面にこすりつけるようにして、尻を上に持ちあげていた。  その右肩と右腕の付け根の部分に、北島の右膝が乗っていた。 「ち……」  呻き声をこらえている壮士の眼の前に、匕首が落ちていた。 「ちいっ」  壮士は、その匕首に左手を伸ばし、それを握った。  その途端——  壮士の右肩の中で、濡れた布が裂けるような音がした。  いやな音であった。  壮士が、匕首を取り落として、絶叫した。  北島が、壮士の右肩の靭帯を破壊したのである。  残った壮士は、ひとりだった。 「む、むむ……」  口の中で何かをつぶやき、残った壮士は、背を向けて逃げ出した。  人垣を押しのけるようにして、去った。  北島は、握っていた壮士の右手首を放し、顔色も変えずに立ちあがった。  壮士は、両膝を突いたまま、左手で右肩を押さえ、 「折りやがった。こいつ、おれの肩を、折りやがった」  呻いている。 「助かりました」  若者は、低い声で言い、北島に向かって頭を下げた。 「ありがとうございました」  女が、北島に向かって、膝に両手をあて、頭を下げた。  その女の言葉にも、若者ほどではないが、同じ訛りがあった。  そこへ、五〇年配の男が、人垣を分けて姿を現わした。 「おとなしく見ていようと思っておったのですが、あなたにまで刃物ば突き出しちょったんでな」  まるで、男は、自分が女を助けてやったような言い方をした。  その言い方のおかしさに気づいたのか、男は、はにかんだような笑みを、その口元に浮かべた。馬面が、ふいに愛敬のある顔になった。 「その言葉は、会津の——」  男は、自分も訛りのある言葉で言った。  九州——鹿児島の訛りらしい。 「はい」  女がうなずいた。 「では、彰義隊の——」 「ええ。御維新の時に、ここで、知り合いの者が亡くなりましたので——」 「ほう」 「たまたま、奉公先で暇がとれましたので、花見をかねてこちらへ——」  女は、壮士を池の中に投げ込んだ若者の方を見た。  男は、その若者の方に視線を向けた。 「みごとな、技でごわしたな」  男は言った。 「わたしは、三島という者だが、御流儀と名前ば聴かせてもらえぬか」  若者は、しばらく無言で三島と名のった男を見つめていたが、やがて、 「講道館、保科四郎——」  ぼそりと言った。 「ほう、講道館と言えば、確か、東大の嘉納治五郎師範が起こした流派じゃと思うが——」 「はい」  若者——保科四郎は頭を下げ、女の方を向いた。 「八重さん、行きましょう」  八重は、北島と、三島と名のった男に向かって、 「ありがとうございました。ありがとうございました」  何度も頭を下げた。  ふたりの姿が小さくなってから、 「講道館か——」  三島が、桜の花びらが舞い落ちてくる中で、小さくつぶやいていた。 (二)  その日——  道場で稽古をしていると、障子が開いて、嘉納治五郎が入ってきた。  富士見町時代の講道館の道場は、一段高い場所に座が設けてある。稽古を見るだけの時は、治五郎はそこに座して見る。とは言っても、治五郎は皆と共に稽古をする時が多く、めったにそこに座ることはなかった。  そこはいつも空席になっているか、来客が座る時の方が多い。  しかし、その日は珍しく、治五郎はその高い座の方に姿を現わし、 「やめ」  稽古中の門下生に声をかけた。  稽古をしていた、二〇人余りの人間が、動きを止めた。  保科四郎《ほしなしろう》。  富田常次郎《とみたつねじろう》。  山下義韶《やましたよしかず》。  横山作次郎《よこやまさくじろう》。  後に講道館四天王と呼ばれることになる四人の顔も、その中にあった。 「今日は、講道館の稽古を、ぜひ見学したいとおっしゃられる方がいらっしゃったのでな、ここへお連れ申しあげた」  そう言って、治五郎は、道場生たちを見回わした。 「警視庁の三島総監だ」  治五郎が、横手へ向かって頭を下げ、後ろへ退がると、さきほど治五郎が開けたばかりの障子の影から、ふたりの男が姿を現わした。  ひとりは、黒い紋付羽織を着た、五〇年配の男であった。  もうひとりは、若い青年であった。  青年の方は、高い座の方へは上らず、道場の壁際に寄って、板の間の上に静かに正座をした。  保科四郎は、ふたりの顔を覚えていた。  五日前——  八重と一緒に上野へ出かけたおりに会った男たちであった。 「三島通庸である」  男——三島は、自らの名を告げた。 「本日は、皆さんの稽古ぶりを拝見させていただこうと思ってな。突然だったが、嘉納先生に無理に頼みこんで、こうしてお邪魔をさせてもらった。いつも通り、いつも通りを見せていただければ充分——」  そう言って、三島は、そこに座した。 「三島総監は、本日は、公ではなく、私でいらっしゃった。だから、お召しになられているものも私服だ。今総監がおっしゃられたように、いつも通りでよい」  治五郎は、そう言って、三島のやや後方の脇へ、静かに座した。  三島通庸。  警視庁の、第五代警視総監であった。  昨年——明治十八年十二月に大迫貞清の後をついで就任したばかりである。  天保六年六月、鹿児島に生まれた。  明治十九年四月——この時、まだ五十二歳であった。  この時期の高官には珍しく、髭を生やしていない。 「始め」  治五郎が声をかけると、再び稽古が始まった。 (三)  稽古が再開されて、三〇分余りも過ぎたかと思われる頃—— 「嘉納さん」  黙って稽古を見つめていた三島通庸が、治五郎に声をかけた。 「はい」 「この中では、あの四人が飛び抜けちょりますなあ」 「どの四人ですか」 「あの、身体の大きな男と、その横で乱取りをしている男です。それからもうひとり、あの男は、足捌きだけで、相手を崩していますな」  三島は、道場で乱取りをしている三人を、人差し指と視線で治五郎に示した。  大きな男というのは、横山作次郎のことであった。もうふたりは、山下義韶と、そして富田常次郎である。  ひとり、足りなかった。 「あとひとりは?」  治五郎は訊いた。 「あの男です」 「あの男?」 「保科四郎くんですよ」  三島は、その小柄な男の名を口にした。  治五郎は、驚いて三島を見やった。 「御存知なのですか」 「会津の出ではないかね」 「その通りです。もう、総監とはお会いになっていたのですか」 「五日前、上野でな」  乱取りを眺めながら、三島は、上野での一件を短く語った。 「そういうことがあったのですか」 「叱らんでくれたまえよ、嘉納さん。向こうは誰も怪我はしておらん。水に濡れはしたようだがね」 「はい」  治五郎はうなずいた。 「ところで、嘉納さん」 「何でしょう」 「うちの北島が、うずうずしている様子なのでな。失礼を承知でお願いするのだが、ひとつ稽古をつけてやってくださらんか」 「稽古を?」 「あれで、気楽流の目録をもらっておる。書生代わり、用心棒代わりに、いつも連れて歩いているのだが、そこそこはやる。それはいいのだが、この頃は少し天狗になっているようなのでな。その鼻を、こちらでへし折ってやっていただきたいのだが……」 「しかし——」 「北島にとっても、そちらにとっても、他流とやるというのは、得るものは大きいと思うが、どうかね」  治五郎は、一瞬、真意を測りかねたように、三島の顔を見た。  まさか、警視庁の三島総監が、わざわざ道場破りにこういうかたちで来ることはない。  ましてや、自分の書生の強さを見せびらかそうというわけでもあるまい。  これには何か、考えがあるはずであった。  おそらく、初めから、こうするつもりでいたのであろう。  それは、何か。  三島の眼が、真っ直ぐに治五郎を見つめている。  悪意のある眼ではない。  三島が何を考えているにしろ、これは受けるべきであろう。北島も、すでにこうなることは承知しているのであろう。 「わかりました」  治五郎はうなずいた。  治五郎は、立ちあがり、 「やめ」  高い声で言った。 「稽古やめ」  二〇人余りの道場生が、その声で動きを止めた。  皆の視線が治五郎に集まった。 「三島総監からお話があって、あちらにおられる北島さんに稽古をつけていただくことになった」  治五郎の言葉と一緒に、壁際に座していた北島が立ちあがった。 「気楽流の目録を持っていらっしゃるそうだ。柔術、剣術、槍術いずれも、他流にない優れた伝が残されている御流儀だ。勉強をさせていただこう」  北島が、静かに頭を下げた。  顔をあげる。  精悍な顔になっていた。  その眸に、さっきまでなかった刃のような光芒が宿っていた。 「岩波——」  治五郎は言った。 「はい」  道場生の中から声があがり、両の拳を握りしめながら、ひとりの男が前に出てきた。  岩波静弥——  明治十六年に入門した男だ。  入門の最初が富田常次郎——岩波は十二番目の入門者であった。 (四)  気楽流——  赤城山を見あげる上州の地に花開いたのがこの流儀である。  幾つかの系統はあるが、たどれば戦国時代の武将前田利家の家臣戸田越後守信正を源とする。  戸田信正は、剣術では無敵流、槍術では富田流、そして柔術では戸田流の、三流の奥義を極めた人物である。  第十代宗家蛭川菊右衛門興良の時に、気楽流を名のることとなり、十二代児島善兵衛信将の時に、伊勢崎藩の武芸指南役として、上州の地に定着した。  気楽流柔術も、もとは戦場での甲冑術《かっちゅうじゅつ》である。  岩波は、北島と道場の中央で、向きあって立った。  岩波が立ったのを見ると、北島はすっと腰を落とし、畳に膝を突いた。  半身に構え、左膝を岩波に向けて座し、その左膝の上に左掌を乗せ、小さく頭を下げた。  これが、気楽流の礼である。  北島が、口の中で、小さく何かを唱えていた。  それが、低く道場内に響いた。 「オン・アミリトドハンバ・ウン・ハッタ・ソワカ……」  馬頭観音の真言である。  立ち合いの前に、心を静めるためにこうして低く真言を唱えるのが気楽流の、他流派にない特徴であった。  治五郎は、それを承知しているが、岩波はそんなことは知らない。  いったい何をしているのか——  そういう眼で、岩波は北島を見た。  軽いとまどいがある。  ここで、岩波は北島に呑まれた。  北島にとっては常のことであるが、岩波にとっては初めてのことだ。  北島が身につけているのは、気楽流の稽古衣である。  白い上衣に黒袴。  それを用意してきたということは、あらかじめ試合うことを覚悟していたということである。闘いに対する気持ちの置きどころにおいても、北島が岩波に先んじていたことになる。  北島が立ちあがる。 「失礼——」  そう言ったのは、岩波であった。  後方に三歩退がり、 「やっ」  声をかけて、前方の畳の上に頭から跳んだ。  背を丸め、前に転がって掌で畳を叩く。  小気味のよい音がした。  自ら前に転がって受け身を取ったのである。  起きあがり、再び北島の前に立った。 「失礼いたしました」  岩波は言った。  岩波の顔からとまどいが消えていた。  岩波も、講道館の生え抜きの猛者である。  横山や四郎、山下、富田とは何度も組んでいる。  こういう時に、どう自分の心を調整すればよいかは心得ている。 「御流儀は、天神真楊流がもとになっているとうかがいました」  北島が言った。  岩波に向かって言っているが、これは治五郎にも聴かせようとしている言葉だというのがわかる。 「はい」  治五郎がうなずいた。  柔道——嘉納流柔術を構成しているのは、柔術諸流派の技術であるが、その体系の中心をなしているのは、治五郎が最初に学んだ天神真楊流と、飯久保恒年から学んだ起倒流である。 「当てていただいてかまいません」  けろりとした顔で、北島は言った。  天神真楊流は、投げよりも当て身や関節技に特徴があり、起倒流はその精妙な投げ技に特徴がある。  その当て身技を使用していいと、北島は口にしたのである。  これは、裏を返せば、自分も当てますよと、北島はそう言っていることになる。  当ててもいいかわりに、こちらも当てる。  立ち合いの方式を、相手の有利なものにする——よほどの自信があるのか、相手の動揺を誘うつもりなのか。それとも、相手に有利にというのは表面だけで、実はこれは北島本人に有利な方式なのか。  言葉は柔らかいが、�当てていただいてかまいません�というのは、  当てさせてもらいたい——  そう要求しているのと同じである。  投げ、締めだけならともかく、当て身技を許せば、場合によっては勝負が陰惨なものになりかねない。  治五郎は、三島通庸を見やった。  今、ここで起こっていることの全ては、三島の胆の裡にあることだ。三島があらかじめ承知しているのでなければ、北島もそこまでは口にしない。  三島は、横から治五郎が自分の顔を見ているのを承知で、眼を合わせない。平然として、道場中央に立っているふたりを眺めている。  三島通庸——五十二歳。  この人物が第五代警視総監に就任したのは、昨年の明治十八年十二月二十二日である。  鹿児島生まれ。  明治七年に酒田県令に就任したのを振り出しに、山形県令、福島県令、栃木県令を歴任し、この間に、会津三方道路|開鑿《かいさく》工事を強行して、河野広中や福島県下自由民権勢力と激しく対立した。  これが、明治十五年十一月、有名な喜多方・弾正ケ原事件を誘発し、その直後、河野広中を含む七十九名の民権運動家を大量検挙している。  明治十七年九月の加波山《かばさん》事件でも、三島は一五〇名に余る民権運動家を検挙している。  こうと決めたら曲げない。  自分の権力のありったけを使って、自分の道を通す男であった。  明治十九年のこの時、河野広中はまだ獄中にあった。  無類の武術好みで、もしもこの人物がいなかったら、柔術や剣術——多くの武道は廃れ、少なくとも柔道は、ただの嘉納流柔術で終っていたかもしれない。 「いいでしょう」  治五郎は、三島の顔を見ながらうなずいていた。  治五郎は、次に、確認するように岩波を見やった。  岩波が、眼でうなずいている。 「では、この立ち合い、当て身を許します」  治五郎は、足を前に踏み出し、段から下りた。 「わたしが、裁きましょう。双方、存分に闘うように——」 (五) 「始め」  治五郎の、鋭い声が響いた。  岩波は、軽く両手をあげ、間を計りながら右へ動いた。  北島は、浅く腰を落とし、膝を曲げ、岩波の動く方に、顔と身体を向けてゆく。 「しゃっ」 「しゃっ」  声をあげながら、岩波が寄ってゆく。  右足で踏み込み、そこで間をはずし、左足で踏み込んだ。  左拳を上から打ち下ろしながら、北島の懐に入った。  疾い。  初めから頭部をねらった当て身に行ったのである。  受けられる——  誰もがそう思った。  いくら間をはずして踏み込んでも、いきなり頭部を打ちに行ったのでは、北島に受けられてしまう。  いくら当て身技が許されたと言っても、それはおのずと技の攻防の中から出てくるものである。最初から当てにいったのではかわされてしまう。  が——  岩波は、当て身にいかなかった。 「しゃあっ」  左拳で打つと見せて、右手で北島の左襟を取りにいったのである。  上手い。  絶妙の間であった。  腰を落とし、相手の重心の下に入って背負うこともできれば、内掛けに右足をからめて倒すこともできる。  内掛けは、岩波の得意技である。  北島の右足が後方に退がった時、多くの者が、岩波の内掛けが左足に入ったものと思った。  だが、そうではなかった。  北島の身体は、倒れなかった。  北島は、自ら右足を後方にひいていたのである。  しかも、北島は、右足を後方にひくその前に、自分の左襟を掴んできた岩波の右手を捕えていた。  左手で岩波の右手首を外側から握り、自分の身体にその捕えた右手首を押しつけるようにして、後方に退がっていたのである。  岩波は、伸ばした右手を引かれるかたちになった。  岩波の重心が崩れていた。  次の瞬間、北島の右手が下から跳ねあがり、伸びた岩波の右腕の肘を、上へ叩いていた。  ここで、北島が腰を沈めた。  崩された身体をたてなおそうとしていた岩波が、あっけなく畳の上に横に転がされていた。  転がったその時には、背後に北島が回わり込んでいて、岩波の背に膝頭が当てられている。  北島の左手が、岩波の右襟を、右手が左襟を掴んでいた。  締められた。 「ぐむ」  岩波の喉の奥が鳴った。  こらえる。  岩波の顔が、赤く膨れあがった。 「それまで」  治五郎が言った。  片胸倉轡締——  気楽流の締め技が完全に入っていた。  治五郎の判断は正しい。  もしもこのまま続けていたら、岩波は落ちていたところだ。自ら負けを認める合図を、岩波がするはずもない。放っておけば、意識を失う。  北島が、技を解く。  くやしそうに、歯を噛みながら、岩波が上半身を起こした。  膝を突き、正座をして、岩波は北島と向かいあった。  北島も正座をしている。 「まいりました」  岩波が言った。 「ありがとうございました」 「ありがとうございました」  ふたりが、畳に両手を突いて、礼をする。  岩波が、立ちあがって、退がってゆく。  壁際までゆき、他の道場生と同様に、そこに座した。  岩波の眼に、薄く涙が滲んでいる。 「たいへんなものを見せていただきました」  そう言ったのは治五郎である。  その声には、素直な、讃嘆の響きがあった。  岩波の身体を崩し、投げる時に、北島は手を使ったのである。  身を沈めながら、岩波の右肘を叩いた右手を下げ、その手で、岩波の右脚をはらっていたのである。ちょうど、膝の裏あたりを刈ったのだ。同時に、左手で岩波の右手を捕えたまま、身体を左へ回わす。自然に岩波の身体は崩れることになる。  無理のない、流れるような技であった。  道場の真ん中に、ぽつんと、座した北島だけがいる。 「嘉納さん、我儘を言わせてもらってよいかね」  三島通庸が言った。 「何でしょう」  治五郎が言った。 「次は、そこの保科四郎くんに、北島の相手をしていただきたいのだが——」  治五郎は、四郎を見やった。 「やります」  静かな声で、四郎は言った。  立ちあがり、四郎は三島に向かって一礼し、前に出てきた。  北島の前に、正座をする。  小さな、押せば倒れてそのまま転がっていきそうな身体であった。  北島は、左膝を前に出し、座したまま半身になって、左掌をまた左膝の上に置いた。 「オン・アミリトドハンバ・ウン・ハッタ・ソワカ……」  低い声で、北島が真言を誦《しょう》す。  それを、四郎は、頬を幾らかふくらませたような顔で眺めている。  北島の真言が終った。  また、座したまま向き合った。  礼をして、ふたりが立ちあがる。 「始めっ」  治五郎が言った。  四郎が、腰を浅く落として、構えた。  丈、五尺五分。  向き合っている北島は、丈五尺四寸。  身長、およそ一六三センチ。  横山ほどではないが、この当時としては大柄である。四郎とは、一〇センチ余りの身長差があった。  ころころとした、毬のような筋肉が、四郎の身体を覆っている。 「哈っ!」  北島が、初めて声をあげた。  動いた。  つ、  つ、  つ、  と、北島が前に出てくる。  それに合わせるように、四郎も前に足を踏み出した。  組んだ。  そう見えた時、いきなり、北島の右足が宙に跳ねあがり、四郎の腹を打った。  当て身だ。  蹴足。  足で蹴る技。  中足——右足親指の付け根の部分が、四郎の左の脾腹を打っていた。  しかも、北島は、右手に掴んだ四郎の左袖を引いている。  かわせない。  が——  四郎は、わずかも怯んだ様子は見せなかった。  まるで、何ごともなかったように前に出ていた。  前に出ることによって、打撃点がずれ、一番打撃の効果のある場所より手前で、北島の足は四郎の腹を打っていたことになる。  逆に、重心を崩していたのは、北島の方であった。  蹴りにいった右足が宙に浮いたままであり、左足だけで身体を支えている状態であった。  一本だけになった、北島の軸足が刈られていた。  背から、北島が畳の上に落ちてゆく。  しかし、北島も、たやすく背から倒れはしなかった。  刈られた左脚と右脚で、四郎の胴を挟み、自ら畳の上に仰向けになるようにして、両手に四郎の袖と襟を握り、四郎を引き込んでいったのである。  寝技の勝負に誘ったのである。  四郎の身体が、北島の上になった。 (六)  この時には、北島の両足の裏が、ちょうど四郎の腰骨のあたりを下から押さえるかたちになっていた。  これだと、四郎は上から四方固めに入ることができない。  北島が、四郎の身体を、腰骨にあてた足を使って返そうとする。  体重の軽い四郎の身体が浮きあがる——そう見えた時、毬が転がるように四郎の身体が動いて、横四方のかたちになった。  仰向けになった北島の右側から、四郎は横四方をねらっている。しかし、下で北島が動いて、完全なそのかたちに入らせない。  北島が、左肘を、下から四郎の頭部に打ちつける。  ひとつ。  ふたつ。  四郎の頭部に北島の肘が当たる。  その体勢からは、もちろん、充分な威力を持った打撃を当てることはできない。四郎に対するいやがらせだ。  しかし、四郎は動じない。  と——  いきなり、北島が四郎の左耳を左手で掴んでいた。 「ぬむうっ」  声をあげたのは、四郎ではなかった。  焼けた石を吐くような呻き声を唇から洩らしたのは、北島であった。  次の瞬間、四郎の腰が浮いて、仰向けになりながら、自分の股の間に北島の右腕を挟んでいた。同時に、両腕で、四郎は北島の右腕を取っている。  右脚を北島の胸の上に載せ、左脚を北島の首の上に載せている。その時、四郎は、北島の首の上に載せた左脚の脹脛で、北島の顔と顎を蹴るように擦りあげ、その顔を向こうに向かせていた。  四郎は、仰向けになった北島の両腕を抱え込んで自らも仰向けになっていた。  腕拉《うでひしぎ》逆十字固め——  完全に極まっていた。  北島は、ここでまいったの合図をしなければならない。 「ぐむう」  しかし、北島はその合図をしない。  こらえた。  このままでは、腕が折れる。  四郎の唇が、小さくすぼめられた。  いっきに腕を折りにゆく覚悟をしたらしい。 「一本」  治五郎が、声をあげたのはその時であった。 「それまで」  四郎が、技を解いた。  そこに正座をする。  四郎の顔に、表情はない。  唇が、わずかに尖っているように見えるだけだ。  北島が、四郎に遅れて正座をする。  ふたりが、向き合った。  北島は、自分の左手で右肘を押さえながら、 「まいりました」  頭を下げた。 「みごとなものだ」  三島が言った。 「殺し合いなら、半分の時間もかからぬところだったな」  三島は、座したままふたりを見つめながら、声をかけた。 「北島」 「は」  北島が、頭を下げる。 「さっきは、吊り鐘を握られたか?」 「はい」  北島がうなずく。 「耳を引いて、体勢を入れかえようとしたのですが、引く前に——」  吊り鐘——つまり睾丸のことである。  北島が四郎の耳を引っ張って、顔を横向かせ、四方固めから逃げようとした時、北島の股間に入れられていた右手で、四郎が北島の睾丸を握ったのである。もとより、潰すつもりで握ったのではない。北島が、耳を引くという裏技に出ようとしたので、それをやめさせて、腕を取りにゆくきっかけとしたのである。  もし、握り潰していれば、その瞬間に決着はついていた。 「自分の及ぶところではありませんでした」  北島は、正直に言った。  それから、しばらくまた稽古を見、 「いや、よいものを見せてもらった……」  時の警視総監三島通庸は、そう言って、講道館を後にしたのであった。 (七)  警視庁武術試合に、三島通庸の推薦によって、講道館の出場が決まったという知らせが治五郎の許に届いたのは、それから五日後のことであった。 [#改ページ]  六章 群狼邂逅 (一)  上野——  不忍池。  池を、左に見ながら、ふたりの男が歩いている。  ひとりの男が先を歩き、それにやや遅れてもうひとりの男が歩いている。  先を歩いている男は、四〇代前後であろうか。身体つきのがっしりした男であった。  着ているものの内側に、みっしりと肉が詰まっているのが、見るだけでわかる。  分厚い——というよりは、丸々とした岩のような肉体をしていた。  丈は、五尺八寸(一七六センチ)もあろうか。  体重は二十五貫(九十四キロ)を下るまい。  首が太い。  猪首《いくび》であった。  肩からそのまま首が生えているように見える。  鼻から下が、黒い髭で覆われている。  双眸は、小さく、丸い。  熊のような風貌をした男であった。  白袴。  下駄を履いている。  がらり、ごろりと、その下駄を鳴らしながら、男は歩いている。  その後方から歩いているのは、北島であった。  北島は、手に六尺ほどの太い樫の棒を持っている。  二人の頭上に、桜の梢がかぶさっていた。  しばらく前まで咲いていた桜は、もう、散ってしまっていた。  葉桜になっている。  萌え出したばかりの黄緑色の葉が、わずかな微風に揺れている。  早朝であった。  まだ、陽が射す前の時間である。  池の面にも、地上にも、薄い靄とも見えない靄が掛かっているようであった。  周囲に、まだ、人影は見えない。 「中村先生——」  後方から、北島が声を掛けた。 「ちょうど、そのあたりです」 「そうか」  北島から、中村先生と呼ばれた男は、そこで足を止めた。 「ここで、保科四郎と会ったのです」  北島は言った。  四郎が、酒に酔ってからんできた男たちを、池へ投げ込んだ場所であった。  それも、もう、一〇日ほど前だ。 「ほう、ここか」  足を止めた中村は、池の面を見やり、横手の桜の樹にその視線を移してから、頭上の梢を見あげた。 「そうか、ここだったのか」  中村の言葉には、何やらなつかしそうな響きがあった。 「なにか?」  北島が訊ねた。 「いや、三年前にな、ここで首を吊ったことがあるのさ」  中村は言った。  黒い、小さな眸《め》が細められた。  笑うと、思いがけなく柔和な顔になった。  中村半助。  九州は久留米の産である。  良移心頭流柔術を、下坂才蔵について修め、免許皆伝。  三年前に、下坂の推薦を受けて東京へ出、警視庁の柔術指南役に就いた。  もともとは、師である下坂才蔵に来た話であったのだが、歳を理由に下坂はこれを断り、代りに弟子の中村半助を推したのである。  路銀がなく、東海道を歩いて上京し、腹が減れば、途中、稲穂をしごいて、生の米を齧りながら東京までたどりついた。  中村半助が、三島通庸に呼ばれたのは、ちょうど五日前であった。 「何の用事でしょう」  半助が問うと、 「六月十一日の件じゃ」  三島は言った。 「武術大会の?」 「うむ」  三島はうなずいた。  ちょうど、二カ月後の六月十一日、向ヶ丘弥生神社の鎮座祭に合わせて、そこで警視庁武術大会が開かれ、そこで、柔術、剣術、相撲の天覧試合が行なわれることになっている。  その柔術試合の出場者を選ぶにあたっては、三島から相談を受け、何人か候補者の名前を挙げている。 「何か?」  半助は問うた。  すると、三島は、おもしろそうな顔で半助を眺め、 「どうじゃ、おまん自身が出てみんか」  そう言った。 「わたしが!?」 「そうじゃ」  三島は本気である。  口元は微笑しているが、その眼が本気であることを語っている。  半助が躊躇したのは、わずかな時間であった。 「出場させていただきます」  すぐに、そう言って頭を下げた。  候補者を挙げた時に、半助は自分の名をその中に入れなかった。  警視庁の武術指南役である自分が、自ら自分の名を推薦者の中に入れるわけにもいかなかった。 「戸塚流の好地、竹内三統流の佐村、たいへんな顔ぶれだな」  武術、柔術の事情に詳しい三島は、半助が候補者の名を書いた紙を眺めるなり、そう言った。 「しかし、ひとり、名が抜けているではないか——」 「は?」 「良移心頭流中村半助の名前がだ」  冗談とも本気ともつかない口調で、三島は言った。  あの時は、まだ、三島の胆は決まっていなかったはずである。  警視庁の武術指南役という役にある以上、試合に出て、負けるわけにゆかない。勝ったら勝ったで、お手盛りと言われるかもしれない。  参加はしても、おそらく、形を見せるだけ——半助はそう思っていた。  それが——  三島の顔が本気であったのである。  迷ったのは、一瞬であった。 「そのかわり、失礼ながら、お願い申しあげたいことがございます」  三島の眼を見ながら、半助は言った。 「何じゃ」 「強い人間にあてていただきたいのです」  きっぱりとした口調であった。  指南役の人間が勝てそうな、弱い人間を当てられる——もしもそういうような試合が組まれるのなら、出ない方がいい——そういう覚悟であった。  戸塚派の好地円太郎、竹内三統流の佐村正明なら、相手にとって不足はない。 「安心しろ」  三島は言った。 「強いのを当てる。だから、おまんに声をかけたのだ」 「相手は?」 「講道館」  三島は言った。  それが、五日前のことであった。 「講道館ですか」  その時、半助は思わず三島に訊ねていた。 「知らぬか?」 「知っております」 「どのように?」 「帝大を出た嘉納治五郎という人物が起こした流派とか——」 「うむ」 「天神真楊流と起倒流を修め、その後に嘉納流柔術を起こしたと耳にしております」 「学士柔術と呼ぶ者もいるそうだな」 「はい」 「強いぞ」  三島は言った。 「はい」  中村半助はうなずいた。  うなずいた時に、ぶるりと身体が震えた。 「手を合わせたことがあるのか」 「ありません」 「何故わかる」 「三島総監が、強いぞとおっしゃったからです」  半助が言うと、からからと三島は笑った。 「うちの北島が、講道館の保科四郎という男に、手もなくやられた」 「北島が」 「うむ」 「いつであったか、起倒流の飯久保師範とお会いしたおり、嘉納師範のことを耳にいたしました」 「おお、飯久保先生か」 「はい」 「何と言っておられた」 「おもしろいと」 「おもしろい?」 「嘉納流の嘉納治五郎が、たいへんおもしろいと、子供のような顔で言っておられました」 「はは」  また、三島は笑った。  その後で、三島は、この不忍池で見たことと、講道館を北島と訪れた時のことを、半助に語って聴かせたのである。  相手は講道館。  講道館の誰とやるかは、まだ決定していない。 「できれば、その保科四郎という人物と試合わせて下さい」  半助は、話の後でそう言った。 「考えてみよう」 「はい」 「しかし、負けたらどうする」  言ってから、 「いや、すまん」  三島は、慌てて自分の言った言葉を取り消した。 「今のは、言わなかったことにしてくれ。つまらぬことを訊いてしまった」  しかし、もう、遅かった。 「死にます」  半助は言った。 「腹を切ります」  本気であった。 (二) 「首を吊ったのですか」  北島が訊いた。 「あそこの枝さ」  中村半助は、幹から伸びている太い枝を指差した。 「いい枝ぶりだったんでな、東京へ出てきた時、あの枝でぶら下がったのさ」  有名な話である。  明治十六年、春。  ふらりとここへ姿を現わした半助は、桜の枝に縄を掛け、輪を作ってそれに自分の首を差し込んでぶら下がったのである。  見ていた花見客たちは驚いた。  まさか、このいかつい身体と面相の男が、ここで首を吊るとは思っていなかったからである。  縄を掛けるのを見ていた人間もいるが、首吊りのための縄とも思えず、飲んで話をするのに夢中で、半助が何をしようとしているのか、ずっと見ていたわけではない。こんなに人目のあるところで、首を吊るような人間がいるとも考えにくい。  気がついたら、半助が、桜の枝から垂らした縄で、首を吊ってぶら下がっていたのである。  大騒ぎとなった。  人が集まってきて、たちまち人だかりができた。 「首吊りだ」 「誰か、下ろしてやれ」  人々がそんなことを口にしていると、半助の手が動いて、顎の下に食い込んでいる縄を両手で掴み、首をはずして、ぽんと下に降りた。  けろりとした顔で花見客たちを見回わし、 「これは、いたずらが過ぎたか」  そうつぶやいた。  その頃には、見回わりの巡査たちが集まってきて、 「何事だ」  花見客の輪の中に入ってきた。 「いや、いつもの稽古をしてただけなのだがな」  半助は言った。  半助は、首が太い。  その首を鍛えるために、縄に首を掛けてぶら下がる。それが、半助にとって、いつもやっている首を鍛える稽古なのである。  普通、首を吊って死ぬというのは、窒息して死ぬのではない。  多くは、自らの体重を首の筋肉が支えきれずに、頸椎が抜けてしまうのである。これによって、脳へ向かう血流が止まって人は死ぬのである。  すぐには死ねず、痙攣をする。  身体中の穴という穴から、糞、小便、涙、鼻汁、ありとあらゆる液体を垂れ流して死ぬ。  とても、花見向きの光景ではない。 「名は?」  巡査に問われ、 「中村半助」  半助は答えている。 「とにかく、来い」  桜田門まで連れてゆかれ、そこで初めて、巡査たちは、この中村半助という男が、新しい柔術指南役として九州から出てきた人物であるということを知るのである。  そこで初めて、半助はまだ、総監となる前の三島通庸と出会ったのである。 「よかよか」  三島は、話を聴いて、笑いながらうなずいた。  こういった武勇伝を、三島は好む。 「おまん、なかなかおもしろか人物じゃ」  中村半助が東京へ出てきた時、このようなことがあったのである。  中村半助。  その風貌から、人は、この男を鍾馗の半助と呼んだ。  九州時代に、おもしろい逸話がある。  修行と称して、九重の山に半助が入っていた時、山道で追いはぎに遭った。  相手は四人である。 「金目のものを置いてゆけ」  刃物を出して脅された。  言われるままに、たいした額ではなかったが、持ち金を全て差し出し、着ているものまで渡して、褌ひとつの姿となった。  追いはぎたちが去ろうとすると、 「こら、待て」  半助は言った。 「こんどは、わしが追いはぎじゃ。そっちのもんを渡さんか」 「なんだと」  向かってきた追いはぎたちを、たちまちぶちのめしてしまった。  刃物を持った者もいる、屈強の男たちが四人、この半助に手も足も出ず、逆に身ぐるみはがされてしまった。  この追いはぎたちが、後に捕まって、半助のことを、 「まるで鍾馗さんのごたる」  このように語ったのが、鍾馗の半助の名の由来である。 「いや、なつかしい」  半助は、枝を見あげながら、つぶやいた。  その後、半助は、そこで北島の口から四郎のことを聴いた。 「なるほど、宙で回わって、また下駄の上に降りたか」  おもしろそうに、半助がうなずく。  まるで、男たちを池に投げ込んでいる四郎の姿を眼で追うように、半助の眼光が鋭くなっている。  ひとしきり話を聴いた後—— 「では、始めるか」  半助は言った。  立ったまま、両袖を抜いて、上半身裸となった。  おそろしく太い、厚みのある半助の上半身が露わになった。 「講道館との稽古始めじゃ」  半助は、北島を見た。 「突け」  無造作に言った。  あらかじめ、自分が何をするかわかっていたかのように、北島は無言でうなずき、持っていた六尺の棒を構えた。 「やっ!」  気合を込めて、北島が、その棒を突き出した。  六尺の棒の先端が、半助の腹を突いた。  鈍い音がした。  かなりの力が込もっている。 「まだまだじゃ」  半助が言うと、さらに力を込めて、北島が棒を突き出す。 「もっと力を込めよ」  言われるままに、北島が全力を込めて半助の身体を、脇と言わず、腹と言わず、胸と言わず、突いてゆく。  たちまち、半助の全身が赤くなってゆく。 「次は首じゃ」  赤い顔をして、半助が言う。  北島の持った棒が、今度は半助の喉を突いた。  その棒が、半助の首の筋肉に押されて跳ね返される。 「遠慮するな」  半助の言葉に、さらに北島が力を込める。  六尺の樫の棒で、首を突かれながら、半助は愉快そうに笑みを浮かべていた。 (三)  中村半助は、弘化二年(一八四五)九州の久留米に生まれている。  父は久留米藩士中村半左衛門——藩の御馬廻組であった。  この当時、久留米は、柔術王国であった。  明治初年——人口僅かに二万人ほどでありながら、道場の数は十一余りをかぞえた。  鳥飼村字白山に、森田郷蔵、藤戸鉄太郎の二道場。  同じく鳥飼村津福に空閑勝右衛門の道場。  原古賀に赤司八郎の道場。  荘島町に古賀仁右衛門、石井覚助の道場。  蛍川町に久富鉄太郎、萩原仁作の道場。  洗町に西村軍司の道場。  この九道場は、いずれも足軽、町人の道場であった。  士族の道場としては、櫛原町の下坂、赤松の二道場がある。  半助が学んだのは、この士族道場であった。  道場主である良移心頭流下坂才蔵は、藩の柔術師範役で、もともとは禄高二百石の武士であった。  半助は、幼少の頃からこの下坂道場に通い、良移心頭流を学んだのである。  道場とは言っても、その多くは、道場としての建物を持っていたわけではない。  道場主の家の庭に莚《むしろ》を敷いて、それを道場の代わりとしたり、蔵の中にやはり莚を敷いて、それを道場としていたのである。  さすがに、士族の下坂道場は畳であったが、それでも畳二〇枚ほどの広さしかなかった。  この当時柔術は、形稽古がほとんどで、乱取りを中心としたものではなかったため、その広さでも充分であったであろう。  半助は、並はずれて膂力が強かった。  十五歳の時には、両手に米俵一俵ずつを持って、軽々と肩に担ぎあげ、走ることができたという。  十七歳になった時には、師の才蔵でさえも、乱取りでたじたじとなることがあった。  半助の兄弟子に、上原庄吾という男がいた。  半助よりも二歳ほど歳上である。  半助が十八の年——  稽古が終わって半助が汗を拭いていると、 「おい、いくばい」  この庄吾が声をかけてきた。 「どこに行くとですか」  半助が訊ねた。 「おもしろかところじゃ」  庄吾は、それしか言わなかった。  古参の宇高権太夫は、庄吾が半助をどこへ連れてゆこうとしているのかわかっているのか、 「おもしろかところじゃ」  庄吾と同じ言葉を、笑いながら言った。  半助が、庄吾に連れられて道場を出たのは、夕刻であった。 「よか月が出とる」  空を見あげて、庄吾はそうつぶやいた。  無言だった。  がらりごろりと、下駄を鳴らしながら、石の混じる道を庄吾は歩いてゆく。  その後ろから、半助がついてゆく。  筑後川に出た。  土手の上にあがった時には、もう夜であった。  月が明るいため、灯りの必要はなかった。  河原には、葦が生え、薄が生えている。  そのむこうに、筑後川の太い水が黒々と流れているのがわかる。  水面に、月の光が映っている。 「ここじゃ」  土手の上をしばらく歩いて立ち止まり、庄吾は半助を見た。 「ここから、二ツ橋まで歩いてゆけばよか」  上流の二ツ橋まで、およそ二里。 「行って、どうするとですか」 「もどってくればよか」 「それが、おもしろかこつですか」 「そうじゃ」  わけがわからず、さらに問おうとする半助に向かって、 「ゆけ」  庄吾は短く言い捨てた。 「おいは、ここで待っとる」 「はい」  半助は歩き出した。  右手に、筑後川が流れている。  風が、半助の髪を揺すってゆく。  下駄を鳴らして、半助は土手の上を歩いてゆく。  道の左右は、草が生えている。  草の葉先が、半助の袴に触れる。  月が、半助の影を足元に落としている。その影を踏みながら歩いてゆくと——  人の気配があった。  土手の右下の薄を分けて、黒い人影が姿を現わした。  その人影が土手を登ってきた。 「もの盗りではなか」  人影は、半助の行手を防ぐようにして立ち、そう言った。 「辻投げじゃ」  言うなり、人影はいきなり半助に掴みかかってきた。  半助は、その人影の襟と袖を取った。  相手が、半助に投げを打ってきた。  しかし、半助の身体はびくともしない。 「貴様、やわらばやっとっとか」  その言葉を言い終えぬうちに、相手の身体は一回転して、地に背から叩きつけられていた。  畳の上ではない。  下は土であり、石も混じっている。  男は、立ちあがれない。  苦しそうな呻き声をあげている。  まだ、道の半分も歩いていない。  また、半助は歩き出した。 「待て——」  下から声がした。  もうひとり、男が上ってきた。 「おはん、やわらばやっとろうが」  男は、半助の前に立って、構えた。  さっきの男とは違い、すぐに向かってこようとはしない。  半助は、かまわず歩いていった。 「む」  男が退がる。  半助が前に出る。  男が退がる。 「退がらんでゆけ」  土手下から、また別の男の声がかかった。  男は、足を止めた。  自然に間合に入った。  男は、手を伸ばし、組むとみせて、いきなり蹴りを半助の水月に当ててきた。  当て身である。  半助の腹に、男の中足が蹴り当てられた。  しかし、けろりとした顔で、半助は立っている。  分厚い腹の筋肉が、男の蹴りを受けとめてしまったのである。  男は、その蹴った右足をもどすことができなかった。その足を、半助が両手で掴んでいたからである。  半助は、男の右足を持ったまま前に踏み込み、右足で、男の地に残った軸足の左足を刈った。  男は、仰向けに倒れ、後頭部を地面に打ちつけて、動かなくなった。  しゃがんで、半助は男の鼻の前に右手をかざした。  鼻息が、微かに指先に触れる。 「息ばしとる」  土手下に声をかけ、半助は二ツ橋に向かって歩き出した。  なるほど、庄吾の言った�おもしろかところ�とは、こういう意味であったのか。  おもしろい。  半助の唇に、不敵な笑みが浮いている。  二ツ橋までは、何ごともなかった。  二ツ橋からもどってきて、さきほどのところへさしかかった。  土手の中央に、人影が立っていた。  地に倒れていたふたりの男の姿はもうなかった。  半助が足を止めると、 「おいが相手じゃ」  人影が言った。  さっき、土手下から�退がらんでゆけ�と言った男の声であった。 「おもしろか」  半助は言った。 「おもしろかじゃと?」 「うん」  半助はうなずいた。  半助は、全て呑み込めていた。  久留米の柔術を学ぶ者たちは、そこそこ技を覚えてくると、よく辻投げに出かけたりする。  夜道で、人に声をかけ、技を仕掛けるのである。  相手が逃げれば追わないが、逃げなければ投げる。  先輩が後輩を引率するかたちで、この儀式は行なわれることになっている。  それは、半助も耳にしていた。  それがこの場所だったのだ。  筑後川の土手——  自分の場合は、辻投げを仕掛ける方ではなく、仕掛けられた相手を投げるという、言うなれば、立場をかえた辻投げということになる。  今、眼の前に立った男は、さきほど自分が投げたふたりを引率してきた人物なのであろう。 「仲段蔵《なかだんぞう》」 「中村半助」  互いに名を名のりあった。  こういう時、名を名のりあうのかどうか、半助にはわからない。  相手が名のったから、自分も名のったまでである。  本気だ。  相手も、自分も。  相手の気合が、夜気を通して、ひりひりと伝わってくる。  先ほど倒したふたりの男とは、段違いであった。  相手——仲段蔵が、じわりと前に出てきた。  粘《ねば》い汗が、背にぷつぷつと生じてくる。  気合負けしそうであった。  下駄を脱ぐ。 「かあっ」  半助は、声をあげた。  自然に、身体に力が漲ってくる。  師の才蔵からは、力を抜けとよく言われるが、自分はまだそこまでの域に達していない。言葉では、力を抜くことの意味はわかるが、では身体技術として、どこをどうすれば力が抜けるのか、半助にはわからない。  今、そのわからないことをやろうとしてもだめだ。  自分にできるのは、全身に力を込め、気合を肉に満たし、この滾ってくるものをぎりぎりと身の裡にこもらせることだけだ。  それが自分のやり方だと、半助は思った。  力を抜かない。  他流と路上で試合う——自流派の道場の稽古でやる乱取りとは、根本的に違うものがあった。  死を、覚悟した。  向こうは辻投げかもしれないが、自分にはもうそのつもりがない。  相手が、さきほどのふたり程度であれば、そこそこにあしらえるが、この相手ではそうはいかない。  ここで、死ねばいい。  そう覚悟した時、背の汗が消えた。  闇の中で、仲段蔵が小さく笑う気配があった。  仲段蔵が、背に月光を受けるかたちで立っている。  その表情までは見えないが、半助には、確かに仲段蔵が笑ったように思えた。 「怖か……」  仲段蔵のつぶやく声が響いてきた。  じわりと、また仲段蔵が前に出てきた。  半助は、腰を折った。  左膝を地に落とし、右膝を立て、両手を軽く前に出して構えた。  半助の、得意な構えであった。  絶対に負けたくない時に、半助はこの構えをとる。  寝技に、自信があった。  相手が、打ってきても、蹴ってきても、組んできても、このかたちからならすぐに寝技に持ち込むことができるからだ。  立って組んだ場合、相手の有利なかたちで寝技に持ち込まれる可能性がある。このかたちであれば、どんなに悪くとも寝技に入った時のかたちを、五分と五分に持ち込むことができる。 「おもしろかこつばしよる……」  仲段蔵は言った。 「得意は寝技か」  じわりと前に出る。  もう、立てない距離に段蔵が迫っていた。  今から立とうとすれば、隙ができる。その隙を見逃してくれそうにない相手であった。  この構えで、仲段蔵と対峙するしかない。  かえって胆がすわった。  つ、  つ、  つ、  と、仲段蔵が、半助の右側に回り込んでゆく。  それに合わせて、半助は身体の向きを変えてゆく。 「しゃあっ」  仲段蔵が、左足で蹴ってきた。  蹴足。  顔であった。  浅い。  軽く顔を横に振ればかわせる蹴りだ。  かわした。  その瞬間、半助は地を蹴って前に出ていた。  立ちあがったのではない。  仲段蔵の腰にしがみつきにいったのである。  袴の腰のあたりをつかみ、引き寄せながら、左足で仲段蔵の右足を刈りにいった。  これで仲段蔵を倒し、上から押さえ込むつもりであった。  その後、腕がらみにゆく。  身体は、自然にそう動くはずであった。  が——  できなかった。  仲段蔵の腰を抱えにゆくつもりが、両手で襟を掴まれていたのである。  蹴足は、半助の動きをうながすための誘いであったのである。  強引に上に持ちあげられ、半助は立たされていた。  何という腕力か。  足のように太い腕が、半助の襟を捕えていた。 「くむう」  半助も、仲段蔵の袖と襟を掴んで、引き寄せた。  力の真っ向勝負をしてやるつもりであった。  力なら、自信がある。  動かない。  仲段蔵は、びくともしなかった。  地に根を生やした、太い岩を抱いているような気がした。 「む」 「む」  動かない。 「おもしろか」  仲段蔵がつぶやいた。  仲段蔵の身体の中から、むりむりと力が膨れあがってきた。  負けるか。  半助も、力を込める。  肉の内部から、これまで自分でも思ってもみなかったような力が、滾々と溢れ出てくる。 「むう」 「むう」  動かない。  その時—— 「どげんした、半助——」  向こうから、声が聴こえてきた。  庄吾の声であった。  下駄の音が近づいてくる。 「やめじゃ」  仲段蔵が、半助の耳元でつぶやいた。  すうっと、仲段蔵の身体から力が抜けてゆくのがわかった。  離れた。 「強かのう」  仲段蔵は、数歩退がって、そこに脱ぎ捨ててあった自分の下駄を履いた。 「帰るぞ」  声をかけると、土手の下から、さきほど半助が投げた男がふたり、姿を現わした。  もう、仲段蔵は背を向けて歩き出している。  ふたりの男は、半助をちらりと見やってから、仲段蔵の背を追った。  半助は、背で息をしていた。 「半助——」  庄吾が近づいてきて、肩に手を置いた時、半助は、そこにへたり込みそうになるのを、かろうじてこらえていた。  膝が、小さく震えていた。 「何じゃったんじゃ」  庄吾が訊いた。 「三人目ですたい」 「三人目」 「二人、投げたとです」 「で、今のが三人目か。なかなかの相手のようじゃったな」  事情を、ひととおりは心得ているらしい庄吾が言った。  やはり、庄吾は、半助をここへ腕試しにつれてきたのである。  今夜あたり、どこかの道場の者が、辻投げに出るという噂を、あらかじめ耳にしていたのだろう。 「仲段蔵と言っとりました」 「なかだんぞう?」 「はい」 「赤松道場の仲段蔵か」 「知りません」 「関口新々流赤松道場の仲段蔵と言えば、赤松要助師範の門弟の中では、一、二を争う男ぞ」  庄吾の声が高くなった。  関口新々流赤松道場というのは、すでに記した通り久留米にある士族道場ふたつのうちのひとつである。  伝書によれば、同流は、関口弥六左衛門尉義家より渡辺四郎兵衛重金に伝え、さらに赤松十郎左衛門に伝えられた流儀である。  十郎左衛門が、子の赤松要助に伝え、その要助が今、赤松道場の主となっている。  その門弟は数いるが、中でも佐田門兵衛、佐田庄蔵、そして仲段蔵の名が知られている。門兵衛と庄蔵が、すでに四〇歳を越えていることを思うと、まだ二〇代の仲段蔵が、赤松道場の筆頭であるといっていい。 「あの仲段蔵としばらく組みあって、無事じゃったというわけか」  半助は、うなずくよりほかない。  仲段蔵という人物が、どういう人物であるか、半助はほとんど知らない。知らぬからこそ、やれたことでもあった。  帰りながら、 「どげんやった」  庄吾は、半助に問うた。 「よか気分です」  半助は言った。 (四)  良移心頭流の中村半助が、筑後川の土手で、関口新々流の仲段蔵と闘って分けたという話は、たちまち久留米の柔術道場の間に広まった。 「そげな噂がひとり歩きするのは好かんな」  そう言ったのは、宇高権太夫であった。  宇高は、良移心頭流の下坂道場では、古参であった。  明治に世がかわるまでは、禄高二百石の武士であった。  まだ若い頃、誤って畳針を掌に刺したことがある。左手の平から甲まで、針が突き抜けた。  これを抜いて繃帯をしていたところへ、他流試合を所望する人物が下坂道場にやってきた。  他の門弟たちが相手をすることとなり、いざ立ち合いという時に、道場に治療を終えた宇高がもどってきた。  他流試合の相手の様子を見て、いましも立ち合おうとしている門弟に、 「やめた方がよか」  そう言った。 「おいが相手ばしよう」  門弟たちは止めた。  宇高は、左手に怪我をしている。  片手で相手と闘うことになる。 「片手でも、おはんたちよりは、分がよかろう」  そう言って、他流試合の相手と立ち合った。  この相手と、宇高は片手で闘い、結局逆十字腕拉に極めて、勝っている。  相手がよほど強く、そして、宇高はさらにその上をゆく強さを持っていたという逸話である。  生死をかけるような闘いも経験し、柔術をやる人間たちの心の機微をよくわかっている。  その宇高が、半助に自重せよと言った。 「はい」  半助はうなずいた。  相手の仲段蔵にとっては、他流派の若い者と闘って分けたと言われるのは不名誉なことであり、心外であろう。  もし、あのままやっていたら——  おそらく、負けていたのは自分であろうとも半助は思っている。  上原庄吾がやってきたから、向こうから退いたのである。  闘いの最中に、あのようにすうっと力を抜いて、相手から離れることなど、自分にはできない。それができたということは、まだ、仲段蔵にはゆとりがあったということである。  自分は、あれが精一杯であった。  やっていたら、負けは自分——それがよくわかる。  宇高もそれはわかっている。  これまで、半助は、良移心頭流の中で、自分を磨くことでいっぱいであった。他流派の名くらいはわかるし、師範の名もわかるが、仲段蔵の名までは記憶になかったのである。  今になってみれば、そういう名前があったなとわかるが、筑後川の土手では、そういうことを思い出している余裕がなかったのである。  ある日—— 「行かんか——」  稽古の後で、宇高に声をかけられた。 「また、筑後川の土手ですか」 「赤松道場じゃ」  宇高は言った。 「仲段蔵に、挨拶にゆく」 「はい」  宇高が何を考えているのかわからなかったが、半助はうなずいた。  出かける時に、宇高は、一升徳利を一本ぶら下げた。  中に入っているのは、焼酎である。 「な」  宇高は、その一升徳利を持ちあげてみせた。 「はい」  ようやく、半助にも、宇高が何を考えているかが呑みこめた。  赤松道場で、声をかけると、門弟たちが姿を現わした。  その多くは、宇高の顔を知っている。  その中には、あの時、半助が投げた男たちもいた。 「仲段蔵|先生《しぇんしぇい》にお会いしたか」  宇高が、飄々として言った。  道場に通された。  稽古衣姿で、仲段蔵は正座をして宇高と半助をむかえた。  半助は、宇高と一緒に、仲段蔵の前に座した。  宇高と仲段蔵は、すでに旧知の仲である。  短い挨拶をして、宇高は一升徳利を置いて、それを仲段蔵の方へ押しやった。  半助は、畳に両手を突き、 「筑後川土手での御教授、ありがとうございました」  頭を下げた。  仲段蔵は、からからと声をあげて笑った。 「気にばせんでよか」  顔をあげた半助に向かって言った。  くったくのない声であった。  宇高に向きなおり、 「それにしても、下坂|先生《しぇんしぇい》は、よかお弟子を持っちょりますなあ」  また笑った。  酒盛りになった。  さすがに道場でというわけにはゆかず、筑後川の土手へ出て、赤松道場の道場生たちを交えて、酒を飲んだ。  仲段蔵が、下坂道場に知らせをやったため、残っていた上原庄吾も加わって、月明りの中で深夜まで飲みあかした。  この仲段蔵が敗れたという知らせが、中村半助のもとに届くのは、この時からおよそ二〇年後のことである。  相手は、佐村正明。  熊本の竹内三統流の柔術家であった。 (五)  中村半助が、所帯を持ったのは、慶応五年(一八六五)二十一歳の時であった。  相手は、荘島町の徒士、浅田唯三郎の娘ふじである。  おふじは、荘島小町と呼ばれていた美しい女性で、このおふじの方が、半助を見染めて一緒になったのである。  おふじ、十八歳。  それから三年後に、時代は明治と移っている。  武士であったというだけでは食べてゆけぬ時代となり、柔を教えるにしても、それで充分な収入を得られるわけではなかった。  柔術王国久留米にも、時代の波は押し寄せていたのである。  半助が始めたのは、鮮魚商であった。  魚屋である。  海から遠かった久留米は、魚と言えば干物か塩漬けが多かった。活きのいい魚が数多く入るわけではない。  すべて、海辺の村や町から自分の足で運んでこなければならない。たいへんな荒仕事であった。  これを、半助はやった。  毎朝、午前三時に起きて、仕入れに出かけねばならない。  この頃は、まだ、久留米には車力《しゃりき》というものがなかった。どのような荷も、馬や牛に乗せるか、人が筋力によって持ちあげ、運ぶしかなかったのである。  久留米から柳川か沖の端まで——片道五里(約二〇�)——天秤棒を担いで、この距離を毎日往復する。午後の三時には久留米にもどって、魚を売り捌かねばならない。  残った魚は塩漬けにする。  これが半額になる。  楽な仕事ではない。  久留米の業者間の競争は、苛烈であった。  その闘いの中に、半助は入っていったのである。 「これも柔も、人の生きる道ということではかわりない」  半助の体力は、超人的であった。  半助は、誰よりも重い荷を、誰よりも早く担いで久留米に運んだ。  半助の魚は活がいい——そういう評判がたち、得意先もできて、魚が売れ残ることはめったになくなった。  しかし、柔術の修業ができない。 「これが修業じゃ」  半助はそう言って、限界以上に荷を重くした。  もともと、並はずれて力が強かったのだが、この�修業�で、足腰はさらに強くなった。  明治一〇年になって、久留米にも車力が見られるようになった。  荷を乗せ、人が引いて動かす車である。  大八車と同様のものだ。  久留米から柳川までの道が、こういった車が通ることができるように整備されたこともあり、それまで天秤棒で魚を担いでいたのに比べ、この車を使うと、これまで以上の荷を運ぶことが可能となった。  困ったのが、他の同業者である。  天秤棒の時代は、他人より多く運ぶといっても、量はタカが知れている。しかし、魚を運ぶのに車を利用するとなると、その量はかなりのものになった。  半助は、この車で他人の三倍の量を誰よりも速く久留米に運んだので、他の業者の魚が売れなくなった。  同業者何人かが、これを恨んで、一度、半助をひどい目に遭わせてやろうということになった。  いずれも、仕事柄、力自慢の気の強い男たちばかりである。  一対一では半助に譲るとしても、何人かでふいを襲えば、いかな半助であろうと、遅れをとることはなかろうと考えたのである。  八人が集まった。  八人は、久留米から柳川へ向かう途中の、三潴《みづま》郡大善寺のほとりの堤防をその襲撃場所に選んだ。  早朝——というよりは深夜に久留米を出て、先に現場へ着くと、八人は葦の茂みの中に身をひそめた。  半助は、いつものように、午前三時に家を出た。  残月の薄明りの中、半助は車を引いて柳川へ急いだ。  やがて、八人が待ち伏せする堤防にさしかかった。  東の空が、ようやく白みはじめたかどうかという時刻——まだ、道は暗く、靄が川からたちこめている。  車の音を響かせて、半助がその場所にさしかかった時——  葦の茂みを分けて、わらわらと八人の男が姿を現わした。  前に四人、後ろに四人、半助は八人の男に前後を挟まれてしまった。  男たちは、声を発しない。  暁闇《ぎょうあん》の中で、男たちの貌だちも判然としない。 「おいは、久留米の中村半助じゃ」  半助は言った。  その言葉が耳に届いたはずなのに、男たちの間に動揺は見られなかった。  じわり、じわりと間合を詰めてくる。 「なんじゃ、承知のことじゃったか」  腰を落として前後をうかがえば、何人か、手に天秤棒らしきものを持っている者もいる。  八人のうちのひとりに組みつき、投げようとする時に、横からその天秤棒で殴りかかられたら、半助とて危うい。頭が無防備になる。一度目はかわせても、三人、四人と続くうちには、どこかでやられてしまうだろう。  敵が八人でも、油断しているところへこちらから仕掛けてゆくのならいいが、こうきっちりと囲まれてしまっては、怪我を覚悟した方がいいかもしれなかった。相手が素手なら倍の人数がいても平気なのだが、天秤棒を持っているとなると厄介である。あの天秤棒をどうさばくか。  自分を殺すのが目的ではない。  それは、すぐにわかった。  殺すつもりなら、刃物を用意する。その刃物を持っているような男は見当らない。  怪我を承知でやりあえば、いくらむこうが天秤棒を持っていようが、何とか勝つことはできよう。  しかし、怪我をしてしまったら、仕事にさしさわりがある。  得意先何軒かから注文を受けている魚もある。 「おいは、急ぐ。一度に来んか」  じわじわと、さらに男たちが近づいてきた。  半助は、半身になって、男たちを交互に睨み、 「来んか」  男たちを誘った。  はじめからそのつもりであったのか、半助の声に背を押されたのか、 「たあっ」 「せいっ」  男たちが、声をあげて、打ち掛かってこようとした。  その時、信じられないことが起こった。  半助の横に停まっていた車が、宙に浮きあがったのである。  男たちは、ぎょっとして足を止めた。  宙に浮きあがった車が、一回転して、たちまち三人の男がその車でなぎはらわれた。  三人とも、水音をたてて川に落ちた。  しかし、車の回転は、一度では収まらなかった。  二回転、三回転——男たちが、次々になぎ倒されてゆく。  なんと、半助が片手で車を持ちあげ、それを振り回わしていたのである。  最後のひとりが、川に落ちた。  半助は、ようやく車を地に下ろした。  川に落ちた男のうちのひとりが、ずぶ濡れになって岸に這いあがってきた。  半助は、土手を降りてゆき、這いあがってきたばかりの男の前に立った。 「かんにんでございます」  男は、草の上に膝を突いて言った。  その顔に見覚えがあった。  同じ久留米の、同業者の男である。 「こげなこつばたくらんだのは、何故じゃ——」  半助が問うと、男は理由を語り、 「あなたさまを、妬んでのことでござります」  頭を下げた。  半助は、男を咎めなかった。 「人数が足らん」  半助は言った。 「あとは、ここじゃ」  半助は、どんと自分の胸を拳で叩いた。 「気合じゃ。相手を殺す気で掛からにゃ、おれは倒せんばい」  半助は、からからと笑いながら土手を歩いて登り、停めてあった車を引いて、柳川に向かって走り出した。  このようなこともあったのである。  傍目には、繁盛しているように見えた半助の商売であったが、数年後に破産した。  半助から魚を買っていた人間たちは、実は現金をほとんど払っていなかったのである。 「今日は、金がないのじゃ」  そう言われれば、金をとらない。 「金は、いつでん、よか」  だから、魚は売れても、入ってくる金はわずかだった。  さらに、半助は、この売り掛け金の取立てというのをしなかった。  おふじにそのことを言われても、 「あちらにも事情があろう」  そう言うだけでとりあわなかった。 「そげなことができるか」 「でも……」  とおふじが言えば、 「くどい」  それきり半助は口を開かない。  結局、魚屋半助は失敗であった。  半助だけではなかった。  多くの元士族が、似たような目に遭っていた。  半助同様、藩から支給されたわずかな奉還金をもとでに始めた商売は、いずれもうまくいかなかった。 「世が世なれば、おまんは日本一の柔取りになれるところじゃ」  師の下坂才蔵は、ある時、半助にそう言った。 「惜しい……」  魚屋をやっている間も、可能な限り、稽古には出ていた半助であった。 「柔の稽古ばやめるか……」  そう言ったのは、才蔵の愛情からであった。  これから、どういう商売をするにしろ、死にもの狂いにならねばやってゆけぬであろう。  そういう時に、柔の稽古をやってゆけるのか。  もしも、半助自身が言い出せぬなら、師の自分が言ってやらねばならない。  おふじも、 「あなた、こげな時にも、柔の稽古ばゆくとですか」  失業中の半助が、下坂道場に足を運ぶのを見て、そういう言葉を口にするようになった。  そういう話を、才蔵も耳にはさんでいる。  半助が、もしも、自分に義理だてして柔の稽古を続けているのなら—— 「わしへの気遣いは、無用じゃ」  才蔵が言うと、ふいに、半助の眼から、太い涙がほろりと溢れて頬を伝った。 「柔は、おいの生命です」  半助は、涙をぬぐわなかった。 「柔ばやっとったおかげで、おいは、がんばれたとです。柔ばやっとらんかったら、半年で魚屋ばあきらめちょったとこです」  半助は、畳に両手を突いた。 「死ぬ時は、稽古衣ば着て、死にたかとです」 「すまぬ」  頭を下げたのは才蔵であった。  しかし、仕事はなかった。  食えない。  いくら稽古をしても、食わねば筋力が落ちてゆく。  二十六貫(九十八キロ)あった体重が、二〇貫(七十五キロ)になった。  荘島小町とまで言われたおふじも、痩せ、やつれ、かつての美貌は見る影もない。  見かねたおふじの実家から、金を送ってよこしたが、半助はそれを全額送り返した。 「いらぬ世話じゃ」  しかし、仕事はない。  六畳ひと間の生活であった。  職捜しから帰ってくると、暗い六畳間でおふじが縫いものをしている。  一〇以上も老けて見えた。  あれほど嫌っていた、おふじの実家からの仕送りも、もらうことにした。  半助は、繊細であった。 「おいがいたらぬからじゃ……」  自分を苛めるように、稽古に打ち込み、そして痩せていった。  似た境遇の者の中には、夜逃げする人間もいれば、首を括る人間もいた。妻や娘を売る人間もいた。  元武士——潰しが利かない。  旧藩の元家老や重臣たちが、こうした藩士たちの苦境を見かね、元藩主有馬頼咸公に話をして、赤松社を設立した。  失業藩士の救済が目的であった。  久留米特産のカスリ織、竹細工|籃胎漆器《らんたいしっき》、和傘、草履表、下駄、下駄の鼻緒作りがこの赤松社で始まった。  この仕事からも、半助はあぶれた。  赤松社とても、無限に人を雇えるわけではない。雇う人間には限りがある。そこへ、予定人員に倍する人間が、職を求めてやってきたのである。 「おいはよか」  半助は、他の人間に職を譲ってしまったのである。  おふじは、泣いて半助をなじった。  おふじの実家にしても、余っている金を送ってよこしているわけではない。  元武士の事情は、どこもあまりかわらない。  しかし、ようやく仕事が見つかった。  元家老の岸が、半助のことを下坂才蔵から伝え聴いて、職を世話してくれたのである。  仕事先は、岸の遠縁にあたる、山川村追分にある酒造所であった。  そこで、半助は蔵男をすることになったのである。  半助は、そこで働きはじめた。  当時、玄米の精米は人力であった。  米搗きバッタで精米をする。大臼に入れた玄米を大きい米搗き棒に乗って、片足で踏む。この時、バッタンバッタンという音がする。この音を聴きながら、一日中同じ作業をする。単調な仕事で、しかも、重労働であった。  これも、半助にとっては稽古となった。  素足でこれを踏む時に、足の指に力を入れる。踏む棒を、足の指で掴むようにする。大外刈、大内刈、小内刈のおり、足の指が相手の足にからむ。この時、足の指で掴むようにすると、技の掛かりがいい。  俗に言うタコ足を、この時半助は作ったのである。  食べるようになり、体重がもどってきた。  半助は、四斗樽の蔵出しも自分でやった。  これは、普通ひとりではやらない作業である。  重いだけではない、運ぶ時に、中の酒が揺れて、この反動のためよほど強い足腰がないと、樽を落としてしまう。 「谷風の稽古じゃ」  半助は、笑いながらこの作業をひとりでやった。  谷風というのは、良移心頭流の技の名称で、柔道で言う肩車に近い技である。  蒸した米で、麹を作る作業があった。  はんぎりと呼ばれる桶に、蒸米を詰めて、これを二階まで運ぶ。このはんぎりには、四斗俵二俵の米が入る。四斗俵ひとつが六〇キログラムとすれば、一二〇キロに加えて桶の重さをひとりで担ぎ、半助はこれを二階まで運んだのである。  こうして、前以上に、半助の身体は逞しくなっていったのである。  だが、柔術の稽古に、道場に通う時間が、充分にとれない。  独り稽古ならば、なんとか工夫ができるが、相手が必要な稽古はいかんともし難い。  道場で、存分に稽古がしたい。  仕事中に、稽古のことを思い出すと、肉が軋み音をあげるほど苦しくなった。  半助は、歯を噛んで、その衝動に耐えた。 (六)  明治十五年——  半助三十八歳の時に、その事件は起こった。  あえて過激な表現をすれば、それは、久留米対熊本の、九州柔術戦争とでもいうべきものであった。  久留米が柔術王国であったとすれば、一方の雄熊本は、柔術大国であった。  久留米と熊本、ただひとり、代表者を出しあって、どちらが強いかを決めるのであれば、時と人によって勝敗はわからないが、双方一〇人ずつを出し合って闘えば、勝ち越すのは熊本であろうと昔から言われてきた。  熊本は、旧細川藩の城下町で、昔から武術には力を注いできた。  晩年の宮本武蔵が身を寄せていたのも、この熊本——細川藩である。  名のあるところをあげれば、まず、竹内三統流の佐村正明、矢野広次《やのひろつぐ》、富永三省。関口新々流の新居保愛などがいた。  この佐村正明が、柔術武者修行ということで、筑後は久留米の柔術王国に闘いを挑んできたのである。  まず、最初に佐村の相手をしたのは、範田六郎が師範をやっている古賀仁右衛門の道場であった。  一〇人。  そういう約束であった。 「一切おまかせ」  そういう佐村に、一〇人という約束をしたのは、範田であった。  佐村が勝てば、負けるまで次々に人をあててゆけば、佐村がいつかは負ける。  そうしないための決めごとであった。  佐村は、ただひとり、自分の弟子である矢野広次を伴ってきただけであった。  たとえ、一〇人でも、この全てに勝つのは容易なことではない。  熊本の佐村と言えば、久留米でも、柔術関係者なら知らぬ者はない。  この頃、試合時間に制限はなかった。  どちらかがまいったをするか、一方が気絶するまで、試合は続けられる。  あとは、立ち合い人が試合を止める権限があるだけだ。  打撃技である当て身——突き、蹴りも許される方式の試合である。  最初の木村彦一を、佐村は締めて落とした。  次の加川和成を、逆十字で極めた。  次の志泉源三を、頭から投げ落として一本。  次の、伊々村耕之介を、逆十字で一本。  次の、沢村善一郎は、首を極めて一本。  次の、阿彦修三郎も、首を極めて一本。  次の、岸信之も、首を極めて一本。  次の、市山一馬を、締めて落とした。  次の、南原正吾を、首を極めて一本。  最後に、師範の範田が佐村とたちあった。  これが、二〇分に亘る熱戦となった。  さすがの佐村も、疲れて技が決まらない。  範田が、足を掛けて倒しにいったところへ、佐村自身が、自ら仰向けに倒れ込んだ。  この時、佐村の右腕が、脇に範田の首を抱え込み、そのまま上になった範田の首を極めて一本を取ったのである。  異様な強さであった。  一日休んで、次の日に訪れたのが、関口新々流赤松道場であった。 「おいひとりでよか」  そう言ったのは、仲段蔵であった。  誰もが認める、赤松道場随一の使い手である。  その強力、胆力、久留米に並ぶ者なしと言われている。  この時、仲段蔵三十九歳。  脂が乗りきっている。  二〇代の頃のような、無尽蔵の体力こそ幾らか落ちてはいるものの、膂力はさらに増して、技の円熟度も二〇代よりは上だ。  総合力では、今が一番強いと言える。  組んだ。  動かない。  仲段蔵は、強力で佐村の体を崩そうとしたが、動かない。 「くむう」 「くむう」  互いに鼻で呼吸をしながら、相手を崩そうとするのだが、道場の中央で組み合ったまま、床に根が生えたごとくに動かない。  ふたりの顔が、互いに赤くなってゆく。  力の比べ合いである。  意地の勝負であった。  五分、動かなかった。 「互角か」 「うむ」  互いに、短く言葉を吐いて、投げ合いになった。  動きながら、両方で技を仕掛けてゆくが、これがきまらない。 「やるのう」 「おんしこそ」  組むとみせ、佐村が段蔵の胸に肘を入れる。  段蔵はびくともしない。  離れて、段蔵が佐村の水月に蹴足を入れる。  佐村の腹筋がそれをはじき返す。  組む。  打つ。  蹴る。  三〇分が経って、まだ、勝負がつかなかった。 「愉快じゃ」  仲段蔵が、組みながら言った。 「おもしろか」  佐村がうなずいた。  どちらも、その唇に笑みを浮かべていた。 (七)  仲段蔵が、佐村正明に負けたという知らせを、半助が聴いたのは、その日の晩であった。 (八)  それは、次のような試合であったという。  最初は、互いに互角であった。  力、五分と五分。  組んで決まらず、当て身も使った。  互いに、打ち、蹴った。  それでも、勝敗が決しない。  試合開始から三〇分が過ぎたかと思われる頃、ようやく、ふたりの闘いに微妙な変化が現われてきた。  仲段蔵に、疲れが見えてきたというのである。  佐村正明が、丈五尺六寸(一六九センチ)、重さ二十五貫(九十四キロ)。  対する仲段蔵が、丈五尺一寸(一五五センチ)、重さ二十一貫(七十九キロ)。  身長差五寸。  体重差は四貫もある。  明治の平均から考えれば、佐村は大兵であり、仲段蔵は、身長に関してはやや小兵ということになる。  仲段蔵が、先に疲れてきたのは当然であった。  最初に寝技に誘ったのは、仲段蔵であった。  仲段蔵は、佐村の襟を掴み、自ら仰向けに倒れ込んだ。佐村を引き込んで、寝技に誘ったのである。  これに、佐村がつきあった。  仰向けになった仲段蔵の上に、佐村が被さるかたちになった。  しかし、完全には身体が重ならない。  仲段蔵が、自分と佐村の身体との間に、両膝を入れていたからである。 「む」 「く」  ふたりの身体が、互いに有利なかたちになろうとして、もつれ合う。 「やるのう」 「おんしこそ」  仲段蔵が言えば、佐村が答える。  仲段蔵が、上になった。  道場が、わっ、と沸いた。  仲段蔵は、投げも鋭いが、本領は寝技にある。 �腕折り段蔵�  これが、久留米での仲段蔵の通り名であった。  寝技で、相手の腕を取り、腕拉ぎに極める。  疾い。  いったん、仲段蔵がこの技に入ったら、誰もそれをかわすことはできない。  十度やれば十度、百度やれば百度、一度の失敗もなくこの技を極める。  どのかたちからも、段蔵は腕を取りにゆけるが、寝技で相手の上になってから仕掛ける時が多い。  この時、誰もが仲段蔵の勝ちを確信した。  しかし——  上になった仲段蔵は、動けなかった。  下から、仰向けになった佐村正明が、仲段蔵の腰を、両脚の間に挟んでいたのである。さらに、佐村は、その右脇の下に仲段蔵の首を抱え込んでいたのである。  佐村が、仲段蔵の首を、右腕でしぼりあげる。 「ぐむう」  仲段蔵がこらえる。  その体勢のまま、佐村が、背を反らせるようにして、両脚を巻きつけている仲段蔵の腰を、向こうへ押しやるようにした。 「む……」  仲段蔵の呻く声が止まった。  声が出ない。  完全に首が締まった。  仲段蔵は、声も、呻き声すらもあげずに、もがいた。  両手で佐村の腕をはずそうとしたが、はずせない。  次に、仲段蔵は、両手を畳に突き、身を起こそうとした。  仲段蔵の上体が持ちあがる。  佐村の背が、畳から浮きあがる。  膝で、畳をよじる。  見る者の息がつまるような光景であった。  一瞬——  仲段蔵が起きあがるかに見えた。  が、次の瞬間、仲段蔵と佐村の身体は、ふいに、支えを失ったように畳の上に落ちた。 「それまで——」  試合の立ち合い人をしていた道場主の赤松要助が声をあげた。  仲段蔵の下になっている佐村が、右腕の力を抜いた。  仲段蔵の首に回わされていたその腕が解かれても、仲段蔵の身体は動かない。  仲段蔵は落ちていた。  ゆっくりと、佐村が仲段蔵の身体の下から這い出てきた。 「強かァ」  佐村は、そう言いながら、身を起こし、 「冷や汗ば掻きもした」  正座をした。  佐村正明は、まだ意識を失っている仲段蔵に向かって、一礼をした。 (九) 「そいで、佐村ば無事に帰したとか」  いつになく、激高した声で言ったのは、上原庄吾であった。  下坂道場であった。  仲段蔵敗れる——この知らせを聴いた下坂才蔵の弟子たちが、もっと詳しい話を知りたがって、道場に集まってきたのである。 「そげんこつのごたる」  話を聴き込んできた、門弟の加藤が言った。  活を入れられ、蘇生した仲段蔵は、身を起こしてそこに座し、 「御教授、ありがとうござりました」  頭を下げた。 「強かのう、佐村どん」  仲段蔵は言った。 「おいに仕掛けたあの技は何じゃ」  仲段蔵が問うた。 「おいの工夫じゃ。�亀の首取り�言うちょります」  佐村は答えた。  その後、佐村正明と矢野広次は着替え、出された茶に口もつけずに、赤松道場を出ていったという。 「いつじゃ」  上原庄吾が訊ねた。 「今日の昼です」  加藤が答えると、上原庄吾は、 「糞」  くやしそうに拳で膝を叩いた。 「なんじゃ、そのくやしがりようは。ついさっきのことじゃったら、追うて佐村どんば闇討ちにでもしようっちゅう胆か」  宇高権太夫が言った。 「そげなこつじゃなか」 「ほう」 「追って、試合ば申し込むつもりじゃった」  上原の両の拳が小さく震えている。  中村半助は、それを見ながら、心臓の鼓動が速くなるのを押さえかねていた。  あの仲段蔵が負けた——  その想いが、脳裏と言わず、全身を駆けめぐっていた。  仲段蔵の強さは、自分もよく知っている。  上原庄吾に連れてゆかれた筑後川の土手で、組んだことがある。  底の知れぬ強さを持った男だった。  その後、赤松道場と交流するようになってからは、何度か一緒に稽古もしたことがある。  この久留米でも、屈指の強さを誇る人物だ。  その仲段蔵を、ただ敗っただけではなく、落としたということではないか。  自分だったら勝てるか——  半助は自問した。  勝てる、という意識はない。  しかし—— �闘いたい�  その思いが身の裡に膨れあがってくるのを押さえきれなかった。  自分が、これまで修業してきたもの、この身体の中に、血を吐く思いで積み重ねてきたものが、どこまでその佐村正明に通用するか、それを試してみたかった。 「そげなこつなら、わざわざ今追わんでよか——」  そう言ったのは、道場主の下坂才蔵であった。 「むこうは、熊本から逃げやあせん。いつでん行って、試合ば申し込めばよか」  才蔵は言った。 (十)  下坂才蔵の言ったことが、二カ月後に実現することとなった。  久留米から、熊本まで下坂道場の者が出かけてゆき、向こうで試合うことになったのである。 「殺し合いばしにゆくわけじゃなか」  才蔵が、そう言って、まず熊本に手紙を書いた。  相手は、佐村正明のいる、熊本の竹内三統流矢野道場の道場主、矢野広英《やのひろひで》である。  広英は、竹内流の十代師範竹内藤一郎久雄に竹内流を学び、熊本で竹内三統流を起こしてその祖となった人物であった。  佐村正明が久留米に伴ってきた矢野広次は、広英の息子であり高弟である。  手紙の内容は、次のようなものであった。  自分の道場の門下生たちが、一度熊本へ出て矢野道場の�御稽古を拝見したい�と言っているのだが、右いかがなものか。御配慮の上、よろしく取りはからっていただきたい。  才蔵と広英は、かねてからの知り合いである。  こういう手紙を書けば、向こうはどういう意味かわかる。  しばらく前に、竹内三統流の佐村正明に久留米の柔術家が敗れた。この雪辱をしたいと門下生たちが言っている。門下生たちは本気であり、放っておけば勝手にそちらに乗り込んで行きかねない。そうさせるわけにはゆかず、このままにもしておけない。そこで、何人かをそちらにやって、試合をさせたい。きちんとした立ち合い人をおいて試合うのなら、大事にはならぬであろう。意趣も残らぬであろうし、互いの修業にもなろう。よろしく頼む。  そういう意を汲むことのできる手紙であった。  広英は広英で、佐村と広次が、久留米で何をやってきたかはわかっている。そのことについては、いずれ、久留米の方から何らかの反応が返ってくるであろうとは考えていたところだ。  無視するわけにはいかない手紙であった。  広英は、承知したという旨の返事を書いた。  実質上は、試合の申し込みが久留米の下坂道場からあり、熊本の矢野道場がそれを受けたというかたちになった。  表向きは、出稽古。  実質は試合。  熊本に行く人間が決まった。  宇高権太夫。  上原庄吾。  妹尾季之進。  野田碌郎。  中村半助。  下坂道場の精鋭である。  下坂才蔵は、実力者ながらすでに老いていることを考えると、良移心頭流という流派の頂点の五人といっていい。  他にも、良移心頭流を看板にした道場は全国に幾つかあったが、他道場よりも下坂道場が飛び抜けた実力を持っており、その中でもこの五名がさらに抜きん出た強さを持っていたということである。  嘉納治五郎が、講道館を創立する年のことである。  余談ながら、書いておけば、もしもこの時期に、治五郎と同じ理念を抱く人物が、久留米か熊本に現われていたら、今の日本の柔術地図——あるいは柔道界は、また別のものとなっていたろう。  柔術諸流派の心ある人々は、柔術が過去のものになりつつあるという現状を憂えていた。治五郎もまた、そういう人々のひとりであった。  ただ、治五郎が他の人々と違っていたのは、理念を持っていたことである。  新しい時代に、柔術はどうあるべきかというビジョンを、治五郎は持っていたのである。治五郎の視界の中には、常に世界が入っており、欧米が日本にもたらした文明を理解していた。  その中で、治五郎は柔術というものを位置づけることができた人物であった。こういう時代であるからこそ、欧米や世界に向けて、柔術というものが日本にとって必要なのであると、治五郎は歴史の確信犯として考えていたのである。  さらに書いておく。  もしも、柔術諸流派と柔道との闘いが、明治十九年になる前——明治十五年から十八年の間に行なわれていたら、今日の柔道の発展はなかったか、一〇年か二〇年は遅れたであろう。その結果、現在の社会における柔道の位置は、やはり別のものになっていたに違いない。  これまでに書いたことを、繰り返すことになるが、今、振り返ってみるに、嘉納治五郎というひとつの人格の中に、当時の日本の先端のインテリジェンスと、究極の肉体論とでも言うべき柔術という、一見すれば矛盾するようなふたつの体系が同居できたことが、ある意味では奇跡であったのである。  話をもどしたい。  ともあれ、久留米柔術対熊本柔術の第二回戦は、前述したようなかたちで決まったのである。  ただし、表向きが出稽古であったことはすでに記した。  つまり、あらかじめ、下坂道場の誰と矢野道場の誰が闘うということは決められぬまま、五人の出発が決まったのである。  下坂道場から五人、矢野道場から五人。  五対五の試合ともなれば、当然、どちらにも勝つ者、負ける者が出てくる。  これは、ある意味では全面戦争の体を帯びてくる。  それは、望ましくはなかろうという考えが、才蔵にも広英にもあった。  出稽古の流れの中で、最後にそれぞれ一名ずつ代表を出して、試合わせるのがよかろうという、暗黙の了解のようなものが双方にできあがっていた。  そうなった場合、こちらから出てゆく人間は誰にすべきかという話になった。  名前の通ったところでは、宇高がいて、上原がいる。しかし、実力では中村半助が門下一の使い手であった。 「半助どんで、よござっしょ」  宇高が、皆の前で下坂に言った。  これに異を唱える者はなかった。  門下生全てが、半助の実力を認めていたのである。  一対一。  つまり、負けられない試合である。  ならば、門下生で一番実力のある人間を選ぶのが当然であった。  ただし、これは、現場ではどうころぶかはわからない。突然、五対五、五試合ということになるかもしれなかった。  五人全員が、いつ自分が試合うことになってもよいという覚悟を胸に抱いている。  出発前夜——  半助のもとに、ふらりと姿を現わしたのは、仲段蔵であった。  芋焼酎の入った、徳利をぶら下げてきた。 「佐村正明は、怖か男ぞ」  段蔵は言った。 「まだ底が見えんかった」  半助と、段蔵の前に、焼酎の入った湯呑みがふたつ。  それを、時おり口に運びながら話をした。 「おいの、負けじゃった」  はっきりと、段蔵は言った。  負けた時に、言いわけが浮かばなかったのだと、段蔵は半助に言った。  もう少し、身体を鍛えていればとか、手や足のあそこに怪我をしていなければとか、あの時、あの技を仕掛けていればとか、そういう言いわけがひとつも浮かんでこなかったというのである。  やりたいことを、全てやった。  それが通用しなかった。  負け。  その事実だけがある。  負けても、もっと修業すればとか、あと何年すれば勝てるとか、そういう思いもなかったという。 「自分より、若か者《もん》に負けた時が、潮時っちゅうもんじゃろ」  自分より若い者に負けたら——  次のために、自分がどれだけ努力をしようと、若いものはさらに強くなってくる。 「もう一度試合うても、また、おいが負けるじゃろう」  三度試合えば三度、四度試合えば四度、自分が負けるであろうと仲段蔵は言った。 「こげん負け方もあるんじゃな」  諦観したような口調で、段蔵は言った。 「くやしかこつはくやしか」 「———」 「しかし、何かこう妙にすっきりしたところもある」  嘘をついているような顔つきではなかった。 「ただひとつ、未練があるとするなら、あともう一寸、丈の欲しかったこつじゃ」  そう言って、段蔵は少し笑った。 「許せ、半助。いずれ、おんしに負くるつもりじゃったばってん、先に佐村に負けてしもた」  焼酎が無くなったところで、段蔵は立ちあがった。 「これからは、おんしらの時代じゃ」  段蔵は、そう言って、半助に背を向け、夜道を帰って行った。 (十一)  五人が熊本に着いて驚いたのは、事が想像以上に大きくなっていたことであった。  久留米から柔術の代表がやってきて、熊本の代表と試合をする。  先に熊本の柔術家である佐村が久留米へ行って、あちらの柔術家たちを相手にして一度も負けなかった。  その敵《かたき》を討つために、久留米から柔術家がやってくる——遺恨試合。  そういう雰囲気が熊本中に充満していた。  熊本に着いた時から、それが伝わってきた。  宿に一泊し、翌日の朝、道場に入った時には、それが驚きにかわっていた。  竹内三統流の広い道場が、人で埋まっていたのである。  熊本の柔術諸流の代表者のほとんどの顔がそこにあった。  道場主矢野広英、その高弟であり息子の矢野広次。  佐村正明。  富永三省。  関口新々流随一の使い手と言われる新居保愛の顔もそこにあった。  熊本の名士たちや、市長の顔もあった。  新聞関係者も何人かそこにいる。  九州柔術界の覇権を賭けての一戦——  誰もがそう考えているのが、顔つきでわかる。  出稽古——というような雰囲気はどこにもない。  いや、もとより、久留米からやってきた五人にも、熊本の矢野道場の門下生たちにも、そういうつもりはもともとない。  いずれにしても、これは、周囲がこの日の意味を正確に理解したことの結果にすぎない。 「望むところじゃ」  上原は、武者震いをしながら、そう言った。 「おいはもう、生きて帰らんでよか」  妹尾は、顔を赤くして、唸るように言った。  まず、控室に通された。  そこへ顔を出したのは、道場主の矢野広英と、佐村正明であった。  短い挨拶を済ませたあと、この日の試合に誰が出場するのかを確認することになった。 「おいが、相手ばさせていただきもす」  半助が挨拶をした。  すると、矢野広英は、 「実は、竹内三統流の代表は、佐村正明ではごわはん」  と、五人に告げた。 「佐村どんではごわはんのか」  上原は言った。 「申しわけありもうさん」  頭を下げたのは、広英であった。  二日前、稽古中に佐村が怪我をしたというのである。  肋骨が一本、折れている。  そういうわけで、佐村は試合に出られなくなってしまったのであると、広英は言った。  本当か——  危うく出かかったその言葉を、上原は止めた。  佐村は、さきほどからくやしそうに歯を噛んで下を向いている。  口を開くのは、矢野広英であり、佐村はずっと無言である。  事実のようであった。 「重ねてお願い申しあげる」  広英が、また、頭を下げた。  怪我が本当なら——  もし、久留米側が勝ったら、後で熊本側は佐村が怪我をしていたから負けたのだと思うであろう。  もしも佐村が勝ったら、怪我をしていたのに勝った、そう言う人間が現われる。  人の口に戸は立てられない。  そういう噂が出れば、どちらの名誉にもならない。  しかし、それを広英は口にできない。  広英の気持は、半助にもよくわかった。  誰よりもくやしいのは、佐村本人であろうと思った。  それは、佐村の顔を見ればわかる。  もとより、相手は佐村と、はっきり決まっていたわけではないのだ。 「で、相手はどなたに?」  半助が訊ねた。  その間を発したということは、半助が佐村の欠場を認めたということであった。 「息子の矢野広次がお相手をさせていただきもす」  広英は言った。 「わかりもした」  半助は、うなずいた。 「ありがとさんでごわす」  佐村が、固い表情のまま、礼を言った。 (十二)  矢野広次——  矢野広英の息子であり、いずれは矢野道場を継ぐ人物である。  佐村正明、富永三省、新居保愛と並んで、熊本柔術界の四天王と呼ばれている男であった。  丈、五尺六寸(一七〇センチ)。  体重、二十二貫(八十二キロ)。  佐村と、矢野道場で一、二を争う実力の持ち主であり、名は久留米まで聴こえている。  不足のある名ではない。  ある意味では、道場の後継であるという分、竹内三統流にとっては佐村より重い名前であった。  しかも、佐村と共に、久留米にやってきた人物だ。  佐村の出場がなければ、自然にこの広次の出場となってしかるべき名であった。  柔術史的に見れば、この矢野広次は、後にこの熊本が生み出す柔道の英雄、�鬼の木村�こと木村政彦の誕生に関わる柔術家である。  後に、この矢野広次の弟子になる人物に、木村又蔵という柔術家がいる。  木村又蔵は、大正七年の生まれで、矢野門下に入り、竹内三統流を学んだ。  この又蔵、練浜町大和座で行なわれていた柔道対拳闘の試合に飛び入りで出場し、対戦相手を試合中に殺してしまうのである。  そのまま東京へ出奔——そこで柔道を始めた。  熊本にもどって道場を開き、揚げた看板が、�柔道�と�竹内三統流�であった。  この木村又蔵道場が、熊本の川尻尋常小学校正門脇にあったのである。  小学生の時に、木村政彦がこの道場の門を叩いたのである。  まず、月謝と入門料をとられたと、木村政彦は、後に語っている。  そのおりに、 「きみの父親は、酒を飲むか」  又蔵にそう問われた。 「飲みます」  と答えると、 「ならば焼酎ば持って来んか」  そう言われた。  初稽古のおり、木村政彦が、焼酎を一本持ってゆくと、それを受け取って、 「そこに寝ろ」  と又蔵が言う。  言われた通りに、木村政彦は道場の中央に仰向けになった。  その上に、又蔵は馬乗りになった。  又蔵は、身長一八五センチ。  体重九十五キロの巨漢であった。  その男が、木村政彦の上に乗ったのである。 「ひとつ、締め技を教えちゃろう」  又蔵は、自分の腕を交叉させ、木村政彦の両襟を握って締めた。  頸動脈を締められ、木村政彦は、落ちた。  入門者をいきなり締めて落とす——まったく奇妙な性癖の男であった。  これが、�鬼の木村�の柔術の稽古の初日であったのである。  竹内三統流の系譜には、佐村正明、矢野広次、木村又蔵、木村政彦といった、異様人といってもいい人間たちが生まれているのである。 (十三)  中村半助は、正座をして、矢野広次と対峙していた。  互いに一礼をして、顔を見合った。  矢野広次——悪くない顔だ。  背が、すっきりと伸びている。  座した姿勢に安定感がある。  いきなり背や肩を押されても、その身体は揺らぎそうにない。  道場主、矢野広英の息子だ。  二十五歳。  半助より、十二歳若い。  もの静かなたたずまいであった。  口元も、静かに閉じられており、その姿には、すでに達人の風格さえある。二十五歳とは思えない。  ただ、その眼だけに、尋常でない異様の気が宿っていた。  立ちあがり、向き合った。  立ち合い人は、佐村正明だ。  自分の息子の闘いを、道場主とはいえ、父の矢野広英が裁くわけにはいかない。  立ち合い人と言っても、基本的にそれは、今日言うところのレフェリーとは少し違う。  闘うふたりが、ルールを守るよう規制したり、あれこれのチェックをするわけではない。勝負とその決着を見届けるのが立ち合い人の役目であり、場合によっては途中で闘いを止めたりもするが、試合における反則も、勝ち負けも、それは闘う人間——当人どうしの胆《はら》が決めることである。  決着は、闘うものどうしがつける。  立ち合い人は、それを見届けるというのが基本的な役割なのである。 「始め!」  佐村が言った。  睨み合った。  動かない。  半助と矢野は、構えたまま、動かない。  それに呼応するように、この闘いを見守る人間たちも、声をあげない。  道場内の空気が張りつめ、咳《しわぶき》の声さえ起こらない。  動いた。  じわり、と半助が前に出る。  じわり、と矢野が前に出る。  まだ、耐えている。  まだ、我慢している。  もう、足の指ひとつにじり寄れば、触れ合わずにはおかない距離であった。  その距離で、どちらからともなく回わり出した。  半助は右へ。  矢野は左へ。  その距離が、ふいに縮まった。  組んだ。 「やっ」 「むっ」  組んだまま、動かない。  睨み合った。  矢野は、凄い眼をしていた。  その双眸から、体内に溜った気が、火の如くにこぼれ出してくるようであった。  半助が、ぐうっと前に出る。  矢野が、負けじと押し返してきた。  その瞬間、半助はふいに力を抜いた。  横捨て身——  自らも倒れながら、矢野を投げた。  矢野は、宙で身体を反転させ、四つん這いになる。  その上へ、すかさず、半助が巨体をかぶせてゆく。  矢野が、それを嫌って立ちあがる。  半助の右手が、矢野の左の襟を掴む。  そのまま立ちあがって組んだ。 「りゃりゃっ」 「おうっ」  組んだまま、動く。  半助が、五尺八寸(一七六センチ)。  矢野が、五尺六寸(一七〇センチ)。  体重は、半助が二十五貫(九十四キロ)。  矢野が、二十二貫(八十三キロ)。  ひとまわり以上、半助の方が大きい。  若さでは、矢野の方が分がいい。  矢野が、大外刈を仕掛けてくる。  これを、半助がかわす。  かわして、矢野の下に潜り込み、俵返しに出る。  決まらない。 「かあっ」 「てえっ」  目まぐるしく、技の攻防が始まった。  ふたりの肉体の触れあっている場所から、煙が立ち昇りそうな激しい動きであった。  闘いが始まって、十数分。 「くわっ」  矢野が、半助の頬に、右肘を打ち込んできた。  当て身だ。  半助の太い頸が、その衝撃を受け止める。  肘を当ててきたばかりの矢野の姿勢《かたち》が悪い。  半助は、当て身にゆかず、足をからめ、体重を浴びせて、矢野の身体を押し潰すようにした。 「たまるか!」  矢野が、倒れながら逃げる。  それを追って、半助が上体を被せてゆく。  逃げる。  追う。  逃げる。  追う。  横転。  反転。  また、反転。  ついに、上から、半助が矢野を押さえ込んだ。  横四方の形である。  矢野が、足と、肩と、首で、畳の上をにじるようにして逃げようとする。  しかし、どれだけ動いても、半助の身体は横四方の形のままだ。  矢野の右側から、その身体を押さえ込んでいる。  しかし、そのかたちのままでは、矢野もまいったをしない。  佐村が、それで一本を告げぬ限りは、試合は続けられることになる。  押さえ込んで一本——  この勝負が、そういう意味あいの試合でないことは、半助も承知している。  矢野の身体を押さえ込んだまま、半助は、静かに呼吸を整える。  息を吐き、息を吸う。  そして——  大きく半助が息を吸い込んだ時、わずかに押さえ込んでいた力がゆるんだ。  下になっていた矢野が、その隙をのがさない。 「ぬむうっ」  声をあげて、強引に動いた。 「馬鹿」 「罠じゃ」  熊本側の見物人の中から、そういう声が響いた。 「ひゅっ」  と、半助の唇から、鋭い呼気が洩れた。  半助は、すかさず仰向けになった矢野の右腕を両手で取り、その腕を股の間に挟み、右脚を矢野の胸の上へ、左脚を矢野の首の上に乗せながら、自らも仰向けになった。  腕|拉《ひし》ぎである。  半助は、臍《へそ》を上に持ちあげ、上体を反らせるようにした。  極まった。  矢野の右肘の関節が、みりみりと音をたてる。 「があああっ」  矢野は、声をあげた。  まだ、まいったをしない。  さらに、半助が力を込める。  みち、  みち、  と、肘関節の靭帯が、少しずつちぎれてゆく音がする。  完全に極まった。  半助が折る気なら、折ることができる。  矢野が、 �まいった�  と言わなければ、折られても仕方のない状況であった。 「まだまだ」 「効いちょらん」  熊本の大道場、扱心流|江口矢門《えぐちやもん》、江口源心の怒声があがる。 「折ってしまえばよか」 「折らんか」  妹尾季之進と、上原庄吾の声が響く。  半助は、上から覗き込んでくる佐村正明の顔を見あげ、 「このへんで、よござっしょう」  そう告げた。  落ちついた声であった。  この後も、試合を続けさせたら、半助はいよいよ矢野の腕を折らねばならなくなる。  それをさせてはいけない。  佐村の判断は速かった。 「それまで」  右手をあげた。  しかし、半助も、矢野も動かない。 「それまでじゃ」  佐村が告げたが、まだ、ふたりは動かない。  佐村は、その時、ようやく異変に気がついていた。  ちょうど、半助の左脚が、矢野の顔の上に乗っている。  脹脛《ふくらはぎ》の一番太いあたりだ。  半助の穿いている袴の裾がめくれて、半分矢野の顔に掛かっている。 「む!?」  佐村は、右手で、その袴の裾をめくりあげた。  顔が現われた。 「広次!」  佐村は声をあげた。  矢野が、半助の左脚の脹脛に、歯を立てて噛みついていたのである。 「おんし!」  佐村は叫んだ。 「放せ、噛むのをやめるんじゃ」  佐村が声をあげても、矢野は、噛むのをやめようとしない。 「やめい、やめい、広次!」  佐村が、矢野の顔を拳《こぶし》で叩いた。  それでもやめなかった。 「広次!!」  佐村は、立ちあがり、踵で、二度、矢野の顔を蹴った。  それでも、矢野は噛むのをやめない。 「火箸《ひばし》じゃ、火箸を持ってこんかっ」  佐村が叫ぶ。  道場生のひとりが、奥から二本の、鉄製の火箸を持ってやってきた。  それを受け取り、 「やめんか、広次!!」  火箸を矢野の口に打ちつけた。  歯を叩き折った。  折れた歯の間に、火箸をこじいれて、ひねった。  さらに歯が折れた。  道場生五人掛かりで、半助から矢野をひきはがした。 「半助どんの勝ちじゃ」  佐村は言った。  立ちあがった、矢野は無言だった。  半助を睨んでいる。  血にまみれた口を開き、 「べっ」  と何かを畳の上に吐き出した。  肉片であった。  道場は、たいへんな騒ぎとなった。 「まだじゃ」 「熊本は、まだ負けちょらんぞ」  叫ぶ者たちがいる。 「誰でも——」  半助は、そう言って、畳の上に座した。  次の相手を待つ——  そういう意味の態度であった。  座したその左脚から、血が畳の上に広がってゆく。  半助に、佐村が駆け寄った。  半助の周囲には、半助を守るように、下坂道場の面々が集まっている。 「半助どん——」  佐村は言った。 「今度は、おいが、久留米ば行きもっそ。そこで、あらためて勝負ばつけたか」 「わかりもした」  半助はうなずいた。 「この騒ぎでは、いつまでもここにおったら危なかとです。今日のうちに、久留米ばお帰りなさっとよか」 「では——」  半助は立ちあがった。 「ありがとさんでごわした」  佐村が頭を下げる。  そして、そのまま、騒然たる中、脹脛の傷の手当てを終えると、挨拶もそこそこに、半助は熊本を出て、久留米に帰ったのである。 (十四)  中村半助と佐村正明が、次に相見《あいまみ》えることとなったのは、八月に入ってのことであった。場所は、熊本の扱心流の道場である。  八月半ば——  半助と佐村の試合が始められたのは、午前一〇時のことであった。  午前とはいえ、陽は中天に昇りかけている。  土の焼ける臭いが立ち昇ってくるような熱い陽差しが、地面を焼いている。  煮えたような空気の中で、アブラゼミが喧《かまびす》しく鳴いている。  開け放した窓から、その蝉の声と熱気が、風とともに入り込んでくる。  その中で、半助と佐村は、道場の中央に座して、互いにその顔を見つめていた。  佐村、丈五尺六寸(一七〇センチ)。  二十五貫(九十四キロ)。  身長で、半助より二寸ほど低いものの、体重は同じである。  ごろりと、岩の塊りをそこに転がしたような男であった。  扱心流の道場には、九州一円の柔術家の、錚々《そうそう》たる顔ぶれが集まっていた。  久留米からは、良移心頭流下坂道場の下坂才蔵。  同じく、宇高権太夫。  上原庄吾。  妹尾季之進。  野田碌郎。  関口新々流赤松道場の赤松要助。  仲段蔵。  鳥飼村森田道場の森田郷蔵。  藤戸道場の藤戸鉄太郎。  津福の空閑勝右衛門。  原古賀の赤司八郎。  荘島町の古賀仁右衛門。  同じく範田六郎。  蛍川町の萩原仁作。  洗町の西村軍司。  熊本からは、竹内三統流矢野道場の、矢野広英。  同じく、矢野広次。  富永三省。  関口新々流新居保愛。  扱心流江口矢門。  同じく江口源心。  そして、もうひとり、東京からひとりの柔術家が、この試合のことを聞いてもどってきていた。やがて、警視庁柔術世話係取締人になる久富鉄太郎であった。  立ち合い人は、この久富鉄太郎がすることとなった。  そして、ここに、もうひとり、奇態なるひとりの男が、錚々たる顔ぶれの男たちに混じって、道場の板の間に座し、この試合を眺めていたのである。  小男であった。  そこにいる柔術家たちの誰よりも小さい。  あの、仲段蔵より、ふたまわり以上も小さい体躯の男。  その男は、その身体に、一種異様の気を纏《まと》っていた。  もとより、そこにいるのは柔術家達であり、いずれも並の人間たちではない気配を身に纏っている。  その小兵の男は、その中にあってなお、常人ではない気配をその短躯から放っているのである。  着ているものは、襤褸《ぼろ》であり、着ているものの袖や襟もほころびがある。  武田惣角——  この時よりおよそひと月後、この人物は東京に現われ、稲荷町の永昌寺の山門をくぐり、嘉納治五郎と闘うことになる。  惣角は、炯々《けいけい》と双眸を光らせて、佐村正明と中村半助を見つめていた。 (十五)  半助は、静かに佐村を見つめていた。  すでに、脚の傷は癒えている。  佐村は佐村で、肋《あばら》の骨折は治癒している。  これが、対等の勝負だ。  半助は、五日前の夜のことを思い出していた。  稽古を終えた後、師である下坂才蔵に呼ばれた。 「もう、稽古はよか……」  才蔵は、半助に言った。 「試合う前は不安じゃ。その不安ば忘れようとして、稽古ばする。それはよか。しかし、おんしは稽古のしすぎじゃ」 「はい」  半助は、素直にうなずいた。 「鬼ば、ついとるようじゃ——」  その通りだった。  久留米でも、佐村との試合のことは評判になっている。 「佐村ていう柔取《やわらと》りゃ、恐ろしゅ強かげな。誰っでん、かなわっさん」  こう言う者もいる。 「なんの、こちらは鍾馗《しょうき》の半助じゃ。かなわんことのあるか」 「じゃが、あっちは仁王さんじゃいう者もおるが」 「半助じゃ」 「佐村じゃ」  そういう声が、半助にも届いてきている。  聴くまいと思うほど、そういう噂が入ってくる。  佐村は、熊本で、牛を相手に押し合って稽古をしている。  その牛の角を掴んで投げた。  毎日山へ入って、蝮《まむし》をとり、生皮を剥いでその生き血を啜って精をつけている。  本当か嘘かわからない話までが入ってくるのである。  それを、気にせぬようにしようと思う。  思えば思うほど、それは心にひっかかってくる。  それを忘れようと、稽古をする。  半年前は、勢いがあった。  仲段蔵が負けたと耳にした時、胸の裡に湧きあがってきた勢いがあった。  しかし、今は—— 「誰でん、恐か……」  才蔵は言った。 「しかし、恐さば忘れるため、稽古に逃げるちゅうのは、ずるか者《もん》のするこつじゃ」 「はい」  半助は、またうなずいた。  才蔵の言う通りであったからだ。 「向こうでん、おんしのことが恐か……」 「———」 「今、おんしが、佐村のことば、恐いと思うとるなら、そりゃ、それでよか。もう、おんしの実力は、仲段蔵ば超えとる。そのおんしが、佐村ば恐か思うとる。それでん、よか。おんしが、恐か思うとるなら、それが中村半助じゃ。強い中村半助、恐がっとる中村半助、どれもおんしじゃ。そのまんま、丸ごと中村半助のまま、試合《しあ》えばよか——」 「———」 「勝っても、中村半助じゃ。負けても中村半助じゃ。中村半助でよか——」  勝っても中村半助——  負けても中村半助——  才蔵のその言葉を耳にして、ふいに、半助の肉体に強《こわ》ばっていたものが抜け落ちた。  身体が、軽くなった。 「ありがとさんでごわした」  半助は、才蔵に、素直に頭を下げた。  その時のことを、半助は思い出していた。  もし、あの時、才蔵が忠告してくれなかったら、それこそ昨夜遅くまで、稽古をして、襤褸雑巾《ぼろぞうきん》のような肉体で、この場に臨んでいたことであろう。  昨夜は、充分に眠った。  昨日は、軽く筋肉が火照る程度の稽古をしただけだ。  それがよかった。  今、自分の肉が充実しているのがわかる。  礼をすませ、半助と佐村が立ちあがる。  鍾馗の半助——  仁王の佐村——  久留米と熊本の両雄が、立って向き合った。 「始め!」  久富鉄太郎は言った。 (十六)  半助も、佐村も、稽古衣に袴、頭には鉢巻をしている。  佐村は、立って、半身に構えた。  それを見た半助もまた、構えのかたちになった。  その姿勢を見た時、道場内に、低いどよめきの声がおこった。  半助は、左膝を落とし、膝先を畳の上につけたのである。  右の片膝は、立てたままであった。  片膝立ちの姿勢である。  それを見てとった佐村の口から、裂帛《れっぱく》の気合が迸《ほとばし》った。 「ちえええっ!」  佐村が動いた。  佐村の右足が畳を蹴っていた。  佐村は、右足で、半助に当てにいったのである。  半助が、片膝立ちの姿勢になって構えたのには、もちろん意味がある。  寝技に誘い込もうという構えであった。  立って組めば、佐村との投げ合いになる。  投げ合いになって、もしも佐村に投げられたら、寝技に入った時に不利な体勢になる。  その危険性を最小限にするための構えであった。  寝技には、自信がある。  この体勢であれば、佐村は投げることはできない。投げようがない。組めば、そのまま寝技に移行することになる。  それを佐村は避けたのである。  半助の構えを見て、佐村は瞬時にその意図を悟り、悟ったその瞬間に、ためらいもなく右足で蹴りに来たのである。  胸ではない。  顔面である。  左足で一歩踏み込み、正面から半助の顔に向かって右足を蹴りあげたのである。  現代の空手で言う、前蹴りである。  しかし、半助は、これを予測していた。  半助とて、佐村がすんなり、自ら身を低くして組みにくるとは考えていない。  となれば、当て身を使ってくるであろうというのは、始めから考えていたことであった。  当て身といっても、手の当て身ではない。  掌や拳で打たずに、足で打つ——つまり、蹴りであろうと考えていた。  それも、正面から。  何しろ、顔が、蹴りごろの高さにあるのである。  手では、とても受けきれない。  足の力の方が、手よりも五倍は強い。  手で払おうとしても、その手をはじかれてしまう。  立っていれば、後方に跳ぶなり、足を使って横へ逃げるなりして、この当て身はかわせようが、片膝立ちの姿勢ではそういうかわし方はできない。  半助は、上体を反らしながら、右手を畳に突いて、右側に上体を移動させた。右斜め後方に、上体を倒したことになる。  半助の顔の、すぐ左側を、佐村の右足が宙に駆けあがってゆく。  その踵を、下から半助の右掌が掬いあげるようにして上に押した。  同時に、半助の左足が、畳の上すれすれに疾《はし》ってゆき、軸足である佐村の左足首を、払うようにして刈っていた。  佐村の身体が崩れた。  右足で、畳を踏み抜くようにして半助が立ちあがる。  立ちあがりざま、組みついた。  あの仲段蔵と組み、互角以上にわたりあった佐村である。  始めから組んでは、分が悪いと見て片膝立ちで挑んだのだが、今なら自分のかたちで組める。  右手で、佐村の左襟を掴んだ。  右足を佐村の左足の後方へ踏み入れて、鎌にかけた。  講道館流で言うなら、大外刈に近いかたちである。  尋常の者であれば、これで、背から畳の上に倒れる。これまで、このかたちに入って倒れぬ者はなかった。  事実、半助は、 �倒した�  そう思った。  しかし、畳に向かって落ちてゆくはずの佐村の背が、途中で静止したのである。  弓のように背を反らせて、佐村がこらえた。  鋼のごとき、佐村の腰の強さであった。  半助は驚嘆した。 「ぐむう」 「ぐむう」  力の較べ合いとなった。  動かない。 「凄か力じゃ」  佐村が、絞り出すような声で言った。 「おんしこそ」  半助は、歯を軋《きし》らせて、そう言った。  ぐうっと、信じられない力で佐村の上体がもとにもどろうと持ちあがってくる。 「ていしゃっ」  半助は、右足で、佐村の右足の脹脛を踏み下ろした。  当った感触は、肉ではなかった。  堅い木の棒を踏んだようなものだ。  では、膝の裏、関節を直接蹴るしかない。  もう一撃——  素早く足を持ちあげ、踵で、佐村の左膝裏を踏み抜く。  そうしようとした瞬間であった。 「えしゃあっ」  持ちあげた右足を、佐村がすかさず下から右足で払いあげてきたのである。  立場が逆になった。  半助が、逆に背から落ちそうになった。  似た攻撃を、二度続けてやってしまったら、迷わずそこを突いてくる。  かけられた右足を宙で抜き、踏みかえてこらえる。 「む」 「む」  ほとんど同じかたちで、正面から組み合うことになった。  佐村の肉の中から、むりむりと膨れあがってくるものがある。 「くうっ」 「むうっ」  人ではない力が、佐村の肉の中から溢れ出てくるようであった。  動かない。 「やるのう」  佐村が言った。  さらに、佐村の中から力が噴きあがってくるかと思えたその時、  ふっ、  と佐村の肉体から力が抜けた。  佐村の肉体が、手の中から消失してしまったようであった。 「む!?」  半助は、一瞬、何が起こったのかわからなかった。  佐村の身体が、宙に浮いていたのである。  佐村は、宙で、その両手に、さっきまで佐村の左襟を掴んでいた半助の右手を握っていた。  半助の右腕を伸ばし、宙で、佐村は半助の右腕を両足で挟んでいた。宙に仰向けになるかたちで、佐村が半助の右腕を、腕拉《うでひしぎ》逆十字に極めようとしてきたのである。  そのまま、畳の上に仰向けに倒されれば、半助は極められてしまう。  半助は、こらえなかった。  今、佐村がしたように、力を抜いて腰を落とし、佐村が後頭部から畳の上に落ちるように体重をかけた。  佐村の後頭部が、畳を打った。  しかし、離れない。  佐村は、肩と後頭部を畳に着け、それで体重を支えている。  半助は、膝を曲げ、腰を落とした半立ちの状態である。  まだ、半助の腕は取られたままだ。  佐村が、力を込めて、まだ曲がっている半助の肘を伸ばそうと、身体を反らせてくる。  半助は、左手の指を、右手の指にからめ、肘をそれ以上伸ばされぬようにした。 「むう」  今度は、半助は、力を込めた。  ぶくり、ぶくりと、半助の太い頸に、筋肉が瘤のように膨らんでくる。  道場内に、どよめきの声があがった。  佐村の後頭部と肩が、畳から離れて宙に浮きあがったのである。  半助が、右腕で、佐村の身体を持ちあげてゆく。  次は、また頭から落とされ、同時に顔を踏みつけられるおそれもある。 「ちい」  佐村が、からめていた足をほどく。  腕拉逆十字が、これではずれた。  佐村の身体が、背から落ちる。  上から、半助が身体を被せてゆく。  どん、  と佐村の背が畳に落ちた。  その上に、半助の身体が重なった。  その時、半助は、それまで佐村に取られていた右腕を曲げ、体重を乗せた肘を佐村の腹の上に落とした。  肘は、めり込まなかった。  強靭な佐村の腹筋が、ぐりっ、と肘を押し返してきた。  肘が、跳ね返された。  半助は、驚愕した。  凄か腹じゃ——  しかし、動きを止めるわけにはいかない。  横四方に上から佐村を押さえ込んでゆく。  佐村が逃げる。  半助が追う。 「はっ」 「はっ」  太い、火の如き呼吸を、相手の稽古衣に吐きつけながら、ふたりの身体がもつれあう。  取れない。  取らせない。  互角。  技も、力も拮抗している。 「半助、攻めよ」  上原庄吾が叫んでいる。 「佐村は、もう、息があがっちょる」  その声が、半助の耳に届く。  しかし、まだ、半助には佐村の息があがっているようには思えなかった。  息があがっているのは自分ではないか。  先に、息があがった方が負け——  そういう意識は、半助も持っている。  それは、佐村も同じであろう。  息があがり、疲労が泥のように血液の中に溜まってくると、注意力が衰えてくる。この緊張を、精神が維持できなくなる。  隙ができる。  先にそうなった方が負けだ。  一瞬たりとも気を抜けない。  それにしても、何という力か。  ひと抱え以上もある太い蛇がのたうち、からみついてくるのを、いったい人がどうやって動きを止められるというのか。  寝技であれば、自分の方が上、そう考えていた自分を恥じた。  仲段蔵は、この化物のような佐村と闘ったのか。  自分は、仲段蔵よりも強くなった——本当にそうか。  気力が、萎えそうになる。  考えぬことだ。  考えるのだったら、どうやってこの佐村を倒すかということだ。  いや、今さら、闘いの場で何を考えるのか。ここは、考えるところではない。考えるのは、稽古の時だ。稽古の時に充分に考えたではないか。ここは、稽古でやってきたことを出す場所だ。考えなくても技が出せる——そのための稽古ではなかったか。  ああ——  また考えていた。  我に返った。  呼吸の数が、知らぬ間に倍以上になっている。  かっ、  かっ、  かっ、  と、せわしく呼吸をする。  佐村の片羽締めをなんとかしのいだところだ。  逃げきったと思った瞬間、するりと佐村の腕が、顎の下に潜り込んでこようとする。  上手い。  深い呼吸をさせないつもりか。  それをなんとかしのいで、腕がらみへ。  逃げられた。  横四方へ——  これも逃げられた。  佐村が、半助の下で、人間の大きさをした魚のごとくに跳ねる。  押さえ込めない。  ほんの二回か三回でいい。  ゆっくりと、深い呼吸をしたかった。  肺が、出入りする息にこすられて、焼けるように熱くなっている。  疲労してゆく。  疲労してゆく。  自分の肉体が、汗を吸い込んだ襤褸《ぼろ》雑巾のようになった気分だ。  肉の間に砂粒が詰まっているようだ。動きが緩慢になってゆく。  血が、全て酸になってしまったような気もする。  もう動けない。  あと一度動いたら、あと一度呼吸をしたら、休もう——そんなことも思う。  しかし、自分の身体が動き続けてゆく。  どうだ、佐村の呼吸もあがっているか。  そんなことは、もう、考えられなくなっていた。  もう、どのくらいたったのか。  一分か。  二分か。  そんなはずはないだろう。  三〇分は経ったか。  それとも一時間は闘ったか。  それにしても、自分もまた、なかなか凄いではないか。三〇分だか一時間だか知らないが、この佐村とこれだけ闘って、まだ負けていないのだ。 �丸ごと、中村半助のまま、試合えばよか——�  下坂才蔵の言葉が、脳裏に蘇える。 �勝っても、中村半助じゃ。負けても中村半助じゃ。中村半助でよか——�  ありがたい言葉であった。  もう、自分の肉体が、どれだけ疲労しているのかわからなくなっている。  かっ、  かっ、  かっ、  かっ、  と、火のような呼吸音がしている。  自分の呼吸音か、佐村の呼吸音か。  稽古衣に染み込んでいるのが、自分の汗か、佐村の汗かわからなくなっている。  身体の大半の水分が、抜け出てしまったような気もする。  まだ、動くのか、佐村。  まだ、その腕を、からみつけてくるのか。  逃げる。  はずす。  これでおしまいか。  まだか。  まだ、おいの頸ばねらっちょるか。  何度も、何度も何度も何度も、同じ技をしのぐ。  疲労の塊りが、石のようになって、肉の中に溜まっている。  動けない。  動きようがない。  しかし、もう動けないと思っているその時、古い着物を脱ぎ捨てるように疲労の皮が一枚くるりとむけて、その内側から、ぬれぬれと濡れた、みずみずしい体力を持った肉体が現われてくることがある。  自分の肉体の裡《うち》側に、このような肉体が眠っていたのか。  それによって、闘いの最中、何度も自分は救われてきた。  しかし、もう、それもない。  肉の底の底、尻の穴の皺の中に残っていた体力まで、もう、使いきってしまったのではないか。  その時、  ぽん、ぽんと、肩を叩かれた。 「待て——」  久富鉄太郎が、半助と佐村の肩を叩き、その動きを止めさせたのである。 「立つか」  久富鉄太郎が、寝技のままのふたりに問うてきた。  寝技での攻防が続き、膠着《こうちゃく》したと見た久富鉄太郎が、また、立ってから試合を始めるかと問うてきたのである。 「おう」 「うむ」  佐村と半助が、うなずいた。  この時、すでに三十五分の時間が経過していた。 (十七) 「始め!」  久富鉄太郎が言った。  立ちあがり、すぐに試合は再開された。  かろうじて、乱れた稽古衣を正す時間があっただけであった。  水も飲まない。  仲間の誰かが、駆け寄ることもない。  まだ、闘いの続きであった。  半助は、佐村と見合った。  佐村の肩が、上下している。  佐村も疲労しているのだ。  しかし、その眼が、まだ炯々《けいけい》とした光を宿して半助を睨んでいる。 「やしゃあっ」  半助が声をあげる。 「おしゃあっ」  佐村が声をあげる。 「おう」 「おう」  気合を入れて、声で自らを鼓舞する。  じわり、じわりと、半助と佐村の距離がつまってゆく。 「当ててゆけい」 「顔じゃ」 「打てい」  当て身を使えとの声があがる。  すでに、誰の声ともつかない。  互いにもう、相手しか見えない。  腰を落とし、もう、指先と指先が触れ合いそうな距離になっている。  佐村が、半助の顔を見ながら、嗤《わら》った。 「怖か顔じゃ」 「おんしこそ」  半助も嗤った。  組むか、と見た瞬間、佐村が、半助の頭部に向かって、上から右拳を打ち下ろしてきた。  鉄槌打ち——  半助は、それを身体をひねってかわしざまに、佐村の打ち下ろしてきた腕を右脇に抱え込んだ。その腕を、ねじりあげようとする。  半助は、佐村の懐に入り込んで、半分背を向けたかたちになった。  腕を、ねじる。 「かかったの」  佐村が、半助のすぐ後方で囁くように言った。  半助の身体が、上に浮きあがった。  佐村が、半助の身体を左腕で抱え込み、上に持ちあげたのである。  ふわりと半助の身体が宙に浮き、頭から後方に落下した。  半助の身体は、みごとに後方に投げられていた。  真捨て身に近い技だ。  だが、半助は、宙でも佐村の腕を離さなかった。  同体で、畳の上に落ちた。  その瞬間、半助が抱え込んでいた佐村の腕の肉の中で、  めじっ、  といういやな音がした。  佐村の右肘の関節の靭帯が破壊される音であった。 「あがっ!」  佐村が、喉の奥で、呻き声を殺した。  それが、半助の耳にも届いてきた。  勝った!?  半助はそう思った。  半助が上、佐村が下。  次の瞬間、佐村の太い腕が伸びてきた。  後方からの裸締めだ。下になった佐村が、自分の上で仰向けになっている半助の首をとりにきたのだ。半助は、身をねじって、上から見下ろすかたちで佐村と向き合った。  その時、佐村の左腕が、上になった半助の首を、脇の下に挟むようにからみついてきた。  下から、佐村が、上になった半助の胴を、両脚で挟んできた。  胴締めだ。  なんの。  半助は、佐村の脇の下から、自分の首をはずそうとした。  はずれない。  おそろしい力で、佐村の左腕が頸を締めつけてきた。  頸を締めながら、その首を引っこ抜こうとするかのように、力を込めてくる。  亀の首取り!?  仲段蔵がやられたあの技か。  かああっ、  と声を出そうとしたが、声が出せない。  気道が塞がれている。  頸には、自信がある。  右手で、佐村の左腕を捕え、はずそうとする。  はずれない。  力を込める。  わずかに隙間ができる。  ひゅう、  と細い音をたてて、半助は息を吸い込んだ。  しかし、その細い隙間も、すぐに塞がれてしまう。  完全に、呼吸を止められた。  この息が、あとどれくらい続くのか。  半助は、向き合うかたちで佐村の上に重なった状態のまま、もがいた。  はずれない。  また、隙間を作る。  ひゅっ、  とわずかの息を吐き、  ひゅう、  とわずかの息を吸い込む。  また気道を塞がれる。  時間が過ぎてゆく。  動けない。  嵐のように、ごうごうと声が飛びかっているが、それがどちらの陣営の声かわからない。 「降参ば、してもらえんか」  耳元で、佐村が囁いた。 「おいも、もう、幾らも力を入れておれぬ。本気で、こん首ば抜くことになりもっす」  それを拒否するように、半助は、首をはずそうとした。  もう、頭がぼうっとしている。  考えられない。  できるのは、ただ、闘うことだけだ。  と——  半助の身体の下で、信じられないことが起こった。  ぐうっと、佐村の身体が反りはじめたのである。  半助の胴を締めた両足は下方へ、半助の首を締めている左腕は上方へ。  首と胴を締めている力そのものは同じだが、これに背筋の反《そ》る力が加わったのである。みりみりと、頸の中で音がする。 「ぐむうっ」  耐える。  みりっ、  みちっ、  と頸椎が、千分の一ミリ、伸びる。  それを、半助は、太い首の力で耐えている。  ついに、頸動脈も止まった。  呼吸もできない。  あと、どれだけこの頸がもつか。  死ぬなら死ぬでん、よか——  消えかける意識の中で、  みち、  みり、  と、伸びてゆく頸椎の音がする。  落ちて、意識を失い、首の筋肉の力が抜けた時、ひといきに頸椎が伸びきることになる。  その時—— 「よかですか」  佐村の声が響いた。 「ここで、首ば抜かれたら、おいに負けたままになりもす……」  佐村が言った。  意識が消えそうであった。  何かをしなければならない。  それは、何であったか。  負けを——  自ら負けを認めねばならぬ。  才蔵の顔が浮かんだ。  仲段蔵の顔が浮かんだ。  許せ……  半助は、心の中で、その顔に言った。  そして、はじめて、半助は右手を伸ばし、畳の上を叩いた。  参った、の合図であった。 (十八)  夕刻が近くなっても、まだ陽射しは強かった。  窓に掛かった簾《すだれ》の向こうから、アブラゼミとクマゼミの声が届いてくる。  その小男は、簾越しの陽光を頬に受けながら、鰻を食べていた。  球磨川で捕れた鰻である。  右頬の唇に近い場所に、生々しい傷がある。  刃物傷のようであった。  傷はほとんど塞がっているが、一部にまだ瘡蓋《かさぶた》が残っている。  顔が小さく、丸い。  小料理屋の二階——  部屋の隅に、衝立《ついたて》で仕切られた一画があり、小男は、そこで酒を飲みながら鰻を食べているのである。  武田|惣角《そうかく》  それがこの男の名前であった。  年齢二十三歳。  まだ若い。  惣角は、壁を背にして座している。  惣角と向かいあって、同じように酒を飲みながら鰻を箸でつまんでいる男がいる。  阪井進之介——  槍術を教えている熊本の阪井道場の道場主、阪井作之進の息子だ。  年齢三〇歳。  いずれ、阪井道場を継ぐことになっている。  武田惣角は、今、阪井道場で厄介になっている。  この日、久留米で、佐村正明と中村半助が試合うことを耳にして、それを見るため惣角は、進之介とここまで出て来たのである。  その試合は、佐村が半助から一本を取って勝利した。 「凄《すさ》まじか試合じゃった」  鰻を突つきながら、進之介は言った。  進之介の方が、拳ひとつ分ほど、惣角よりも大きい。 「確かに……」  惣角はうなずいた。  うなずきはしたが、言外に、何か含みがありそうな表情であった。 「今日の試合ば、おんしゃあどう見たとな」  進之介が訊いた。 「まあ、あのようなものでしょう」  惣角は、表情を動かさずに言った。 「あのような?」 「ああいった勝負のことです」  惣角の言葉は素っ気ない。 「どういうことじゃ」 「ぬるい」 「ぬるい?」 「生命がかかってなければ、ああなるのも仕方がないということです」 「ほう」 「ああいった決め事の中で試合うにしても、やり方があるということです」 「わからんな」 「自分なら、あの試合で、三度は佐村を殺しているでしょう」 「しかし、あれは試合じゃ。殺し合いではなかぞ」 「承知しています」  惣角は、箸を持った手を膝の上に置き、 「佐村にしても、中村にしても、あれではいつでも眼を潰されてしまいます」  そう言った。 「眼を!?」 「はい」 「しかし、それは、ああいう試合ではお互いに眼を攻撃せんのが礼儀じゃ」 「いくら、それが礼儀であっても、寝技に入って眼を庇《かば》いもせずに闘っていいわけはありません」  きっぱりと惣角は言った。  これには、一瞬、進之介も言葉につまった。 「じゃが、生命のとりあいとなったら、佐村も中村も、また違う闘いばするじゃろうが」 「いえ、どのような時でも、生命のやりとりがあると思って生きるのが武人というものです」 「———」 「あの試合中、一方が礼儀を破って眼を突いてきたらどうするか。常にそれを考えて闘わねばなりません」 「どのような時でもと言ったか」 「はい」 「では、惣角、今はどうなのじゃ」 「今?」 「今、この場で、わしがいきなりおんしに仕掛けたらどうする」 「考えております」 「考えている?」 「今、若先生が仕掛けてきたらどうするか、わたしはきちんと考えて食事をしております——」 「本当か?」 「試されてもかまいませんよ」  惣角が、丸い眼を、ぐるりと動かして進之介を見やった。  進之介が沈黙した。  空気が堅く張りつめる。  惣角は、まだ、右手に箸を握ったまま、その手を右膝の上に置いている。  その右手が、何かふいに怖い凶器に変貌したようにも見える。 「冗談じゃ……」  阪井進之介がつぶやいた。 「あの決め事の中では、確かにあのふたりは抜きん出た実力を持っています。しかし——」 「しかし、何じゃ」 「ことさらに言うことではありませんので——」 「言いかけたはおんしぞ、惣角——」  進之介が言ったその時—— 「しかし、自分の方が強か、そういうこつか——」  声が響いた。  進之介が背にした衝立の向こう側からであった。  衝立の向こうに、ぬうっと人影が立った。  良移心頭《りょういしんとう》流の、上原庄吾であった。  まだ酒の入った杯を右手に持ったまま、上原庄吾は衝立を回わって、惣角と進之介の前に立った。  胡座をかいていた惣角は、足の指先で畳を掴むようにして、浅く腰を浮かせている。  右手に箸を持ったままだ。  上原庄吾は、残った酒を干して、杯を懐に入れた。  上原庄吾は、衝立の向こうで独りで飲んでいたらしい。 「おもしろか話ばしちょったのう」  上原庄吾は言った。 「もう一度、言うちゃらんか」 (十九)  武田惣角は、万延元年(一八六〇)に、会津に生まれた。  嘉納治五郎が同じ年の生まれであり、この年に桜田門外の変が起こっている。  このことは、すでに記した。  大東流合気柔術の創始者である。  惣角が学んだ大東流に、独自の工夫を加え、大東流合気柔術を起こした。  大東流は、会津藩に数百年伝えられてきた武術で、柔術の他に、刀や槍などを使う武器術も含まれている。  江戸時代にあっては、藩外には伝えない、いわゆる�御留め流�であった。  父は惣吉。  郷士であった。  この惣吉が、黒河内伝五郎の娘、富《とみ》と結婚して、生まれたのが惣角であると伝えられている。  惣角にとっては母方の祖父である伝五郎は、手裏剣、槍、針吹術を能《よ》くしたと言われている。  父の惣吉は、体重一一〇キロの大関力士であり、剣術、棒術も巧みであった。  惣角が九歳の時に、会津戦争があった。  惣角、この頃すでに、宝蔵院流槍術、剣術、相撲、大東流を学んでいた。  一〇代に入ると、あちこちの相撲大会に出場しては優勝するようになる。  養気館道場・渋谷東馬の小野派一刀流を十代早々にして学んだ。  この渋谷東馬の養子で、後に養気館道場を継いだ渋谷一郎は、後になって東京へ出、根岸信五郎の神道無念流道場に入門し、そこで技を磨いた。この時、道場で一緒に稽古した仲間に、あの中山博道がいる。  惣角は、十三歳の時に、東京へ出た。  東京では、直心影流剣術家榊原鍵吉の道場の内弟子となった。  もともと、父の惣吉と榊原鍵吉は、長州藩らを相手に共に闘った同志であった。この縁で、惣角は榊原道場に入門したのである。  ここで、およそ二年半、惣角は武器術を修業した。  剣の他——  棒。  槍。  半弓《はんきゅう》。  鎖鎌。  これらの術を身につけた。  この時期に、惣角は撃剣会にも出て、剣の術を見せ物として売ったりもした。  十五歳の時、帰郷することになったが、この帰り道で初めて真剣で人を斬ることになる。  帰路——  ちょうど猪苗代あたりにさしかかったところで日が暮れた。  夕暮れ、ある橋を渡りかけた時、いきなり左右から惣角を襲ってきた者がいた。  ふたつの剣を身を沈めてかわし、そのまま惣角は抜刀した。  ばらばらと寄ってきた人間たちの足を、低い姿勢のまま惣角はその剣で切り落とした。  脛の骨を、二本。  三本目は、がつんと骨を半分ほど断ち割ったが、落とすことはできなかった。  刀に血脂が付き、刃こぼれもしていたためである。  この間、無言。 「何の用か——」  初めて惣角は声を発した。  まだ四人の男が立っていて、惣角の声を聴いて、 「すまぬ、人違いじゃ」  そう言った。  それで、惣角は剣を収め、その場を去った。  武勇伝はまだある。  その翌年——  兄惣勝の死で、惣角はまた東京から郷里の会津にもどらねばならなくなった。  やはり夕暮れ——  会津坂下町《あいづばんげまち》にさしかかった時、 「今日は行くのをやめなされ」  村の者に、行くのを止められた。  聞けば、この先の山道に、三人の山賊が出て、旅人を殺しては金品を奪うのだという。 「急ぐ旅じゃ」  惣角はそう言って、陽の落ちた山道に入っていった。  行くうちに、一本の太い杉の幹の陰から、ふたつの人影が現われた。  惣角は足を止めた。  すると、後方から—— 「金をおいてゆけ」  声がした。  前にふたり。  後ろにひとり。  三人の山賊に惣角は挟まれた。 「わかった」  言うなり剣を抜き放ち、前のひとりをいきなり切り伏せ、続いて身を翻して後方のひとりを切った。  残ったひとりがやっと抜いた剣を横にはらってその男も切り伏せた。  この時も、そのまま三人をその場において、家に急いだ。  この山賊、ふたりは生命は助かったが、ひとりは死んだという。  明治九年(一八七六)——  惣角は、榊原鍵吉に、武者修行に出たいと告げた。 「どこへゆく?」 「九州へ」 「ならば、大阪の桃井道場へ寄ってゆけ」  鍵吉は、幾つかの紹介状を書いて、惣角に持たせた。  この紹介状があれば、いきなり道場で門前払いを食うこともないし、道場破りと間違われて、恐いあつかいを受けることもない。  この時、桃井春蔵《もものいしゅんぞう》は五〇歳。  鳥羽伏見の戦いで榊原鍵吉と共に幕府軍の遊撃隊長として、大坂城の将軍慶喜の警護にあたっている。  だが、幕府が朝敵となったと知るや大坂城を単身抜けた。  惣角が、桃井道場に現われたのは、明治九年の十一月である。  鍵吉からの手紙を読み、 「わかった」  惣角にそう言った。 「ここで修業してゆけ」  そして、惣角は、桃井道場に厄介になることになったのである。  春蔵の、 「わかった」  には、もうひとつの意味があった。  鍵吉からの手紙には、惣角を止めてくれとの意がしたためてあったのである。  惣角、十七歳——  この時の惣角が、激しく求めていたのは闘いであった。  それも、生命をかけた闘いである。  師である鍵吉に、 「真剣で稽古をつけて下さい」  何度かそう申し入れて、それを断わられている。  惣角が九州へ修行に行きたいと言った言葉の裏には、九州の西郷軍に入隊しようという意志があったのである。  これを、鍵吉は見抜き、春蔵への手紙の中には、惣角が西郷軍に入るのを思いとどまるよう説得してほしいとの意がしたためられていたのである。  春蔵の道場に入って、たちまち惣角は腕をあげた。  教われば、呑み込みが疾《はや》い。  言われたことが、すぐにできるようになるだけでなく、それに自分の工夫を入れた。  読み書きや算術はまるでできなかったが、こと、その肉体の動きとなると、惣角には異様の才があった。  ひと月で、師の春蔵から一本をとるようになり、ふた月後には五本に三本をとるようになった。 「この若さで、怖ろしい腕じゃ」  榊原鍵吉も、すでに若くない。  惣角に勝てなくなっている。  鍵吉は、それで春蔵の元へ惣角を送ったのだが、惣角はその春蔵すらもたちまち越えてしまった。  情をもっても止められず、実力をもっても惣角をとめられない。  明治一〇年(一八七七)、西郷隆盛が兵を挙げたことが大阪まで伝わると、惣角は、 「おいとまを」  春蔵に告げた。 「どこへゆく」  春蔵のその問いに、惣角は答えない。 「西郷軍に入るつもりか」  どう問われても、惣角は答えなかった。  ただ、 「おいとまを」  それしか言わない。  惣角は、大阪を出て九州に向かった。  惣角と志を同じくする桃井道場の人間が、ひとり同行した。  しかし、役人の警備が厳しく、なかなか九州に入ることができない。  桃井春蔵が手を回わしていたのである。  そうこうするうちに、官軍の中に、佐川官兵衛という会津藩士のいることがわかった。  惣角と同郷で、顔見知りである。  榊原鍵吉がこれを調べて、桃井春蔵を通じて知らせてよこしたのである。  ここに至って、ようやく惣角は西郷軍に合流することをあきらめた。  これが、結果的に惣角の生命を救うこととなった。  西郷軍の敗北で、西南戦争が終ったのである。  もしも惣角が西郷軍に加わっていたら、かなりの確率で死んでいたことであろう。  惣角が九州に入ったのは、西南戦争が終ってからのことであった。  九州の道場で、武術修行をするつもりであった。  しかし、警察の取り締りが厳しい。  武器を使っての道場稽古は、ほとんどの道場でやれなくなっていた。  惣角は、軽業の一座に加わって、軽業を覚え、それを見せながら九州各地を巡行して回わった。そこで惣角は、異様の術を持った人間を見ることになる。  その男は、別の一座にいた男で、身体を使ってものを割るのを見せ物にしていた。  まず、瓦を割る。  一枚、二枚ではない。  割るおりの身体の部位によって違うが、五枚、一〇枚と瓦を重ねて割るのである。  手刀で割る。  肘で割る。  拳で割る。  額で割る。  足で割る。  割るのは、瓦ばかりでなく、杉板を何枚も重ねて同様に割る。  座員に、杉板を頭上に掲げさせ、それを跳躍して蹴って割る。  石も割った。  凄まじい技であった。  形をやった。  平安《ピンアン》という形である。  重厚な動きの中に、疾さの入った形であった。 「誰か、この男と闘う者はないか」  形の後で、座長が見物客に言った。  勝ったらば、何がしかの金を賞金として出すという。  さきほどの、試し割りや形を見ているので、誰も手をあげない。  すると—— 「おいが、やるばい」  出てきたのは、身の丈六尺近い大男であった。  ひと目で、相撲をやっているとわかる身体つきの男であった。  身体の大きさが違う。  肉の量が違う。  石を割った男が、せいぜい七〇キロほどであるのに対し、出てきた男は一〇〇キロに余る身体をしていた。  出てきた男は、もろ肌を脱ぎ、上半身裸となった。  現役の力士のごとくに、首が太く、肩にも肉が付いている。  眼を攻撃してはいけない。  噛みついてはいけない。  どちらかが参ったをするか、意識を失うか、足の裏以外の場所が地に着いたら負け——そういう取り決めがあった。  太鼓の音で、試合が始められた。  大男は、ずいずいと前に出てゆく。  男は、横へ回わってゆく。  幾ら、堅いものを割ることができても、柔らかいもの——たとえば人の身体の如きものは、そう簡単には割ることはできない。  あの拳を頭に当てられたら、鉢は割れるかもしれないが、身体に当たるだけなら、力士の身体はしばらくその衝撃に耐えることができるであろう。  叩かれてもよい。  顔に、拳を当てられるのだけを避けて組む。  組んで、投げ飛ばす——  それで、賞金が自分のものになる。  万が一、顔をねらわれても、黙って頭部を叩かれるわけではない。  瓦は動かない。  動かない瓦を拳で叩く時は、その打撃が一番威力を発揮するかたちで当てることができるが、動いているものはそうはいかない。  拳が伸び切ってから、あるいは拳が伸びる前であれば、たとえ当てられても効果は半減する。  それを、経験上、惣角はわかっている。  動いているもの、それも、等速運動をしていないもの——たとえば蝶や鳥、そして、拳から逃がれようとしている頭に拳を的確に当てるというのは、そうたやすくできることではない。  それは、大男も心得ているのであろう。  横へ動く男に向かって、身体を揺らしながら距離を詰めてゆく。  と——  ふいに、男が動きを止め、それまで逃げていたのが、いきなり前に出た。  肉の塊に向かって、身体をぶつけていったのである。  大男は、待っていたように組みにいった。  組んだと見えた時、大男の頭部が、男の両手に抱えられていた。  次の瞬間——  不気味な音が見物客にまで届いてきた。  男が、大男の頭部を抱え、その鼻頭にいきなり自分の額を打ちつけていったのである。  骨と骨とがぶつかり、肉が潰れる音。  しかし、大男はひるまなかった。  男を腕の中に捕えた——と見えた時の男の右肘が、横から大男の左頬を打ち抜いていた。  巨体がよろめいた。  ふたりの身体が離れた。  男は、大男の横に回わり込んでいた。  その大男の左膝に、横から、右足の踵を打ち下ろしていた。  めりっ、  音がした。 「ぐわっ」  と声をあげ、大男はその場に両膝をついてしゃがみ込んでいた。  男は、呼吸さえ、乱していなかった。  鼻から血を流し、足を引きずりながら、大男は客席にもどっていった。  座長が出てきた。 「他に、この金城朝典《かなぐすくちょうてん》の相手をする方はいらっしゃいませんか」  座長の言い方から、もう、出てくる人間はいないであろうと彼が考えているのがよくわかった。 「それではこれで——」  と座長が言いかけた時、 「自分がやります」  惣角は言った。  惣角は、客席から立ちあがって、前に出ていった。  さっきの大男と違って、惣角の身体は、座長が金城と呼んだ男よりずっと小さかった。  ずんぐりとした、当時の平均から考えても小さな男だ。 「やめとけ」 「ケガばすっど」  客席からそういう声があがった。 「本当にやるつもりか」  座長が、心配そうに声をかけてきた。 「ああ」  今、大男を倒したばかりの金城を見やりながら、惣角はうなずいた。  金城に歩み寄り、 「頼みがある」  惣角は言った。  金城は答えない。  ただ、惣角を値踏みするように見ている。 「今のような真似はしなくていい」  惣角は言った。 「今のような真似?」  惣角に問うてきたのは座長であった。 「手を抜かなくていいということです」 「手を抜いた?」 「今、頭を叩こうと思えば叩けたのに、そうしないで、わざわざ横へ回わって膝を蹴ったじゃないか」  あくまでも、惣角は座長ではなく、金城を見つめている。 「自分は、きみの生命を取るつもりでゆく。きみも、わたしの生命を奪うつもりできてくれ」  金城は、小さく顎を引いてうなずいた。 「それからもうひとつ——」  今度は、惣角は座長に向かって言った。 「足の裏以外を地についたら負けというのはおかしい。勝負は、どちらかがまいったと言うか、気絶をした時につくものだ。それでどうだ」 「それだと、あなたが倒れた時、金城は頭を踏みつけてきますよ。よろしいのですか」 「かまいません」  惣角は言った。  金城を見る。  金城が、惣角を見て、またうなずいた。  惣角は、金城と向かいあった。  太鼓が鳴らされた。  金城は、腰を落として、両手を前に出して構えた。  奇妙な構えだ。  浅黒い顔が、こちらを見ている。  何を考えているのかわからない顔だ。  この男の、手は、剣と同じだ。  惣角はそう思った。  触れれば、切られる。  腕の長さの剣。  足の長さの剣。  そういう剣を相手が持っている。  惣角は、その間合いをとった。  剣の間合い。  じわり、じわりと、金城が間合いをつめてくる。  組む時は、ひと息で間合いをつめなければならない。  剣の間合いより、もっと近い間合いまで一瞬でつめて組む。  金城の間合いに入ったと見えた瞬間、惣角は前に出た。  間合いをつめようとしたその時、  どん、  と腹にぶつかってきたものがあった。  腹を鍛えてなければ、身をくの字に折り、腹を抱えて倒れ込んでしまいそうな一撃であった。蹴りだった。  腹を蹴られて、つめようとした間合いをもどされてしまったのである。  その間合いを、半歩、金城がつめてきた。  つめてきた時には、もう、拳を打ち込まれていた。  腹。  胸。  頬。  頬だけは、なんとかかわした。  金城の拳が頬をかすめた。  拳の触れたその場所が、ぱっくりと裂けていた。  まさしく、刃物であった。 (二〇)  ただ打つのではない。  ただ突くのではない。  惣角の学んだ当て身の技は、組むために打つ。組むために突く。  組んでから打つ。組んでから突く。  組み、倒してから、打ち、突く。  そして、最後には押さえる。  そういう技だ。  あるいは、組み、腕を取って投げ、腕を取ったかたちのまま、倒れた相手の顔を踏み抜く。肋《あばら》を踏み折る。  今、惣角が出会っているのは、打つために打ち、突くために突き、打つために突き、突くために打つ。  打つ、突く、蹴る、これが流れの中で連続して自分の身体を襲ってくるのである。  突きの間合い、あるいは蹴りの間合いをはずして懐へ入ろうとすると、次には肘が顔に向かって打ち込まれてくる。  なるほど——  と惣角は思う。  やはり剣か。  しかし、単純に剣というだけのものではない。肘関節で曲がり、肘を当てたり、蹴りまでが飛んでくる。  これまで、惣角は、相手の拳や足の攻撃を、微妙な間合いではずしていた。身体に当たりはしても、それが致命傷にならぬようにしてきた。ゆとりをもって、そうしてきたのではない。ぎりぎりのところでかわしてきたというのが、実際のところである。  もしも、あの拳をまともに頭部に当てられたら、その瞬間に勝負は決してしまうであろう。場合によっては、頭の鉢を割られてしまうことだってあるかもしれない。  組んでくる相手と、何度か闘っているのであろう。  さっきの闘いでは、わざと相手に組ませ易くして、その隙を突いて、額を相手の鼻頭《はながしら》に当てていった。  金城は、惣角がそれを見ているのを知っている。わざと隙を作って誘ってくることはあるかもしれないが、同じ手を使ってくることはないであろう。  惣角は、先に隙を作った。  左手を、掌ひとつ分ほど下げて、右手を伸ばして、金城の左袖を取りにいったのである。  金城が、左手を引きながら、右拳を頬に向けて打ち込んできた。  かかった。  その打ち込まれてきた拳の外側に身をずらせ、相手の身体の右側面から金城に組みついた。  金城が、右肘を後方に向かって打ち込んでくるが、ほとんど効かない。  足を掛け、自分の身体を浴びせかけるようにして金城を倒し、倒しざま、右腕をからめとって仰向けになる。  腕拉《うでひし》ぎに極める。  ぎりぎりまで肘を伸ばす。  金城は、当然ここで�参った�の合図をしてこなければならない。  だが、金城は参ったをしなかった。  次の瞬間、信じられないことが起こった。  惣角の頭部目がけて、上からぶつかってきたものがあった。  金城の左足であった。  それが、惣角の頬の傷口の上に当たる。  金城が、腕拉ぎを極められたまま、身体をねじり、足で蹴ってきたのである。  驚くべき身体の柔らかさであった。  惣角は、ためらわなかった。  迷わず腕に力を込め、仰向けになったまま背を反らせた。  めりっ、  と、布を裂くような音が、金城の右肘の中でした。  金城の右肘の靭帯がちぎれる音だ。  折った。 「ぐむっ」  と、金城が喉の奥で呻き声を押し殺した。  まだ、参ったをしない。  惣角は、上から覗き込んでいる座長と目を合わせた。  座長は、おろおろとした眼で、ふたりを見下ろしている。  こういう時にどうすればよいかということが、座長にはわからないのであろう。  たとえ、勝てぬということがわかっても、負けた方は、自ら参ったとはなかなか言い出せない。その、闘う者どうしの心の機微を察っして、立会人が、声をかけて闘いを中断させねばならない。 「勝負はついた」  惣角は言った。 「とめねば、腕をちぎりとる」  座長は慌てて身をかがめ、惣角と金城の両肩を叩いた。 「そ、それまで」  叫んだ。 「それまで。それまで」  惣角が力を抜く。  惣角が立ちあがる。  惣角の顔は血にまみれていたが、驚いたことにもう血は止まっていた。  右腕を左手で押さえ、金城が立ちあがる。  座長は、どうしてよいかわからずに、惣角と金城を眺めている。  これまで、金城がずっと勝ってきたのであろう。  座長は、ふたりの顔を交互に眺め、言葉を発っしかねている。  その時——  右腕を押さえたまま、金城が惣角に歩み寄ってきた。 「ぬしの勝ちじゃ」  金城が言った。  客の間に、大きなどよめきの声が湧きあがった。 (二十一)  楽屋とも呼べない、狭い筵《むしろ》と筵で囲われた場所で、惣角は、二円という金を座長から受け取った。  惣角が、小屋から出てゆくと、後方から声をかけてきた者があった。  さきほど、惣角と闘った金城という男であった。  金城は、右腕を肩から吊っていた。 「強かのう」  金城は言った。  さっきまで、金城が全身から発散させていた、ぴりぴりするようなものは、もうない。 「名は?」 「武田惣角じゃ」  惣角が答えた。 「ぬしゃ、何をやっちょった」 「色々じゃ」 「色々」 「剣術、槍術、居合、柔術……」 「なるほど、それでわかった」 「何がじゃ」 「ああいう間合いをとれるわけがじゃ」 「あんたは、何をやってる」 「那覇手じゃ」 「那覇手?」 「沖縄じゃ。琉球の手じゃ」 「沖縄じゃ、皆、ああいう手でやるのか」 「まあ、そうじゃ」 「あんたは、その中でどのくらい強いんじゃ——」 「自分では、強い方じゃと思っちょったが——」 「あんたより、強い者はいるのか」 「そりゃあ、いるさ」 「その沖縄の手じゃが、教えてくれる者はあるか」 「沖縄へゆけばな」 「沖縄か」 「ゆくなら、おれが連れていってやろう」 「あんたが」 「この腕じゃ、働けん。沖縄へ帰ることになる。一緒に行けばいい」  惣角の逡巡は短かった。 「行こう」  惣角がうなずき、それで、惣角の沖縄行きが決まったのである。  惣角は、身を置いていた軽業《かるわざ》の一座をやめ金城と一緒に沖縄へゆくことになったのであった。 (二十二)  沖縄に一年余りいて、惣角は九州にもどってきた。  九州では、熊本の阪井道場で厄介になっている。  そこで、佐村正明、中村半助の試合を知って、ここまで出てきていたのである。  上原庄吾が、惣角に声をかけている最中に、何人かの男たちが、二階にあがってきた。  下坂道場の面々であった。  宇高権太夫、妹尾季之進、野田碌郎の顔ぶれがあった。道場主の下坂才蔵、そして、佐村と闘った中村半助の顔が、そこにない。  一同で、半助の家へ、半助を見舞ったその帰りである。  上原庄吾は、 「おいは、行かん」  自分だけ残った。  負けた半助の顔を見て、言う言葉がない。  ならば、後で会おうということになり、その待ち合わせ場所の小料理屋へ、上原が先に来て皆を待っていたところであった。  下坂才蔵は、自分の道場へもどっている。  いずれ、才蔵もここへやってくることになっている。 「何ごとじゃ」  宇高が、そこに立って惣角たちを見下ろしている上原に声をかけた。 「こん男が、半助と佐村の試合ば馬鹿にしたのじゃ」  上原の顔が赤いのは、酒のためばかりではない。 「馬鹿にしてはおりません」  惣角は言った。 「した。自分の方が強か、そう言ったではないか」 「それを言ったのは、あなたです。自分の方が強い、そう思っているのだろうとわたしに言いました」  その通りである。  上原は、言葉につまった。 「しかし、ぬるか試合じゃとは言うた」 「はい」 「やはり言うたな」 「まさか、そこで聴いているとは思わなかったので、思ったままを口にしましたが、馬鹿にしたのではありません」 「なに」 「あの闘い方では、どちらも、試合中に眼を潰されてしまうだろうと言いました」 「それが、馬鹿にしてるということになる」  上原が言った。  宇高は、惣角を見下ろした。  小男であったが、並ならぬ眼光で、宇高と上原を等分に見あげている。  宇高は、惣角が膝に置いた右手に、二本の箸を逆手に握っているのを見てとった。 「まず、一歩退がれ、上原」  冷静な声でそう言った。  上原は、一歩退がった。  そこで、ようやく上原も、惣角が箸を握っていることに気がついた。  しかも、いつでも瞬時に立ちあがれるように、惣角は足の指を畳に噛ませている。 「下坂道場の、宇高じゃ」  宇高は言った。 「そこの男は、上原言うて、中村半助の兄弟子じゃ」 「いや、これは失礼ばいたしもした」  そつない声音で言ったのは、阪井進之介であった。 「わしゃあ、熊本の槍術阪井道場の阪井進之介と言う者じゃが、今日は、佐村どんと半助どんの試合ば拝見するため、久留米まで、足ば運ばせてもらいもした」 「では、阪井作之進先生の——」 「阪井作之進は、おいの父でありもす」  互いに顔こそ合わせてはいないが、名前は聴き及んでいる。 「酒の上のことじゃ。面と向かって言うたのではなか。上原さんがおるのを知らんで言うたとじゃ」  阪井が言った。 「あの試合で、自分なら三度は佐村を殺しちょると、そう言うたはずだ」  上原が言った言葉に、さすがに宇高もぎょっとした。  そこまで言うか。 「そう言うたとか」  宇高が問う。 「言いました」  物怖じしない態度で、惣角は言った。 「それはつまり、おんしの言う、眼の中に指ば入れて潰してもよかっちゅう試合でのこつか」 「はい」 「しかし、あれはそういう試合じゃなか。そういう試合じゃったら、また佐村どんも違う闘い方ばするはずじゃ。そう簡単に口で言えるようなこつじゃなかぞ」  宇高は、先ほど進之介が言ったのと同様のことを言った。  しかし、惣角は口を開かなかった。  ただ、黙っている。 「おんし、名は?」  宇高が訊いた。 「武田惣角」  惣角は言った。  聴かぬ名であった。  武田惣角——一部の人間たちの間では、その名が知られはじめてはいるが、まだ無名である。 「試してみればよか」  そう言ったのは、上原であった。 「おんしの言う、眼んなかに指ば入れてもよかっちゅう試合ば、おいとどうじゃ」  上原は、声を低めて言った。  怒りを殺しているため、その声が微かに震えている。 「上原」  宇高が、上原をたしなめようと声をかけた時、 「かまいませんよ」  惣角は言った。 「惣角!」  阪井が、膝立ちになって、声を荒らげた。  阪井と宇高が、せっかくこの場をおさめようとしたのに、上原と惣角がそれをまたもとにもどしてしまった。 「やってもいいが、上原さんと一対一、どちらが勝とうが他の試合はないということが保証されれば」 「おいが保証する。他の者には手を出させん——」  上原の言葉に、惣角の唇が、薄く笑った。 「それは、保証になりません」 「逃ぐる気か」 「いいえ」 「どげんすれば、試合うんじゃ」 「双方、見届け人をひとりずつ。立ち合い人をひとり、違う御流儀の方に立っていただけるのなら」  惣角の眼が、宇高の後方を見ていた。 「わかった、その見届け人、わたしが引き受けようではないか」  宇高の後方、惣角の視線の先から声がかかった。  宇高が、後方を振り向いた。  そこに、久富鉄太郎が立っていた。 「私では不服かね」  久富鉄太郎が言った。  佐村と中村の試合の立ち合い人をやった人間である。これ以上の人物はない。 (二十三)  見届け人として、惣角側が阪井進之介、上原側は宇高権太夫が立つことになった。  場所は、道場ではない。  近くにあった、神社の境内である。  本殿の横の空地に、上原は惣角と向き合って立った。  稽古衣は、どちらも着ていない。  小料理屋の二階で出会った時に着ていたものを、相方共に着ているだけだ。  素足。  土の上に、足の裏が触れている。 「眼の中に指など入れる勝負はするなよ」  ふたりには、あらかじめ、久富鉄太郎が釘を刺している。  さすがに、久富も、それを自らの口で許すとは言えない。  試合の規則は、概ね、半助と佐村が闘った時のものと同じだ。  ただ、違っているのは、野外であるということだ。  近くには、太い銀杏の巨木が生えている。  もう少し向こうには、石畳があり、大きな石もある。  畳ではなく、土の上に投げれば、その投げひとつで勝負は決まってしまうであろう。  受け身をしくじれば、骨が折れる。  石畳や石の上に、投げ落とされたとしても、文句は言えない。  頭から石の上に落とされたら、死ぬことすらあり得る。  蝉が鳴いている。  アブラゼミだ。  そして、クマゼミ。  二種類の蝉の声が、大粒の雨のようにふたりの頭上から注いでくる。  すでに、酒の酔いは醒めていた。  思わぬことからこうなってしまったが、後悔はない。  むしろ、上原は、惣角に驚いている。  いきがかり上、勝負を口にしてしまったが、よく、この惣角が受けたものだ。  よほど、自分の技に自信があるのか。  向き合った時に、上原は流儀を名のった。 「良移心頭流、上原庄吾」 「我流」  惣角は言った。 「あとは、大東流を少々」  大東流——会津藩で数百年にわたって伝えられてきた流儀であり、長い間、他藩への流出を禁じていた派である。  上原も、名は知っている。  柔術以外に、剣も、槍も、小具足術もあったはずだ。  どれほどの技を持っているのか。  自分だったら、異国の地で、あのような場面で、果たして立ち合いの申し出を受けるであろうか。  受けまい。  ただふたりだけで出会ったのならともかく、あれだけの人数がいるのである。  あの時、宇高が間に入った時に、上手にやれば、矛を収められたはずだ。  確かに、こちらの神経を逆撫でするような言い方であったが、向こうも自分に聴かせようとして口にしたことではない。  自分の言いがかりと言えば言いがかりだ。  こちらも、拳を振りあげた手前、それを降ろすに降ろせない。  うまく、向こうがやってくれれば、ほどよいところで拳を降ろすこともできたはずだ。  こちらにも、非はある。  しかし、こうなるのを承知で、武田惣角という男は、立ち合いを受けた。  逆上して、思わず受けてしまった——そういう展開ではなかった。  自分の言葉が、どういう結果を生むか、きちんと理解していた上で、惣角は返事をしたのだろう。  あなどれぬ。  相手が、いやいや、いきがかり上、今、眼の前に立っているのならともかく、そうではない。  それは、惣角の眸《ひとみ》を見ればわかる。  落ち着いた眸であった。  こういう場数を、だいぶ踏んでいるのであろう。  思わぬことでこうなったが、今は、悦びのようなものが、上原の肉の中に湧きあがっている。  もともと、佐村とは、自分が闘いたかった。  いつ、半助が試合えぬようになるかもしれず、そうなったらこの自分が佐村の相手をするつもりで、これまで稽古をしてきたのだ。  午後の陽差しが、頭上に被さった銀杏や杉の梢の間から、境内にこぼれ落ちてくる。  宇高と、阪井が、身動きもせずに上原と惣角を見つめている。 「始め」  久富鉄太郎の声がかかった。  上原は、腰を落として、構えた。  惣角も、浅く腰を落とした。 「りゃりゃりゃ」  声をあげながら、上原は前に出てゆく。  惣角が、横に動く。  上原は、いっきに距離をつめた。 「おうっ」  左手を伸ばし、相手の袖を取ると見せて、 「しゃっ」  右手を振った。  惣角の眼をねらった攻撃である。  本気で眼にあてるつもりではなかった。  あれだけのことを言った以上、いつ、眼を攻撃されても、それだけの対応ができるということなのであろう。それを確かめるための攻撃であった。  五本の指先が、惣角の両眼すれすれのところを、横に疾る。  当てるつもりこそないが、それで、実際に当たるかどうかは判断できる。  もしも、こちらが本気であれば、おまえの眼を潰していたぞ——そういう意味の攻撃であった。  しかし、惣角は、顔をそむけもしなければ、手で、上原の手を払いもしなかった。  眼もつぶらない。 「む!?」  と上原が思った時、 「シッ!」  鋭い呼気を発っして、惣角が足を踏み出してきた。  その瞬間——  がつん、  と頬に何かがぶつかってきた。  惣角の拳であった。 (二十四)  めりっ、  という音がした。  上原は、その音を聴いた。  頬骨が割れた音であった。  上原の上体が、ゆらりと揺れた。  尻から落ちた。  一瞬、上原は、地面に座り込んだようなかたちになった。  仰向けに倒れてゆく上原の顔に向かって、ぶつかってくるものがあった。  惣角の蹴り——右足であった。  上原は、倒れながら、無意識のうちに両手で顔をかばった。その両手が、ぶつかってきた惣角の蹴りではじかれ、足が上原の顎を打った。  かつん、  と音がして、上原の上下の歯が噛み合わされ、折れた歯の欠片《かけら》が宙に飛んだ。  上原が、仰向けになった。  上原の後頭部は、石畳に当っている。  もう、上原にほとんど意識はない。  両眼を開いたまま、仰向けになっている。その顔の上に天から落ちてくるものがある。  蝉の声?  違う。  惣角の足だ。  惣角が、仰向けになった上原の顔を、上から踏みつけにきたのである。  足か。  上原は思う。  しかし、現実味がない。  ひどくゆっくりとした速度だ。  あれに踏みつけられたら——  死ぬか。  現実味を欠いた意識の裡《うち》でそう思う。  その時—— 「それまで、それまで!」  久富鉄太郎が叫んだ。 「やめい」  久富鉄太郎が、飛び込むようにして、ふたりの間に割って入っていた。  足を止め、惣角は静かに一歩退がっていた。 「勝負ありじゃ」  久富鉄太郎は言った。  どちらが勝ったとも、負けたとも、久富鉄太郎は言わなかった。  宇高が駆け寄り、 「上原」  上原の頬を、平手で軽く叩いた。 「おいがわかるか」  上原は、焦点の定まらない視線を宙に泳がせている。 「宇……高しゃん……」  見ている間にも、さっき打たれた上原の頬が、赤紫色にふくれあがってくる。  惣角は、黙ってその光景を見下ろしている。 「今のは、何じゃ」  久富鉄太郎は、惣角に言った。 「今の?」 「今の当て身じゃ」  惣角の使った拳による当て身、そして、蹴足《けぞく》。  柔術にあるどの流派の当て身や蹴足とも違ってみえた。 「手《ティー》じゃ」 「ティー?」 「手墨《テシミ》じゃ」  惣角は言った。 「琉球の手《て》か」 「そうじゃ」  惣角はうなずいた。 「何故、よけなかった」  かがみ込んで上原の様子をうかがっていた宇高が、顔をあげて惣角に訊ねた。 「よけなかった?」 「上原が、おんしの眼ば突こうとした時じゃ」 「あたらぬものは、よける必要がないからじゃ」  惣角は宇高を見、 「ああいう時は、本気で眼を突かねば試す意味はない」  平然と言った。 「歳は幾つじゃ」  久富鉄太郎が訊いた。 「二十三」 「ほう」  久富鉄太郎は、声をあげ、 「嘉納君と同じか」  そう言った。 「嘉納?」 「嘉納治五郎君じゃ。君と同じ歳で、柔術の一派を起こした。嘉納流じゃ」 「知らん」 「この五月に起こしたばかりじゃ。知らんのも無理はない。若い、よい弟子が集まっておる。山田常次郎君、志田四郎君——」  惣角の表情に、わずかにしろ変化が生まれたのはその時であった。 「志田四郎!?」  声が、固くなっている。 「ああ」 「その志田四郎は、会津の出でしょうか」 「たしか、そうであったと思うが……」  久富鉄太郎が言うと、惣角は、何か想うところがあるように、押し黙った。 「知り合いかね」  久富鉄太郎が訊ねた。  うなずくでも、否定するでもなく、惣角は小さく顎を引いて、息を吐いた。  傍に立っていた阪井進之介を見やり、 「お世話になりました」  頭を下げた。 「なんじゃ、何のこつじゃ、惣角」  ふいのことで、阪井には何のことかわからない。 「会津へもどります」  惣角は言った。 「会津へ?」 「東京に寄ってゆきます」 「な……」  どう答えてよいか、言葉を捜しあぐねている阪井進之介に向かって、 「お世話になりました」  惣角はまた頭を下げた。 (二十五)  半助が、下坂才蔵に呼ばれたのは、明治十五年の秋のことであった。  佐村正明と闘ってから、およそ、二月が過ぎた頃である。  日頃、道場で顔は合わせている。  用事があるなら、そのおりにでも声を掛けてくれればすむ。それを、そうせずに使いの者をよこした。  これは特別な用事であろうと、半助は察した。 「酒ば用意せい」  半助は、妻のおふじに言った。  一升徳利と、今朝運んできた鯛を一尾、手土産品にぶら下げて、半助は櫛原町三番丁にある下坂才蔵の家を訪ねた。  夜。  ランプの灯りのもとで、半助は才蔵と向きあった。 「頸《くび》ばどげんじゃ」  才蔵が訊ねた。 「まだまだです」  半助は、分厚い右掌で、頸を押さえた。  太い頸であった。  もともと太かった頸が、ひと回わり、ふた回わり以上も太くなっている。  佐村にやられた頸であった。  日常のことには障《さわ》りはないが、稽古をして頸に常以上の負担がかかると、まだ痛みがある。  左の指先と、左足の先に、軽い痺れもある。  佐村との試合以来、半助の肉体に生じた症状であった。  その痛みのことも、痺れのことも、半助は誰にも口にしてはいないが、才蔵は薄《うす》うすはわかっているようであった。  もし、あの時、参ったの合図をしなかったら、どうなっていたか。  それを思うと、背の体毛がそそけ立つ。 �亀の首取り�  おそろしい技であった。  その時の夢を見る。  佐村に、みりみりと頸を引き抜かれる夢だ。その音に気がついて、夜半、眼を覚ます。全身に、脂汗が浮いている。  布団の上に身を起こし、歯を噛む。 「どげんしたと」  妻のおふじが声をかける。 「何でんなか」  また、布団に横になって眠る。  眠ると、また同様の夢を見る。  また、眼が覚める。 「おいの気の弱かこつが原因じゃ」  火の出るような稽古を始めた。  いつか、佐村と再び相見えて、闘い、勝つ。  その思いが支えであった。  負けたことについて、宇高も、上原も何も言わなかった。  才蔵は、 「御苦労じゃった」  それだけしか言わなかった。  皆の心遣いが身に染みた。  いつか、必ず佐村に勝つ、それを熾火《おきび》のように肉の底に点《とも》した。  稽古が辛い時には、夜の夢のことを思い出して、それに耐えた。 「頸じゃ」  半助は思った。 「頸ば鍛えるこつじゃ」  頸が痛い。  頸稚《けいつい》が、歪んでいる。  整骨の心得のある才蔵が、頸を伸ばしたり、あれこれと養生に気を使ってくれて、一カ月ほどで当初よりは痛みは減ったが、まだ、稽古をすれば痛む。  その頸の痛む場所を、半助はことさらに鍛えた。  頸椎のずれを、鉄のごとき筋肉で鎧《よろ》い、押さえ込もうとした。  もともと、他人より熱心に稽古をする男であったが、さらに稽古に熱が入った。  その稽古の後で、半助は頸を鍛えた。  若い者に、竹刀《しない》を持たせて、それで頸を四方から打たせた。  青痣ができ、血が滲む。 「かまわん、打て」  若い者が、腰がひけて力をゆるめると、 「まだ力が足らぬ」  半助は怒った。 「おいの頸の骨ば折るつもりで打て」  あまりのことに、諭す者もあった。 「半助どん。頸締めっちゅうのは、頸の血の脈ば止める技じゃ。いくら鍛えても、その脈ば止められたら、どげんもならんもんじゃ」 「理屈はそうじゃが——」  知った風なことを言うな、と半助は思った。  そのくらいは、自分も知っている。  しかし、そういう理屈の話ではない。あの佐村の強さは、理屈の外だ。そういう人間に勝つには、理屈の通りに稽古してたらだめだ。人がやらぬことをやるしかない。  狂うしかない。  何をどうされようが、びくともしない頸を作るしかない。  痛みが何だ。  他にも、半助が頸を鍛えるためにやった稽古がある。  仰向けに寝て、頸の上に天秤棒の中央を当てる。その天秤棒の両端を三人ずつ、六人の男に握らせて、上から押さえ込んでもらう。  六人の体重が、頸にかかる。  最初は、喉が潰れ、口から血が出た。  声帯が潰れ、声が嗄《しわが》れた。  それでも、半助はそれをやめなかった。 「やらせちょけ」  師の才蔵は、半助の好きなようにさせた。  半助の頸は、太くなり、瘤のように盛りあがった。力を込めて、触れれば、鉄と同じ感触があるまでになった。  初めは竹刀で打たせていたのを、途中から木刀にかえた。  もはや、尋常でない頸の太さとなっていた。  常人でない。  異形である。  その半助の頸を、才蔵はいたわったのである。 「鬼がふたりじゃ」  才蔵は、半助に言った。  鬼がふたり——ひとりは半助のことであり、もうひとりは、上原庄吾のことであった。  上原は上原で、半助が佐村に負けたのと同じ日に、武田惣角という会津の男に不覚をとっている。  上原は上原でまた、半助に劣らぬような稽古を、日々重ねている。 「ところで、ひとつ、話がある」  才蔵が、用件を切り出した。 「何か」  半助は、膝を正して、才蔵を見た。 「おんし、東京ば行く気はなかか」 「東京」 「うむ」  才蔵が、小さく顎を引く。 「実は、東京の久富鉄太郎君を通じて、警視庁からわしのところへ要請があってな——」 「何の要請ですか」 「このたび、新しく、警視庁に柔術世話係を置くことになったというこつでな」 「———」 「わしに、何人かふさわしか人物を引き連れて上京せよとのこつじゃった」  才蔵の声は、落ちついている。 「しかし、もう、わしは年じゃ。今さら、東京へ出てもお役にたてるかどうかわからぬ」 「———」 「人選は、わしにまかされておる。そして、わしがまず第一に考えたのが、おんしよ、中村半助の名じゃ」 「おいが——」 「他にも、何人か頭の中に名はあるが、その中に中村半助の名がのうては、まわりもおさまるまいと思うてな」  半助は、音をたてて、唾を呑み込んだ。 「どげんじゃ」  行きます——  その言葉が、喉まで出かかった。  行かせて下さい——  そう叫んで、畳に頭をこすりつけたかった。  だが——  半助の脳裡に浮かんだのは、おふじのことであった。  東京へ行くとなれば、おふじも一緒に行くことになる。  おふじは、久留米から出たことがない。病弱であり、東京といわず、熊本へだって行くのは嫌がるであろう。  それはわかっている。  互いの実家のこともある。  半助の喉が、何かつまったような音をたてた。  声は出なかった。  才蔵も、半助の事情はわかっている。 「すぐに答えが出せるようなこつじゃなか。ゆっくり考えて、返事ば聴かせてもらえんか」  半助は、家にもどって、おふじにこのことを伝えた。 「いやじゃ」  即座に、おふじは言った。 「東京なんか行きたかなか」  おふじの顔からは、血の気がひいて、怯えたような眼になった。 「そうか」  半助は言った。  行かない、とも、行く、とも半助は言わなかった。  ただ、うなずいただけだった。  そのことが、話題になったのは、その時だけであった。  そのことを、以来半助は口にしなかった。  ただ、日が過ぎた。  口にはしなかったが、半助は、呼吸《いき》ができぬほどに、東京へ行きたかった。  警視庁の柔術世話係。  国のために、自分の習得した技を生かすことができるのだ。  東京なら、国中にいる腕に覚えのある人間たちも多く集まってこよう。  日本一の柔《やわら》取りになる夢が開けたのだ。  東京に出たい。  だが、それは口に出せなかった。  半月ほど経ったある夜——  眠ろうとする時、おふじが布団の上に正座をした。 「わたしには、わかっとうよ」  おふじは言った。 「あんたは、本当は、東京に行きたかとでしょう」  半助は、黙って下を向いて歯を噛んだ。 「行きたか、行きたかって、その声ばいつも口にしなくたって聴こえとうよ。苦しか、苦しか、背中がそう言っとうよ」  半助を見つめるおふじの眼から、ほろりと大きな涙がこぼれ落ちた。 「あんたが、かわいそうじゃ。生命かけた柔の道で、身ばたてようとしなさっときに、こげな女に邪魔ばされて、あんたが可愛そうじゃ。ばってん、あたしは、東京ば行きたかなか——」  肩を震わせて、おふじは言った。 「わかった、東京へは行かん」  半助は言った。 「ばか」  おふじが、泣きながら言った。 「あたしは、正直に言ったとよ。なんで、あんたは正直に言わんね。おまえば置いても、自分は東京ば行くとなんで言わんね」  激しい言葉であった。  あのおふじが——  半助は驚いた。  もう、おふじのことはわかったつもりになっていた。そのおふじが、このような言葉を口にするだけのものを、その身の裡に秘めていたとは——  この翌日、おふじは倒れた。  熱を出して、寝こんだ。  半助は、必死で看病し、医者にも診せたが容体はよくならなかった。  倒れてから、半月後、おふじは三十五歳でこの世を去った。  死ぬ、前の晩、枕元の半助に、おふじは言った。 「あんた、あんた……」  細い息で、おふじは言った。 「どうした。おいはここにおるが——」  半助は、おふじの手を握った。  弱よわしい力が、握り返してきた。 「東京ば、行きんしゃい……」  おふじは言った。  消えそうな声だった。 「何を言うか、こげな時に——」 「いや、今言うとかんと、言う機会ばなくなってしまうかもしれん。だけん、今言うとくんじゃ。東京ば行きんしゃい」 「おふじ」 「あんたは、ほんとは性根が優しかお人じゃ。あたしにゃ、わかっとう。じゃから、あたしが死んでからも、あたしに義理だてして、東京に行かんじゃろ。だけん、今言うとくのじゃ。東京ば行きんしゃい。東京ば行きんしゃい……」  それが、おふじの最後の言葉となった。 (二十六)  警視庁から、返事が来たのは、十二月の半ばを過ぎてからであった。  下坂才蔵が推薦した人物全てを、警視庁の柔術世話係として採用するという知らせであった。  関口流 久富鉄太郎。  関口新々流 仲段蔵。  良移心頭流 上原庄吾。  良移心頭流 中村半助。  なんと、九州は久留米の地から、四人の柔術家が、柔術世話係として、東京へ出てゆくこととなったのである。  この四年後、警視庁武術試合において、講道館と激しく鎬《しのぎ》を削ることになる古流柔術家たちの一方の雄が、こうして東京へ向かうこととなったのであった。  もう一方の雄——  九州に柔術王国久留米があるなら、関東には、柔術立国千葉があった。  千葉を拠点とする戸塚派揚心流——  そこに籍を置く柔術家たちもまた、新しい日本の中心、東京に覇をとなえるべく、その牙を研いでいたのである。 [#改ページ]  七章 揚心流戸塚派 (一)  桜が散っている。  風もないのに、桜の花びらが枝から離れてゆく。  途中で冷え込んだせいか、この年の桜は長くもった。  その桜が、ようやく散り始めている。  散り始めた上野の山の桜の下を、大竹森吉《おおたけもりきち》は歩いている。  大漢《おおおとこ》であった。  丈五尺七寸五分(一七四センチ)。  二十三貫(八十六キロ)。  着ている黒羽織に、笹竜胆《ささりんどう》の五つ紋。  袴をはいている。  黒い羽織の肩と背に、点々と桜の花びらが載っている。  明治十九年、四月十二日——  大竹森吉、この時、三十四歳である。  昼を過ぎたばかりである。  花見客が、森吉の周囲をそぞろ歩いている。花を見るために、わざわざ上野を回わって目的地までゆこうとする者も多くいる。  わずかな風が、吹くと、落ちる花びらの数が急に増え、その中に、どこかで飲んでいる酒の匂いが混じる。  行く手に、ひときわ大きな桜の古木が見える。  その下に、二人の男が立って、歩いてくる大竹を見つめていた。  二人とも、鼻の下に髭をたくわえた、いかつい体躯の男だった。  大竹が近づいてゆくと、やや背の高い男が、 「大竹さんかね」  声をかけてきた。  不思議そうな顔で、大竹を見た。  ごつい体格のわりに、大竹の風貌には、どこか甘さが残っている。役者として、色悪《いろあく》でもやれば似合いそうな色気が、口元にある。 「ええ」  大竹は、立ち止まって、うなずいた。 「奥田です」  声をかけてきた、背の高い方の男が言った。  まだ、三〇歳にはなっていないであろう。  二十七、八歳であろうか。 「市川です」  もうひとりの男が、頭を下げた。 「大竹森吉じゃ」  大竹は、紅を刷いたような唇で、微笑した。  その下唇の上に、桜の花びらが一枚落ちてきた。その花びらを、大竹は舌で舐めとって口に含んだ。  数度、顎を動かして、大竹は花びらを呑み込んでしまった。 「苦い」  呑み込んでから、また、大竹は微笑した。 「戸塚四天王のひとり、大竹森吉が一緒とは心強い」  市川と名のった男がつぶやいた。 「行きましょう」  奥田と名のった男が言った。 「行きましょう」  大竹は、奥田と同じ言葉を口にしてうなずいた。 「では」 「おう」  市川が、歩き出した。  大竹と、奥田がその後に続いた。 「講道館か——」  大竹は、頭上の桜を見あげながら、つぶやいた。 「楽しみじゃ」 (二) 「上野に花見に行く気はないか」  西村定中がそう口にしたのは三日前、�おかめ�の二階であった。  道場の稽古が終った後のことである。 「鍋でも喰わんか」  始めは、そう誘われた。  西村定中は、大竹の姉である都賀の嫁《か》した相手であり、大竹にとっては義兄にあたる。  歳上であり、道場では兄弟子であった。  断る理由はない。  道場の近くの�おかめ�という小料理屋で、泥鰌《どじょう》鍋を囲んだ。  誘われたのは、大竹ばかりではない。  藤井勇平、片山弥次郎、今田正儀、照島太郎、柏崎又四郎、山本欽作、上野八十吉の顔がある。戸塚道場の主だった顔ぶれであった。  これに、東京に柔術世話係として行っている金谷仙十郎|元良《もとなが》と鈴木孫八郎を加えて、戸塚道場の�十傑�と呼ばれている。 「すでに、耳にしていると思うが——」  西村は、こう言ってその話を切り出した。 「六月に東京本郷の弥生神社で警視庁武術大会がある」  西村の言葉に、 「おう」 「うむ」  皆が、低く声をあげて反応し、私語が消えた。  西村が、ただ親睦のためだけに、ここに道場生を集めたのでないことが、すぐにわかったからである。 「戸塚道場からも何人か、試合に出すことになっている。近々《きんきん》にも、出場する者を決めねばならぬのだが、大先生御病気のため、わたしと若先生とでその人間を選出することとなった」  大先生というのは、戸塚彦介英俊のことであり、揚心流戸塚派を興した人物で一心斎と号した。  揚心流戸塚派——戸塚派揚心流とも呼ばれる。楊心流の流れを汲む流派である。  楊心流は、もともとは、秋山四郎兵衛義時という、長崎生まれの医師が興した流派であった。この楊心流から出たのが、三浦揚心《みうらようしん》の始めた揚心古流である。秋山派の楊心流と区別するために、揚心古流と呼ばれるようになったのだが、揚心流戸塚派は、こちらの揚心古流から生まれた流派である。  二代目が、阿部観柳。  三代目が、江上司馬之助武経。  この後を継いだのが、戸塚彦右衛門英澄である。  戸塚彦右衛門は、はじめ、師の姓である江上流を称したが、その息子の戸塚彦介英俊が、揚心流にもどした。  これが、揚心流戸塚派である。  戸塚彦右衛門英澄の時、道場は江戸の芝西久保八幡山下にあった。  門弟九千有余人。  全国一の門人がいた。  戸塚彦介英俊の時に、明治維新があって、維新後、彦介は道場を千葉に移した。  この千葉時代にあっても、門弟は全国で三千人を数えた。  門人数では、天神真楊流、渋川流を超え、日本一であった。  明治十九年のこの時、彦介は病の床にあって、齢《よわい》七十四歳。  道場は息子の戸塚彦九郎英美が継いでいる。  西村が「若先生」と言ったのは、この戸塚英美のことであった。  この戸塚道場が、興盛を誇ったのには理由がある。  それは、徹底した実戦主義にあった。  他の柔術諸流派が�形稽古�中心であったのに対して、戸塚道場は、講道館より三〇年ほども先がけて、稽古の中心を�乱取り�としていたのである。  その乱取り中心の稽古の中から生まれた、門弟三千人の頂点に立つ柔術家が、その狭い小料理屋の二階の部屋に集まっている。  警視庁武術大会——  いったい、その試合に誰が出るのか。  男たちの関心は、そこにあった。  その出場者は、 「もう、胆《はら》の中にある」  西村は言った。 「しかし、今は、その名を口にする時ではない。若先生に諮《はか》らねばならぬし、それはこのような酒の席で口にすべきことでもない」 「では、ここに集まった理由は何じゃ」  訊ねたのは、片山弥次郎であった。 「昨日、東京へ行って、金谷元良に会ってきた」  金谷元良は、戸塚道場から選ばれ、警視庁武術世話係のひとりとして、東京で警官に柔術を教えている人物である。 「そこで、話を聴いてきた」 「話!?」 「六月の武術大会、嘉納流が出場する」  西村は言った。 「何じゃ、その嘉納流というのは」 「知らんぞ」  何人かから声がかかる。 「学士柔術じゃ」  そう言ったのは、山本欽作であった。 「おう、あれか」 「講道館じゃろ」  そういう声があがった。 「知らん」  そういう声もある。 「師範の嘉納治五郎は、まだ二十七じゃ」  西村が言った。 「ほう」 「若いな」  そういう声があがる。 「学習院の教授じゃそうな」 「学習院、あの学習院か」 「そうじゃ」  治五郎が、東大を出て、学習院の教師に就任したのは、明治十五年のことである。  その翌年には、立花学習院長は、院内に柔道の道場を新設している。  学習院時代、治五郎が仕えた院長は、立花種恭《たちばなたねゆき》、谷|干城《たてき》、大鳥圭介、三浦梧楼といった錚々《そうそう》たる顔ぶれである。  立花種恭は、岩代国下手渡《いわしろのくにしもてど》藩主(福島県)、筑後国三池藩主(福岡県)を経て、若年寄、会計奉行、老中格、会計総裁を務めた人物である。  大鳥圭介は、箱館戦争で名を馳せた元老院議官。  三浦梧楼は宮中顧問官陸軍中将。  谷干城は西南戦争における熊本籠城の勇将で、後に農商務大臣として入閣する人物である。  日本の中枢にあって、政治を動かしているような人物ばかりであり、生徒やその親、治五郎の東大時代の同窓生もまた、同様の人間たちであった。  何度か繰り返したことだが、嘉納治五郎という人物に想いをはせる時、文と武、ひとりの人間の中に、このふたつのものが自然同居し、しかも、自らがそれを実践して、柔道という体系を作りあげてしまったというのは、ひとつの奇跡のようなできごとと言っていい。  しかも、中央に特別な繋がりのある家に生まれたわけでもない。  生身の人間が、ただその身ひとつに具《そな》えたもののみで、これをなしとげたのである。 「小賢《こざか》しそうじゃ」 「だから、学士柔術ぞ」  戸塚道場の何人かから、このような声があがるのも無理はない。  維新以来、柔術は衰退し続けていたのであり、明治十六年になって、ようやく警視庁に、柔術世話係が置かれ、それから少しずつ柔術に陽が当たりかけてきた時期であった。  維新以来、柔術を支えてきたのは自分たちであるとの自負が、戸塚派にはある。  学問をする時間を、柔術に割いてきたのであり、親や家を泣かして、この道に身を投じてきた若者たちであった。  流派の数や、道場の数こそ、久留米や熊本には劣るが、千葉は、この揚心流戸塚派ただ一派の存在をもって、九州の地を凌ぐ柔術王国を、房総の地に作りあげていたのである。  明治十九年から、二十一年まで行なわれた警視庁武術大会において、柔術はこの千葉対九州という図式になるはずであったのだが、ここに、耳なれない新流派が登場したのである。  それが、講道館——嘉納流柔術であった。 「品川弥二郎《しながわやじろう》の屋敷に場を借りて道場を開いているそうじゃ」  上野八十吉が言った。 「なまいきだな」  今田正儀が言ったのに被せて、 「すごいではないか——」  大竹が言った。 「うらやましい」  大竹の言葉に、 「世渡りにだけ長《た》けとるのではないか——」  今田が賛同を求めるようにあたりを見まわした。 「あなどるな」  西村は言った。 「嘉納流、三島通庸の推薦じゃそうな」 「三島総監が?」 「うむ」  西村はうなずいた。 「三島総監が推薦された以上、それなりの実力ありと考えねばならぬ」 「嘉納治五郎と言うたか。どういう人物じゃ」 「起倒流を、飯久保先生のところで学び、天神真楊流を、福田道場で学んだらしい」 「福田八之助先生の所か」  さすがに、福田八之助の名は知っている者がいる。  しかし、治五郎が入門した当時、福田道場にまともに通ってくる門人は、六人か七人。  門弟三千人を数える戸塚道場とは比ぶべくもない。 「強いのか、その男」  山本欽作が言った。 「わからん」  西村は、腕を組んでいる。 「金谷仙十郎と話をしている席に、市川大八と、奥田松五郎がいた」 「それで?」 「ふたりとも、嘉納治五郎を知っているそうじゃ」 「ほう」 「市川大八は天神真楊流を、奥田松五郎は起倒流を学んでいる」  天神真楊流も、起倒流も、治五郎が学んだ流派である。 「で、ふたりは嘉納とは乱取りをしたことがあるのか——」 「ないと言っていた」  同じ流派でも、道場が違えば、こういうことは充分にある。 「ただ、おもしろいことを教えられた」 「何じゃ」 「七年前——明治十二年に、アメリカから前大統領グラント将軍がやって来られた」 「知っている」 「あのおり、飛鳥山の渋沢栄一翁の邸《いえ》で、柔術大会があったが、その時、市川、奥田が形を演じている」 「で?」 「その時、治五郎は五代と乱取りをしたそうじゃ」 「嘉納も出たのか」 「うむ」 「で、どっちが勝った」 「嘉納治五郎じゃ」 「技は?」 「隅落とし」 「飯久保先生の得意技じゃな」 「しかし、相手が五代では、嘉納の実力は計れぬ」 「そうじゃな」  そして、ここで、西村が、 「上野に花見に行かんか」  その言葉を口にしたのである。 「花見?」 「まだ、咲いてるそうじゃ」  西村が言った。 「どういうことじゃ」  今田正儀が訊ねた時、 「講道館へ行って、嘉納流を見てこいということじゃろう」  そう言ったのは、それまで、ずっと黙って聴いていた、大竹森吉であった。 「うむ」  西村が、腕を組んだまま、うなずいた。 「市川と、奥田が、講道館を訪ねるというのでな、うちの人間も同道させてくれと頼んできたのさ」 「おう」 「おれが行ってもよいのだが、大先生の容態がはっきりせぬのでな、誰《だれ》か、別の者をやろうと、若先生と話をしたのだ」 「おれが行こう」  すかさず、大竹が名のりをあげた。 「おれも行く」 「おれもじゃ」  片山と今田が声をあげたが、 「おれが先じゃ」  大竹は、もう自分に決まったような口調で言った。 「道場破りなら、好地に行かせればよい」  そう言ったのは、山本であった。 「おう、好地円太郎はどうした」 「ここに、来てはおらんのか」  何人かが、周囲を見回わした。 「好地なら、抜けました」  そう言ったのは、やはり、これまで黙っていた照島太郎であった。 「いつじゃ」 「�おかめ�に入る前、ひとりで飲む方がよいと、わたしに耳打ちして、抜けました」 「あいかわらずじゃな」  山本が、舌打ちをした。 「決まったな」  声が落ちついたところで、大竹森吉が言った。 「おぬしが行くのでよいが、しかし、道場破りに行くのではないぞ」  西村が、たしなめる。 「嘉納君とは知り合いの、市川、奥田の両人が行くのに、同道する——そういうことじゃ」 「承知じゃ」  嬉しそうに、大竹はうなずいた。 (三)  講道館が、上二番町から富士見町に移ったのは、明治十九年の三月である。  初めが、下谷《したや》の永昌寺であった。  その翌年の明治十六年二月には、神田の神保町に移り、同じ年の九月には、もう上二番町に移っている。この道場の広さは二〇畳あったが、この道場も、入門者が増えたため、すぐに狭くなった。  他に適当な場所がないかと捜していたおり、治五郎の元にありがたい話が舞い込んできた。  治五郎とは知己の間柄であった品川弥二郎が、政府の仕事で、日本の全権公使としてドイツに行くことになったのである。  独りでゆくのではなく、家族でゆく。ゆけば、何年かはもどらない。  品川は、天保十四年(一八四三)生まれで、もと長州藩士であり、後に内務大臣から枢密顧問官となった人物である。  松下村塾の塾生であり、  ※[#歌記号、1-3-28]宮さん宮さん——  の歌詞で知られるトコトンヤレ節の作詞者であった。  このため、品川弥二郎の屋敷が、しばらく空くこととなったのである。 「その間、屋敷に誰もおらぬのでは物騒なのでな」  弥二郎不在中、治五郎は弥二郎から屋敷の管理を依頼されたのである。 「道場なら、邸内に望むものを建てればよい」  弥二郎はそう言った。  これに、治五郎が甘えたのである。  品川弥二郎の屋敷は、麹町九段坂上、富士見町にあった。  広さ千坪の大邸宅である。  その敷地内に、四〇畳の広さを持った道場を建て、講道館はそこに移ったのである。  一軒屋であり、武者窓もついた立派な作りであった。  腰高の竹垣が周囲を囲んでおり、そこを抜ければすぐ道場であった。道場は、入口から入ったところに狭い土間があるだけで、戸が開いていればそのまま外から稽古を眺めることができる。 「御免——」  そういう声が聴こえたのは、午後の稽古が始まって、ほどなくしてからであった。  道場の入口——戸口に、三人の男が立っていた。  応対に出たのは、最初に気づいた保科四郎であった。  稽古を中断して、四郎が出向くと、三人の男が、のっそりと土間に入ってきた。 「天神真楊流、市川大八」 「起倒流、奥田松五郎」 「揚心流戸塚道場の大竹森吉じゃ」  三人が名のった。 「保科四郎です」  四郎は、畳の上に両膝を突いて言った。  しかし、足の甲は、左右とも畳につけてはいない。畳に触れているのは、両膝と爪先だけである。  四郎にとっては、流派名はわかるものの、三人とも知らぬ顔であった。ただ、市川大八の名は知っていた。たしか、講道館門人の有馬純臣が、時おり出稽古に通っていたはずだ。 「何か——」  四郎は、短く問うた。 「嘉納さんは、おられるか」  そう訊ねたのは、市川大八である。 「おりません」  四郎の答えは、素っ気ない。  嘉納治五郎は、今、学習院に出かけている。 「お帰りは?」  奥田松五郎が問う。 「夕刻までには——」  四郎は答えた。  その時、やはり稽古の手を止めて、富田常次郎がやってきた。  四郎の横に並んで膝を突き、 「講道館の、富田常次郎と申します」  すでに、常次郎は、この時期山田姓から富田姓になっていた。  視線を三人に残したまま、常次郎は浅く頭を下げた。  また、三人が名のった。  さすがに常次郎は、三人の名を知っている。 「警視庁で教えていらっしゃる奥田先生でございますか——」 「うむ」  松五郎は、短くうなずいた。  奥田松五郎——  警視庁の柔術世話係である。  常次郎は、その名を、直接治五郎の口から聴かされている。  グラント将軍の前で柔術を披露した話を、治五郎は何度か常次郎に語っているが、その時に出た名であったはずだ。市川大八の名も、そのおり耳にしている。 「嘉納先生は、ただいま学習院の方に出かけております」 「わたしと、市川君は、嘉納君とは顔見知りじゃ」  松五郎が言う。 「先生からうかがっております」 「六月の、警視庁武術試合に、講道館も出場するということを聴いた」 「はい」  富田がうなずく。 「で、嘉納君に挨拶をしておこうと思うてな——」  松五郎の視線が、舐めるように道場内を動く。  その視線が、常次郎にもどった。 「六月の試合、このわたしも出場することとなっている」 「そうでございましたか」 「あるいは、講道館と対戦することもあるやもしれぬ」 「———」 「三島総監のお声がかりじゃ。実力あってのことであろう。しかし、まだ、わたしはこちらの御流儀を見たことがない。嘉納君に御挨拶がてら、お稽古を拝見させていただこうと思うてな。市川先生、大竹先生と語らって足を運んだのじゃ。正直を言えば、本日うかがったのは、そこが本音じゃ」  松五郎は笑った。 �お稽古拝見�  これは、道場破りが使う常套句であるが、しかし今回言っているのは、名もない金欲しさの輩《やから》ではない。警視庁で柔術指導をしている柔術家奥田松五郎——当代きっての実力者だ。斯界《しかい》の格で言えば、明らかに講道館より上である。 「わたしどもの有馬という者が市川先生のところへ、出稽古にうかがっていると思いますが……」 「確かに来ておる。有馬君を間に立てなかったのは、かえってそちらに気を使わせてしまうと思うてな。それで、いきなり訪問させてもろうた」  市川大八が言った。 「どうぞ、おあがり下さい」  常次郎にうながされて、三人は道場に上がり、西側の壁際に座した。 「うらやましいのう」  座しながら、大竹森吉が、誰にともなくつぶやいた。 「ええ道場じゃ」  壁を背にして座した大竹森吉の顔には、笑みが浮いている。  また、稽古が始まった。  三人が道場に入ってきてから、その稽古にこれまでにない緊張感が生まれている。  二〇人余りの道場生が、常次郎と四郎に指導されて、形をやっている。  それを眺めながら、 「あれは起倒流じゃな」 「あれは真楊流じゃ」  奥田と市川が、短く言葉を交す。 (四)  横山作次郎と山下義韶が、連れだって姿を現わしたのは、ほどなくしてからであった。  四郎と常次郎は、講道館に住み込みというかたちで入っているが、横山と山下は、外から通っている。しかし、このふたり、一日として稽古を休んだことはない。  稽古衣に着替え、道場に出てきた横山は、 「何者じゃ」  壁際に座している三人を見て、常次郎に訊ねた。 「先生の客だ」  短く、常次郎は事情を語った。  それを、横で、山下が聴いている。  横山も、三人の名を知っている。 「おもしろいのう」  横山は、三人を見やった。  三人と眼が合う。  視線が、からみ合って離れない。  横山の左右の唇の端が、ゆっくりと笑みのかたちに吊りあがってゆく。  市川大八の視線が、険しくなってゆく。  奥田松五郎は、泰然として横山の視線を受けている。  横山に笑みを返してよこしたのは、大竹森吉であった。 「あいつは?」  横山が、低く常次郎に訊ねる。 「大竹森吉じゃ」  常次郎が言う。 「ふうん」  横山は、視線をはずし、太い指で頭を掻いた。  頬のあたりに、まだ、ひりつくような大竹の視線を感じている。 「富田」  横山が声をかけた。 「なんだ」  常次郎が横山を見る。  富田常次郎。  保科四郎。  山下義韶。  横山作次郎。  講道館四天王と呼ばれたこの四人は、対等に口を利く。  この時期、口の利き方について、講道館には暗黙のルールがあった。  それは、入門が先の先輩に対しては、たとえ相手が年下であっても、�さん�づけで呼び、敬語を使う——また、相手が年上であれば、たとえ後から入門した後輩であっても、�さん�づけで呼び、敬語を使うというものであった。  つまり、場合によっては、ふたりが互いに敬語を使い合うということも、自然にあったのである。  しかし、四人は、師の治五郎の前ではこれを守ったが、互いだけのおりには、敬語も使わず、�さん�づけもしない、対等の口の利き方をしていたのである。 「乱取りじゃ」  横山は言った。 「せっかく、来られたのじゃ。講道館の乱取りを見せずに帰せぬじゃろうが」  乱取りが始まった。  四人が、道場生を相手にしながら、次々に投げ飛ばしてゆく。  そのうちに、 「おい、四郎」  横山が、四郎に声を掛けてきた。 「おれの相手をしてくれ」  無言で、四郎が横山と組んだ。 「待て、本気になるな」  組みながら、横山が四郎の耳元で囁いた。 「おれは、どうも、あの大竹というのが気にいらん」 「そうか」  四郎が、抑揚のない声で、短く言った。  横山が視線を送ると、左端に座した大竹森吉が見ている。  その口元に、笑みが浮いている。 「いいか、四郎。乱取りをしながら近づいて、大竹に向かって、おれをおもいきり投げ飛ばせ」 「何をする気だ」 「考えがある」  横山は、小さく白い歯を見せた。 「できるか」 「わかった」  四郎がうなずいた途端、 「りゃりゃりゃ」  横山が、四郎の襟を取って押した。 「むう」  四郎が、その力を横へ流して、横山を投げようとする。 「ちいっ」 「しゃっ」  投げ合う。  こらえる。  ふたりが、だんだん三人の座す壁際に近づいてゆく。 「おりゃ」  横山が押す。 「とうっ」  四郎が、横山を投げた。  横捨て身—— 「ぬわっ」  横山の身体が、宙を飛んだ。  勢いのついた横山の身体が、どうと、大竹の上に落ちてゆく。  ぶうん、  と、横山の左拳が宙を疾《はし》った。  めりっ、  大竹が背にしていた羽目板《はめいた》が、音をたてて割れていた。  横山の拳が叩いたのだ。  横山の身体が、半分大竹の上半身にもたれかかるようになって止まっていた。  横山の拳は、はじめ、大竹の顔に向かって飛んだ。それを大竹が顔を横へ傾けてよけたため、横山の拳は壁を叩いたのである。もしも大竹がよけねば、横山の拳は、間違いなくその顔を叩いていたところだ。 「貴様、わざとやったな」  言ったのは、大竹ではない。  市川大八であった。  市川は、片膝を立てている。 「まあまあ——」  取りなすように言ったのは、当の仕掛けられた大竹であった。  すでに、横山は、大竹の身体から身を離し、立ちあがっている。  大竹の顔には、まだ笑みが浮いている。  大竹は、横山を見あげ、 「もちろん、そうに決まっているじゃないか。なあ、横山君——」  そう言った。 「はい」  悪びれた風もなく、迷わず横山はうなずいた。 「千葉にも君の名は聴こえているよ。井上先生のところにおられたんだろう。君を見たら、すぐに誰だかわかったよ」  大竹は、嬉しそうに言った。 「うちにもね、君のようなのはいるよ。照島太郎というんだがね。うちの道場に、おれのようなのがやってきて、へらへら笑って稽古を見ていたら、その照島が、間違いなく今のようなことくらいはやってたろうなあ」  大竹の声は落ちついている。  いつの間にか、道場内の稽古が止まっていた。  常次郎と山下が、駆け寄ってきた。 「失礼をいたしました。お怪我は?」  常次郎が頭を下げ、大竹に問うた。 「心配はいらんよ」  大竹は言った。 「このくらいで、ちょうどよい。なあ——」  奥田が、市川に言った。 「ちょうどよい」  奥田の言葉を繰り返して、市川はまた、もとのように座した。 「ところで、ここまで集まっていただいたついでに、うかがいたいことがある」  奥田が言った。 「何でしょう」  常次郎が返事をした。 「講道館では、乱取りは、いつもこのように——」 「はい」 「投げが主体と見たが」 「おっしゃる通りです」 「当て身や、締め、逆技は?」 「乱取りでは、危険なので、使わぬよう指導しております」 「ほう——」  と奥田は声をあげ、 「しかし、危険な技ほど、実戦では効果があると思うのだが——」 「嘉納先生のお考えがありまして——」 「どのような」 「投げもまた充分に実戦的であると」 「それは、どのような意味なんだい」  横から、大竹が声をかけてきた。 「戦場《いくさば》——つまり、外で闘うことになった場合、周囲には岩もあり、樹もあり、地面にしても、畳よりずっと固いものです」  岩の上に投げ落とす。  あるいはただ、地面に投げつける。 「投げは、それだけで充分に勝負を決っしうるものと考えております」 「なるほど、道理じゃ」  大竹がうなずく。 「しかし、勝負には様々な機微もある。当て身、締め、逆技についてはどうしておるのかね」 「乱取りとはまた別なかたちで指導をしております。いえ、まだ、我々も修業中ですので、指導しつつ、皆で学んでおります」  常次郎の言葉には、過不足がない。 「今は、人によっては懐にピストルを持つ世になって、実戦の意味も、大きく変わってきております。柔術は、もとより無手の護身の術なれば、ピストルに勝とうとするよりも、こういう時代なりの意味があらたに生じてくると先生は考えていらっしゃいます」 「考え?」 「西洋から大きな文明の波が押しよせて来る今こそ、日本人は日本の精神を学ばねばならぬと、先生は日頃より言っておられます。それには、柔術が一番よいと——」 「ほう」  大竹が、感心したような声をあげた。 「お若いのに、たいした先生だね」  腕を組んで、大竹はうなずいている。 「大竹先生——」  声をかけたのは、横山だった。 「見たり、聴いたりもいいが、それだけではわからんでしょう」 「なるほど——」  大竹は、腕を組んだまま、横山を見あげ、 「きみは、わかりやすくていいな」  笑った。 「でしょう」  横山も笑った。 「稽古衣なら、ひとり分だろうが、三人分だろうが、洗濯したてのものがあります」 「しかし、嘉納先生がお留守の時に、許されるのかね」  大竹が言った時、 「わたしが、やりましょう」  市川大八が立ちあがっていた。 「わたしは、天神真楊流の人間だ。聴くところによれば、嘉納先生も天神真楊流を学ばれ、井上先生の道場には、まだ、名札が掛かっているらしい——」 「わたしの名札も、保科四郎の名札も、まだ掛かっております」  横山は、嬉しそうに言った。 「他流とやるのではない。同門の者が、稽古で乱取りをする。何か、不都合があるかね——」 「ありません」  横山は、唇を吊りあげ、白い歯を見せた。 「おい、横山」  常次郎が、横から横山をたしなめた。 「不都合はない。稽古をするだけだ」 「横山」  常次郎の言葉が聴こえぬかのように、横山は道場生たちを見やり、 「おい」  声をかけた。 「誰か、稽古衣を持ってきてくれ」 (五) 「おれが立ち会い人をやろう」  そう言ったのは、大竹森吉であった。 「おれは講道館ではないし、天神真楊流でもない。揚心流戸塚道場の人間だよ。場合によっては、うちの道場の人間が、ことによったらおれが、こちらの奥田先生と試合うことになるかもしれないんだ。丁度いいと思うが——」  筋の通った申し入れであった。  横山と市川の試合を、講道館側の人間が見るというのでは公平を欠くことになる。  すると、残るのは、奥田か大竹かということになるが、奥田では、市川に近い。千葉から来た大竹が立ち会い人を務めるというのが、この場では一番筋が通っている。 「おれはかまわんさ」  横山は、言った。 「おれもかまわん」  すでに、稽古衣に着替えている市川も、異存はない。 「横山」  声をかけてきたのは、富田常次郎である。 「なんだ」  答えた横山と眼を合わせ、次に常次郎は市川大八を見やった。 「市川先生」 「何かな」 「ここで試合をする以上は、講道館の流儀で試合っていただきたいのです」 「どういう意味じゃ」 「天神真楊流に限らず、どの流儀にも当てがあります」 「うむ」 「また、吊り鐘を蹴ったり、眼を突く技もあります」 「それが、どうした」 「当て身技や、眼を突くことを禁じ手とさせていただきたい」 「むう……」 「逆を取っても、相手が参ったの合図をすれば、そこまでということに——」 「臆されたか」 「いえ、そうではありません」 「遺恨の残るのを避けたいということか——」 「無用に相手を傷めずとも、互いに学ぶべきことは多くあろうということです」 「富田——」  横山が、常次郎の横に立った。 「おれの流儀は横山流じゃ。試合に、当て身を出すも出さぬも、それは、あらかじめ決めるようなことではない。どうするかは、闘う者どうしが胆《はら》の中で決めればよいことじゃ」 「そうはいかん」 「堅い男じゃのう、富田」  横山は、不満そうに常次郎を睨んだ。  常次郎は、かまわず市川と眼を合わせ、 「投げについても、講道館の流儀でゆきたいのですが」 「投げ?」 「投げたら、それで一本ということでよろしいでしょうか」 「何故じゃ。投げたからといって、その後にはまだ、寝技も、逆技もある。逆技は倒れてからが勝負じゃ」 「しかし、ここが畳の上でなく地面の上であったらいかがです。投げで充分に勝敗を決め得るのではありませんか」 「それは理屈じゃ」  そう言ったのは、黙って成りゆきを見守っていた奥田松五郎であった。 「投げにも、色々な機微がある。地面の上だからといって、投げられたらすぐに勝敗が決まるというものでもない。時には、寝技に誘うため、自ら投げられにゆくこともあろう」 「わかったぜ」  そう言ったのは大竹であった。 「投げで一本。それでいい。ただし、どんな投げでもいいというわけにもゆかぬだろう。それは、このおれが見ようじゃねえか。その投げが、地面であったら本当に動けなくなるような投げかどうか。おれが一本と言わなけりゃあ、投げた後も、そのまんま試合を続けるってえ寸法でどうだ」  大竹は、常次郎の肩を叩き、 「な」  横山の肩を叩いた。 「市川さん、奥田さん、そんなとこでどうだね」 「うむ」 「わかった」  市川と奥田がうなずいた。 (六) 「始め!」  大竹が声をあげた。  しかし、横山も市川も、すぐには動かない。  互いに腰を落として見合っている。 「りゃりゃりゃ」  声をあげながら、市川が横へ動く。  横山の右側へ回わり込みながら距離をつめてこようとする。 「おう」  それを迎えるように、横山が右へ足を踏み出した。 「しゃっ」 「ちいっ」  互いに、手を伸ばして、先に相手の袖口を掴もうとする。  しかし、指先が袖に触れはするが、掴むことはできない。  すぐに、横山は、そのやりとりを捨てた。 「むう」  袖を市川の掴むにまかせ、強引に前へ出て襟を取りに行ったのである。 「む」 「ち」  組んだ。 「しゃあっ」  先に右手で横山の左袖を掴んだ市川が、体《たい》を入れかえ、袖を引きながら足をはらってきた。動かない。  太い木の根をはらいにいったようなものだ。  右手で、横山は市川の左襟を掴んでいる。  引き寄せながら、自らも身体を寄せてゆく。 「む」 「ぬ」  崩し合いになった。  どちらも崩れない。 「面倒じゃ」  横山は襟を放し、両腕で市川の身体にしがみついた。 「なに!?」 「これが横山流じゃ」  市川の身体を、畳から上に抜きあげた。  横山が、爪先で立ち、踵を浮かせ、背を反らせることで、畳の上から、市川の足がわずかに浮いた。  そのまま、市川の身体を腰に乗せて、横に放り出すようにしながら体をいれかえた。  横山が、自分の身体を浴びせかけるようにして、市川を背から畳の上に落とした。  巨漢横山の体重がもろにその上に乗った。  だん、  音がして、仰向けになった市川の上に、横山の身体が乗った。  講道館の乱取りなら、一本をとられても仕方のないかたちであった。 「まだまだ」  市川が声をあげた。  下から、横山の右腕を掴んで、腕がらみをねらってきた。  畳に両膝を突き、横山は、立ちあがろうとした。市川の背が、畳から浮きあがる。  技ではない。  ただの腕力である。  しかし、横山はその腕力がとてつもない。  市川が、手を放した。  しかし、横山はその上に被さっていかない。  立ちあがった。 「今ので、一本はとらんのか」  大竹に問うた。 「まだじゃ」  大竹が首を左右に振った。 「ふん」  横山の前に、市川が立ちあがってきた。  市川の肩が、上下に動いている。  もう、呼吸が荒くなっている。  横山は、ただそこに突っ立って、市川を眺めている。  どういう構えもしていない。 「かああっ」  市川が、組んできた。  横山の左襟を右手で掴んできた。  横山は、市川が好きなように組んでくるのにまかせている。 「えふっ」  市川が、横山の左襟を掴んでいる右拳を、そのまま横山の頬に当ててきた。  当て身——  横山の顔を、拳で殴ってきたのだ。しかし、その拳は、横山の襟を握っているため、技を掛けようとした時に、たまたまそれが顔に当ってしまったともとれる。  巧妙な当て身技と言える。  横山は、嗤《わら》った。  右手を無造作にのばして、市川の左の奥襟を掴み、身を沈めた。  市川の左の奥襟を掴んだ自らの右腕の下をくぐって、市川の背中側に回わり込んだ。  後方から、市川の股の間に左手を差し込んで、立ちあがる。  その両肩の上に、市川の身体を担ぎあげたかたちになった。  市川の身体は、横山の両肩の上で仰向けになっている。  市川の顔が、ひきつった。 「どおりゃっ!」  激しく声をあげて、横山が市川を頭から畳の上に真っ逆さまに落とすのと、 「一本!」  大竹が叫ぶのと、ほとんど同時であった。  大竹が、跳び込んできた。  頭から畳の上に落ちる寸前の市川の身体を、両手で抱きとめた。  崩れるようにして、市川の身体は肩から落ちていた。  仰向けになった市川の顔の横に、横山の右足が踏み下ろされた。  だん!  横山の足が、畳を踏む。  もしも、その足が市川の頭を踏み抜けば、鉢が割れていたかもしれない。 「勢い余って、踏むところじゃった」  横山は、嘯《うそぶ》くように言った。  投げに見せかけて、襟を握った手を当ててきた市川に対して、ついうっかり顔を踏みつけることもあるぞと、横山が脅したのである。 「それまで」  大竹が、ふたりの身体の間に割って入った。 「殺す気か」  大竹が言った。 「手加減しといたわい」  横山は言った。  今、横山が、市川を投げ落とそうとした技について、ふたりは言っているのである。  頭から落とす時に、体重を乗せ、股の間に入れた左腕に力を込めれば、首の骨が折れることだってある。  受け身が極めてとりにくい技だ。  市川は、仰向けになったまま、胸を激しく上下させながら、天井を睨んでいる。 「まだじゃ、まだ負けとらん」  喘ぎながら言う。 「負けじゃ」  言ったのは、座して闘いを見物していた奥田松五郎であった。 「衣被《きぬかつぎ》か」  奥田が言った。  横山が、今、市川を落とそうとした技のことであった。  天神真楊流に、そういう名の似た技がある。 「揚心流の樊搦《はがいがらみ》じゃ」  大竹森吉が言った。 「違う」  横山は首を左右に振り、 「横山流天狗投げじゃ」  そう言った。 「惚れ惚れするほど強いのう」  大竹は、胆の底から声をあげ、 「講道館流よりは、横山流の方が強いか——」  そう言った。 「このおれでも、嘉納先生には歯がたたぬわ——」  横山は笑った。  歯を噛みながら、市川が起きあがってきた。  その市川を、立ちあがった奥田が抱えるようにして、壁際に連れてゆく。 「次は誰かね」  横山は、大竹と眼を合わせ、 「あんたかい」  わずかに眼を細めた。 「やめとく」 「怖じ気づいたのかい」 「ああ、怖じ気づいた」  あっさりと、大竹はうなずいた。 「奥田さん、これで帰らせてもらおうよ」  大竹は、奥田に声をかけた。  奥田は、大竹を振り返った。 「帰ろう。潮時じゃ」  大竹が繰り返すと、 「うむ」  奥田がうなずいた。 「講道館流、充分に見せていただいた……」  奥田は言った。  何か言いたそうに、横山を睨んでいる市川の帯に手をかけ、奥田が解き始める。  半分まで解かれた時、 「自分でやる」  市川が、自分の手で帯を解き始めた。  市川が、着替えを終えた。  それを、少し離れた場所から、見るともなく講道館の道場生たちが見守っている。 「礼を言うよ」  奥田が、小声で、ぼそりと大竹に言った。 「礼?」 「あんたが、帰ろうと言わねば、次はおれがやっていたところだ。やっていたら——」 「やっていたら?」 「生き死にを賭けたものになっていたやもしれぬさ」  奥田、大竹、市川が座した。  三人と向き合うかたちで、横山、富田、山下、四郎が座した。 「お稽古、拝見させていただいた」  奥田が、礼を言って頭を下げた。  挨拶は、互いに短かった。  すぐに奥田たちは立ちあがった。  保科四郎は、彼等が玄関に向かって歩いてゆくのを、凝《じ》っと眺めていた。  と——  何を思ったか、帰りかけた大竹が、四郎の方に向かって歩いてきた。  四郎は、表情を出さぬ眸で、自分に向かって近づいてくる大竹を見ている。  大竹が、四郎の前で立ち止まった。 「よい面構えじゃ」  大竹は言った。  四郎は、無言で大竹森吉を見つめている。 「あんたも、警視庁武術試合には出るんじゃろう」  大竹の問いに、 「わからん」  四郎が短く言った。 「嘉納先生に頼んで、出させてもらうんだな。うちにも、おもしろい男がおるんでな」  それだけ言って、大竹は、四郎の返事を待たずに玄関に向かって歩き出した。  玄関から、外へ出たところで、三人は足を停めた。  眼の前に、男が立っていた。 「おう、嘉納君——」  奥田が言った。  そこに立っていたのは、学習院から帰ってきた嘉納治五郎であった。 「嘉納先生」  道場の中から、声があがり、常次郎、山下、四郎、横山——道場生たちが玄関に集まってきた。 「奥田先生」  治五郎は、すぐに、眼の前にいる人物が誰であるか気がついた。 「それに、市川さんも」  そして、治五郎の眼が、大竹森吉の上に止まった。 「揚心流戸塚道場の大竹森吉です」  すぐに、治五郎にはその男が誰であるかわかった。 「御高名は、かねがねうかがっております。講道館の嘉納治五郎と申します」  治五郎が、頭を下げた。 「本日は、どういう?」 「講道館流を拝見に来たのさ」  奥田が言った。 「それはそれは」  言いながら、治五郎は、玄関に姿の見える富田常次郎に視線を送った。 「私の留守中、何か失礼は?」 「何ごともなかったよ」  奥田が言った。 「充分に講道館流を見せていただいたよ」  奥田が、歩き出す。  市川がそれに続いた。  残った大竹が、 「楽しみだなあ、嘉納さん」  笑みを浮かべて治五郎を見た。  一度、二度、大竹は自分の言葉にうなずき、 「武術試合が楽しみじゃ」  最後は独り言のようにつぶやいて、奥田、市川の後を追って歩き出していた。 (七)  こうして、大竹森吉は、千葉に帰っていった。  道場にもどった大竹を待っていたのは、師である戸塚彦介英俊の死の知らせであった。 (八)  揚心戸塚流は、もともとは楊心流を学んだ戸塚彦衛門英澄が興した流派である。  これを継いだのが、息子の英俊であった。  一心斎と号した。  沼津藩水野家師範。  後に幕府の講武所の教授となった。  維新後は、千葉に転じて戸塚道場を開き、揚心戸塚流の名から戸塚の名を廃して揚心流に復したが、なお、人々からは揚心流の戸塚派と呼ばれた。  大竹森吉などは、この�戸塚�の名に愛着があったと見えて、人に流派名を問われると、 「揚心流戸塚道場じゃ」  このように答えていた。  後の話になるが、この大竹森吉は、江戸日本橋|浜町《はまちょう》に道場を開き、再び揚心流戸塚派を名のっている。  戸塚英俊一心斎が死んだのは、明治十九年四月十五日である。  自宅の裏が道場であり、死んだのは道場である。  死ぬ間際—— 「道場で死なせよ」  そう言って、自分の身体を戸板に乗せて、道場に運ばせた。  息子の英美が、稽古衣を着せてやった。  その道場の中央で、仰向けになったまま、門弟たちに見守られながら、大往生をとげた。  七十五歳であった。 (九)  大男が、鍋を食べている。  鴨鍋である。  相撲取りと見まごうほどの巨漢であった。  丈、およそ、五尺九寸五分。  一八〇センチを超えている。  まるで、小山のような肉塊が、鍋の前に座し、鴨を食べているのである。  食べながら、男は、その両眼から、ぽろぽろと涙をこぼしていた。  男は、泣きながら、鍋を食べているのである。  食べるだけではない。  酒を飲んでいる。  銚子から、湯呑みに酒を注ぎ、それを口の中に放り込むようにして飲む。  独りであった。  すでに、男の周囲には、三〇本余りの空になった銚子が転がっている。  店の者がそれをかたづけようとすると、 「かまわんでいい」  それをやめさせた。 「一心斎先生の供養じゃ」  そう言って、また飲む。  また食べる。  この男、好地円太郎という。  戸塚道場の門下生であった。 「おれほど、先生に愛された弟子はおらん」  それが、この並はずれた巨漢、好地円太郎がよく口にする言葉であった。  まるで、孫のように可愛がられた。  円太郎、円太郎、と、一心斎はいつも円太郎の名を呼んだ。  道場に円太郎の姿が見えないと、 「円太郎はどうした」  門弟に聞く。  多くの場合は、酒を飲みに行っているのだが、それを知っていても門下生は一心斎に言えない。 「酒か」  一心斎の方から訊ねてくる。 「知りません」 「正直に言え」 「すみません、酒であります」  門下生が答えると、 「酒ならば、他で飲むな。わしの家で飲めと伝えておけ」  このように一心斎は言った。 「あの男は、その性《たち》に酷なものがある。酒を飲むとそれが出る」  自分の家なら安心であるということなのであろう。  円太郎がいると、 「円太郎、肩を揉め」 「円太郎、喉が渇いた」  細かい用事まで、円太郎に申しつける。 「大先生、今なら、首がとれますぞ」  円太郎も円太郎で、後ろから肩を揉みながらそんなことを言う。 「おう、とれとれ」  一心斎が笑いながら言う。 「では」  円太郎が、太い腕をやおら後ろから一心斎の首に回わして、締めにゆく。 「きかぬ」  一心斎が言う。 「もそっと力を込めよ」 「これでは?」 「まだじゃ」 「これなら」 「まだまだ」  首の強いのが自慢であった。  門弟たちははらはらして見ている。  円太郎は、並はずれて力が強い。  その円太郎が、意地になって力を込めるからである。 「円太郎、力ではない。技ぞ」 「技も力がのうては効きませぬ」 「では、締めてみよ」 「はい」  そういうやりとりをしているうちに、一心斎がぐったりとなったことがあった。  落ちてしまったのである。  そういうこともあったのだ。  その一心斎が、今はいない。  円太郎は、泣きながら、鴨をつつき、湯呑みで酒を飲んでいる。  時おり、声をあげて泣く。  子供のように泣いた。  店の者も、円太郎をもてあましている。  そのうち、 「うるさいぞ」  奥から声がかかった。  円太郎の泣き声が止んだ。  口に運ぼうとしていた湯呑み茶碗を持っていた右手も、途中でその動きを止めていた。  円太郎は、顔をあげて、声のした方を見やった。  奥に、五人の男が、やはり鍋を囲んでいた。  その中のひとりが、今の声を発っしたものらしい。  誰が言ったのか!?  動きを止めたまま、円太郎は男たちを睨んでいる。  ただの男たちではなさそうであった。  土地の地回わりか、それに近い男たちであろうとわかる。  五人の男たちのうちのひとりが、円太郎に視線を送ってきている。  視線が合った。  円太郎は、眼をそらさない。  男も、眼をそらさない。  見つめあった。 「川島」  五人のうちのひとりが、円太郎と眼を合わせていた男の肩を叩いた。  その男——川島は、円太郎の視線にからめていた自分の視線をはずして、また仲間と酒を飲みはじめた。  しばらくして、また、その男——川島は円太郎に視線を向けた。  驚いたことに、まだ、円太郎は川島を睨んでいた。  さっきと同じ眼つき、おなじ姿勢であった。  右手に、酒の入った湯呑みを持ったままだ。  川島の眼つきが、険しくなった。 「川島」  さきほど、川島の肩を叩いた男が、声をかけてきた。  川島は答えない。  円太郎を睨んでいる。 「おい」  男は、川島の肩にまた手をやってから、川島の視線の方向——円太郎の方に顔を向けてきた。その男の視線も、円太郎の視線がからめとってしまった。  異様な視線であった。 「どうした」  仲間の異変に気づいて、次々に男たちが円太郎の方へ顔を向けてきた。  しかし、円太郎は視線をそらさない。  円太郎の周囲の畳の上には、三〇近い空《から》の徳利が並んでいる。 「何か用か」  川島が言った。  円太郎にとっては、聴き覚えのある声であった。  さきほど、 �うるさいぞ�  と言った声だ。 「うるさいと言ったのはおまえか」  円太郎は言った。  川島は、答えなかった。  立ちあがった。 「おい」  仲間が、川島に声をかけたが、もう耳に届いていないようであった。  川島は、円太郎に向かって歩き出した。 「おい、川島」  川島の肩に手を置いていた男が、一瞬に立ちあがっていた。 「川島、高井」  ふたりの背に、仲間が声をかける。  川島が、円太郎に近づいてきて、立ち止まった。  すぐ足元に、空になった徳利が並んでいたからである。  川島は、足で、それを横へ蹴り倒して自分の道を作った。  徳利が倒れる。  川島は、円太郎の前に片膝を突いて、顔を前に突き出し、 「うるさいからうるさいと——」  川島は、その言葉を最後まで言い終えることができなかった。  その顔に、ざぶりと、酒がかけられた。  円太郎が、持っていた湯呑みの中の酒を、いきなり川島の顔にかけたのである。  湯呑みごとであった。  川島の左頬に向かって、ぶうん、と唸りをあげて飛んできたものがあった。円太郎の右掌であった。  分厚い円太郎の右掌が、横から川島の頬をおもいきり張り倒したのである。  胡座をかいたまま、頬を張ったのだが、川島の身体は横に飛んで、立ててあった衝立てを破り倒し、仰向けになって動かなくなった。  川島は、眼を開いたまま意識を失っていた。 「先生の供養で立てた徳利を倒した罰じゃ」  しかし、男たちには、何のことかわかるわけもない。  わかったところで、おとなしく引き退がる連中でもなかった。 「何をするか」 「野郎」  男たちが高い声をあげた。 「外じゃ。外へ出い」  高井が言った。 「何のためじゃ」  円太郎が言った。 「店の迷惑じゃ」 「迷惑?」 「おまえさんの歯を全部叩き折って、腕の一本も折らねばおさまらん。それをここでやったら、店の迷惑じゃと言ってるのだ」 「ここでいい」  のっそりと、円太郎が立ちあがった。 「外じゃ」  高井が、冷静な声で言った。  男たちが、円太郎を囲んだ。 「外でもよいが、逃ぐるなよ」  円太郎が言った。  本来ならば、男たちが言うべき台詞であった。  男たちが、前後で円太郎を挟んだ。  前にふたり、後ろにふたり——  男たちに、前後を挟まれたまま、円太郎は階段を降りてゆく。  階段の下で、店の者に、 「我らの飲み代《しろ》じゃ」  高井が金を渡した。 「上で、ひとり倒れている。介抱してやってくれ」  外へ出た。 (十)  夕刻であった。  男たちは、円太郎を囲んで、ぞろりぞろりと歩いてゆく。  まだ、人通りがある。  その人通りの少なくなる方へ向かって、男たちの集団が移動してゆく。  堀へ出た。  近くの川から水を引いている堀だ。  岸に柳が生えている。  人家も、人通りもない。  少し向こうにぽつんと人家のあるのが見えるが、距離はまだある。  誰からともなく、柳の下で立ち止まった。  円太郎が、柳と堀を背にするかたちで立ち、その周囲を男たちが囲んだ。 「あまり歩かせるんで、酔いが醒めた……」  ぼそりと円太郎が言う。 「もう遅いよ」  高井が言った。 「何のことだ」 「さっきは酔ってて、今は醒めている。だから許してくれって言ったって、遅いということだ。ケジメはつけさせてもらうよ」 「安心した」 「なに!?」 「やめるのかと思った」 「———」 「先生の供養ができる」  円太郎は、天を仰いだ。  空には、もう、ふたつ、みっつと、星がきらめきはじめていた。  高い場所を、風が吹いているらしく、その星が瞬いている。  その円太郎の両眼に涙が溢れていた。  円太郎は、天を仰ぎながら、袖から両手を抜き、右肩、左肩を風の中にさらした。  裸の上半身が露わになった。 「おう……」  男たちが、低く声を洩らした。  逞しい胸。  太い二の腕。  分厚い肉。  鉄《くろがね》の如き肉体がそこにあった。  そこではじめて、男たちは、自分たちの眼の前にいる人物が、普通でないということに気づいたのである。  その時——  声が聴こえた。 「うららららら…………」  人の叫び声だ。  その声が近づいてくる。  誰かの走ってくる足音。 「うらあっ!」  円太郎を囲んだ四人の男たちの背後から、ひとりの男が前に出てきて立ち止まった。  川島であった。  眼が、血走っていた。  口の周囲は、血で汚れている。  べっ、  と、川島は何かを吐き出した。  赤い唾液であった。  その中に、白っぽいものが見えているが、それは、折れた歯であった。  川島は、その右手に、刃物を握っていた。抜き身の匕首《あいくち》であった。 「あやああああっ!」  川島は、勇気を振り絞ろうとしているかのように声をあげ続け、そして、いきなり走り出した。円太郎に向かって。  川島の身体が、円太郎にぶつかった。  川島が、後方に倒れた。  尻を突き、後方に両手を突いて、川島は円太郎を見あげた。  円太郎の腹から、匕首が生えていた。  長さ九寸五分。  その先端が、円太郎の腹に潜り込んでいた。  先端だけだ。  円太郎の堅い腹筋が、匕首の刃を止めてしまったのである。  ゆらりと揺れて、匕首が地に落ちた。 「力が足りないね」  円太郎は言った。  腰をかがめて、地面から匕首を拾いあげた。  自分の腹を眺めた。  刃が潜り込んでいた箇所は、一文字に短い傷があり、わずかに血が流れていた。 「こうやるんだよ」  円太郎は、匕首の柄を握って、もう一度、その切っ先を傷口にあてて、中に押し込んだ。 「む」  切っ先が、さっきより深く、中に潜り込む。 「こいつ……」  高井が、額から脂汗を流しながらつぶやいた。 「ば、ばかか——」  腰が、半分退がりかけている。 「先生、先生……」  円太郎は、まだ泣いていた。  ふいに、 「い、痛え」  円太郎は言った。  腹から匕首を抜いて、放り出した。  傷口を見る。  さっきより傷が大きくなって、流れ出している血の量も多い。 「痛えじゃねえか」  上から、川島を睨んだ。 「よくもやったなあ」  川島の顔を、いきなり蹴った。  右足の下駄だ。  仰向けに倒れた川島の顔を、下駄で踏みつけた。  しゃがんで、無造作に川島の左腕を取った。  川島が、あらがおうとした。  しかし、びくともしない。  体力が違いすぎた。  大人と幼児ほどもその差がありそうであった。  円太郎は、急がなかった。  ゆっくりと動いた。  暴れる川島の左手首を両手で握り、伸ばし、 「こうだったな」  自分の両脚の間に挟む。  ゆっくりと仰向けになってゆく。  腕拉《うでひし》ぎだ。  他の四人は、円太郎に呑まれていた。  ただ、眼の前で起こっていることを見守っているだけだ。  高井も呆然となって、口を開いている。  川島の左腕が、真っ直ぐに伸ばされた。 「よいしょ」  いやな音がした。  川島の、左腕の肘関節が破壊される音だ。  ぶちぶちと、靭帯が千切れてゆく音だ。 「えひいっ」  川島が声をあげた。  しかし、円太郎はやめなかった。 「あががががががっ!」  川島が、言葉にならない悲鳴をあげた。  人格が崩壊するような絶叫であった。  川島の左腕は、異様な角度に折れ曲がっていた。  本来、肘の関節が曲がる方向とは別の方向に曲がっている。 「千切るか」  ぐるりと、腕を回わした時、 「何をしやがる」  高井に、正気がもどった。  駆け寄って、上から円太郎の頭を蹴った。 「野郎」 「放せ」  他の男たちも、円太郎の身体を踏みつけてきた。 「やる気だな」  円太郎が立ちあがった。  男たちが離れ、四方から円太郎を囲んだ。  ひとりが、匕首を手に握っていた。  円太郎は、その男を睨んだ。  迷わず、円太郎はその男に向かって歩き出した。 「させるか」  後方から、男が抱きついてきた。  かまわず円太郎は歩いた。  抱きついた男の身体が、ひきずられてゆく。  動いてゆく円太郎を止めることができない。  匕首を持った男に近づいた。  匕首を持った男は、匕首の柄の尻に右掌を当て、それを腰にため、 「かあっ」  全力でぶつかってきた。  ただ、手の力だけで刃物を振り回わすより、この方が恐い。 「馬鹿っ」  円太郎は、身をよじった。  後方から抱きついていた男の身体が振られ、突っ込んでくる刃物に男の背が向くことになった。 「糞」  匕首を持った男は、勢いを止めようとしたが、すぐには止まれない。  仲間の男にぶつかった。  匕首の刃で、その男の尻の肉が抉られていた。  尻を押さえる間もなく、男の身体が宙に浮きあがる。 「先生、先生——」  円太郎が、男を持ちあげ、投げた。  技というよりは、力にまかせて放り投げるのに近い。  猛獣であった。  男は、したたかに腰を地に打ちつけ、呻き声をあげた。 「先生、先生——」  円太郎が、さらに次の男を眼で捕えた時、 「おい、円太郎」  声がした。  高井の背後からであった。  円太郎に負けぬ、大きな身体が、そこにぬうっと立っていた。 「こんなところで、暴れとったか」  高井を押しのけて、その声の主は前に出てきた。 「なんだ、貴様」  周りにいた男が言うが、声の主は、それを無視した。 「探してたのだ。さっき、おまえがいた店で、貴様の飲み代を払わされたぞ」 「すまん、照島」 「帰るぞ」  声の主——照島が、円太郎の肩に手を置いた。 「待て」  言ったのは、高井だった。 「何だ」  照島が高井を振り向いた。 「これだけのことをしておいて、そのまま帰れると思うなよ」 「ほう」  照島が、高井に向かって一歩踏み出した。  高井をひと睨みして、 「堅気じゃないな」  そう言った。 「それがどうした。おれたちは——」 「待て」  言いかけた高井を、照島が遮った。 「言うなよ」 「何?」 「どこの者《もん》かを言っちまったら、とりかえしがつかなくなる」 「———」 「言わなきゃあ、ただのケンカだ。どっちが勝ってどっちが負けただの、面子《メンツ》が潰れたの潰れないのと言わんですむ」 「——む」  高井が、言葉につまった。 「揚心流戸塚道場、丸ごと相手にする気があるんなら話は別だがな」 「戸塚道場の者か」 「潰れるぜ、あんたら」  凄みのある声だった。  戸塚道場の門弟三千人。  結束は固い。  警視庁にも繋がりがある。  半端な博奕打ちの一家の手におえる相手ではなかった。  高井と照島が、睨み合った。  先に眼を伏せたのは高井であった。 「あんたのとこにゃ、そこの男みたいなやつが、ごろごろいるのかい」  高井は言った。 「こいつは特別だ」 「鎖にでもつないどけ。危険だ」 「危険?」 「あんたらにとっても、おれたちにとってもだ」  高井は言った。  高井は、照島と、それから円太郎を見やり、眼をそらした。  唾を吐き捨てた。 「このことは忘れろ。相手が悪かった」  まだ動ける者ふたりが川島を抱えあげ、高井が落ちていた匕首を拾いあげた。  すぐに、男たちはその場から去って行った。  柳の下に、照島と、円太郎が残った。 「怪我は?」  照島が、円太郎に訊ねた。  円太郎は、自分の腹を見やった。  さっきの傷口がある。  もう、血は止まっていた。  そこを、軽く右手でさすり、 「ない」  円太郎は言った。 「よかったな」  照島は言った。 「何がだ」 「試合に出ることができる」 「何の?」 「弥生社の警視庁武術試合だ」 「———」 「相手は、講道館嘉納流だ」  ぼそりと照島は言った。 「それを知らせに来たのだ」 (十一) 「義兄《あにき》」  そう言ったのは、大竹森吉であった。 「講道館、手強い相手になりますぜ」  森吉は、右手に握った徳利を前に差し出した。  左手に持った杯で、それを受けたのは西村定中であった。  西村の家だ。  四畳半で、差し向かいで飲んでいる。  西村定中は、大竹森吉の姉が嫁した相手である。  時おり、こうしてふたりで飲む。  戸塚道場の同門。  しかも、互いに高弟である。  念のために記しておけば、いずれも実在の武術家である。  西村定中、弘化三年(一八四六)河内国|丹南藩《たんなんはん》高木主水正の客分老職西村駒平定保の長子として、青山高樹町の江戸藩邸下屋敷で生まれた。  幼名、継太郎。  元服して定中久敬と称し、平田派の国学を修め、憂国の志あって、諸国の志士と交を結んだ。  武技に長じ、藩邸に近い芝愛宕下《しばあたごした》に道場を開いていた、戸塚彦介一心斎英俊の門に入り、揚心流を学んだ。  元治元年十九歳で、同流中免許に列せられた。  詩文にも長じ、書も画も一風をなして、武術家というよりは文人の風格があった。  この定中の甥が、画人の伊藤晴雨である。  後年、定中が晴雨に語ったところによれば、戸塚彦介一心斎には、武ばかりではなく文も教えられたという。  まだ、定中が継太郎と言っていた頃、 「これからの武士は、算盤《そろばん》ができなくてはならぬ」  日々、算盤を勉強させられた。 「これがいやでな。おれは、涙を流しながら算盤をやったもんさ」  後に定中はそう語っている。  熱血多感。  義に篤《あつ》かった。  その剣技の友の中には首斬り浅右衛門の弟山田玉三郎がおり、明治の掏摸《すり》の大親分、仕立屋銀次とも親交があった。  丈、五尺七寸。  体重二十四貫余。  並はずれた酒豪であった。  西村定中は、元治年間品川英国公使館焼打ちに加わった足利木首党の野城京助とは義兄弟の契りを結んだ仲であった。  少壮にして脱藩。  維新のおりは、天誅組の伴林光平や有村俊斎、品川弥二郎、吉田松陰の遣弟子小野正鞘、高木錬吉陸軍少将等とも交わり、活躍した。  明治元年、朝政実施の際、その功によって大阪府大参事となったが、藩閥《はんばつ》政治が水に合わず、数年で野に下った。  平素、外出時には絣の着物に袴を穿き、山高帽を被った。手にはごつい南天のステッキを持ったが、この握りの部分は、大人の拳ふたつ分ほどもあったというから、いざという時の護身用をかねていたものであろう。  大力無双《だいりきむそう》。  逸話がある。  向島小梅《むこうじまこうめ》で柔術を教えていた頃——  ある夜、定中は、微醺《びくん》を帯びて浜町河岸を通りかかった。  ほろ酔いで、謡曲を吟じながら歩いている。  そこへ、前から酔客を乗せた人力車がやってきた。この人力車が、何のはずみか、横を流れる隅田川に転落しそうになった。  この落ちかかった人力車を、定中が飛び出していってひっつかみ、気合い一声、乗っていた客ごと陸の上に引きもどしてしまった。  そのまま、定中は名も告げずにその場を去ったのだが、件《くだん》の車夫は、 「天狗に生命を助けられた」  あちこちでそう語った。 「それなら、向島の西村先生ではないか」  そう言う者があったので、車夫は角樽を持って礼に出向いたところ、はたして天狗の正体は定中であったという。  維新の頃の話に、こういうものがある。  国許の丹南藩陣屋の高木御殿に伺候《しこう》して、藩主高木公と時事を語りながら、酒を汲みかわしたことがあった。  その帰り——  大酔した定中は、自邸のある黒山に向かって歩いている。  腰には、左行秀《さのゆきひで》二尺七寸の長刀をたばさみ、右手に鉄扇《てっせん》、左手には大瓢箪を下げている。  黒土という場所にさしかかると、ちょうど道の傍に地蔵尊が安置されている。  何を思ったか、定中、その地蔵に向かって、 「エヤッ!」  気合をかけた。  すると、地蔵の廚子がはらりとはずれて、地蔵も一緒に倒れてしまった。  これをおもしろがったのか、定中、それからこの場所を通りかかるたびに、 「エヤッ!」  気合をかけてゆく。  その度に、廚子がはずれて地蔵が倒れる。  これを怪しんだ村の者たちが、いったい何者が地蔵を倒してゆくのかと、屈強な者何人かを現場に張り込ませた。  そこへ、いつものように定中がやってきて、 「エヤッ!」  気合をかけてゆく。  手は触れていないのに廚子がはずれ、地蔵が倒れる。 「やっていたのは西村様じゃ」 「手も触れずに、気合だけで、廚子をはずされた」 「あの西村様では仕方あるまい」  お目こぼしとなった。  これは、昭和の初めまで、村の古老の語り草になっていたという。  酒の逸話にもこと欠かない。  後のことだが、戸塚道場の飛将軍《ひしょうぐん》と称された照島太郎と、酒を飲む約束をした。  飛将軍というのは『三国志』の豪傑張飛のことだ。  場所は、柔術を教えていた本所《ほんじょ》警察所の道場である。  照島も飲む。  そこで、定中は酒を一斗用意して照島を待った。  しかし、急用ができて照島は出てこられなくなり、定中は独りで酒を飲み始めた。  鮭の新巻一本を肴に、定中はこの一斗の酒を暁までに飲み干し、さらに一升を飲んだ。  明方に、平然として帰宅したが、塩鮭をひとりで一本喰ってしまったため、 「あの時は喉が渇《かわ》いて困った」  酒の量については何も言わなかったらしい。  大酒して乱れず、「東海酒隠一梵主」なる雅号もあった。  どんなに大酔して帰宅しても、老母への挨拶は欠かさなかった。  一斗飲んで帰ってきても、老母の居間に伺って、襖《ふすま》ごしに正座をし、威儀を正し、手を支《つか》えて、 「定中、只今《ただいま》帰宅|仕《つかまつ》りました」  このように言ったという。  晩年、すべてにおいて几帳面な人物であったが、酒にだけは執着した。  膳に酒がこぼれれば、 「天与の美禄を勿体ないことじゃ」  人差し指でそれをすくい、その指を口でしゃぶったという。  妙な特技があった。  講談が好きで、自らも語った。  警察での公務の余暇に、近所の少年少女を集めて連続講談をやった。  得意は馬琴《ばきん》の「南総里見八犬伝」。  犬塚信乃の芳流閣の決闘の場面は、一章一句も過《あやま》たず諳《そらん》じていた。  自作の講談もある。  恩師戸塚彦介の孝養と題した出しもので、 �打ちにくし砧《きぬた》に母の影法師�  という彦介の句を主題にした話であったらしい。  話が佳境に入ると、ぼろぼろと熱涙をこぼしながら語るのを常とした。  書画にも造詣が深く、良寛《りょうかん》や広沢《こうたく》の書を珍蔵していたらしい。  晩年は、娘の豊《とよ》と、炭屋の二階に暮らした。  几帳面な性格で、その逸話も残っている。  ある冬、火種に困ることがあり、 「豊、階下《した》へ行って火種を借りてきてくれぬか」  火の点いた炭を借りたのである。  後になって、借りたものと寸分も違《たが》わぬといっていい大きさの炭を半紙に包み、豊にこれを返しにゆかせた。  そのくらいの炭なら、階下の炭屋では土間にいくらでも転がっている。 「借りたものは借りたものじゃ」  それが定中であった。  明治三十八年、日比谷焼打ち事件のあった時、本所警察の要請があって、定中は、鎮圧のため吾妻橋まで出かけている。  そこで、刀槍などの兇器を所有する暴徒数十人と日本刀で闘った。  この時に、身に数創を受けて、戸板で収容されている。  やがて、自宅に籠って療養したのだが、長年の大酒が祟ったのか、中風を併発し、その後、再び起《た》てなかった。  絶筆は、 「丹心素栄《たんしんそえい》| 伏 清 白 以 直 死《せいはくにふしてしをもってなおりする》」  であった。  明治三十九年三月一日——  大雪の日であった。  言問《こととい》の社より白鬚《しらひげ》の渡しに向かう向島土手の右手、小梅の里——榎本武揚邸の隣りにあった薪炭商の二階で、西村定中は世を去った。  それを見とったのは、娘、豊と、後年風俗画をもって世に名をなす甥の伊藤晴雨である。  死の数時間前、豊と晴雨を枕頭《ちんとう》に呼び、晴雨に毎日新聞付録の講談を読ませ、これを聴きながら淡々として逝った。  享年、六十一。  しかし、明治十九年春——  まだ定中は四十一歳である。  大竹森吉と、定中は酒を飲んでいる。  大竹は、この時三十四歳——定中より七歳歳下であった。  ふたりの師であった戸塚英俊一心斎が死んで、まだ間もない。  初七日を昨日、済ませたばかりの時だ。  警視庁武術試合が、およそ一カ月半後に控えている。 「好地円太郎と照島太郎——このふたりは決まりましたが、他は?」  大竹が、定中に問う。 「ぬしゃあ、どうじゃ、森吉」 「あたしは駄目ですぜ」 「何故じゃ」 「看板を背負うってのが、どうも苦手で。なんだか、とんでもないことをしちまいそうでね」 「殺さんで勝てばよかろう」 「相手が弱けりゃあ、それもできましょうがね。さっきも言いましたが、講道館は手強い——」 「そうか」  定中は腕を組んだ。  虚空《こくう》を睨み、 「好地はどうだ」  訊いた。 「は?」 「腹を刺されたそうだな」 「もう、お耳に届いてますか」 「怪我人を、試合には出せぬぞ」 「ぴんぴんしてますぜ。あいつにゃあ、あれは怪我のうちに入らんでしょう」 「うむ」 「好地も、照島も、あたしにゃ可愛いくてね。ふたりとも、柔術をやってなかったら、どうなってたかわかりゃしません。昔だったら、最後は磔《はりつけ》、獄門てえとこだ」 「———」 「そこへいくってえと、義兄《あにき》はてえしたもんです。東京の偉い先生に茶の席へ呼ばれて、書の話もできれば、器の話もできる。作法もひと通り心得てる」 「一心斎先生が、おれが右も左もわからぬ頃、無理矢理たたき込んでくれたおかげさ」 「へえ」 「ところで、照島と好地の出場についちゃあ、おぬしが一番熱心だったなあ——」 「あのふたりに、見せてやりたくてね」 「何を」 「世界をです」 「世界?」 「自分たちのやってきたものが、どれほどのものなのか、それを教《おせ》えてやりてえんです」 「東京で闘えば、世界が見えるか」 「見えます」 「ほう」 「自分の身につけたもの。そいつをつきつめて行きゃあ、柔術家だろうが、大工だろうが、絵描きだろうが、世界を見ることができる」 「———」 「講道館の嘉納治五郎は、もう見てますぜ」 「世界を?」 「ええ」  いつになく、大竹の言葉が熱を持っている。 「大竹、おまえ、講道館に行って、少し変わったか」 「変わりましたか」 「うむ」 「どんな風に?」 「うまくは言えぬが、以前だったら、そんなこたあ言わなかったよ」 「そんなことって?」 「世界だの、何だのとさ」 「自分じゃ、わかりませんが」 「そういうものだ」 「そう言やあ、講道館じゃあ、妙なことを言ってました」 「妙なこと?」 「投げです」 「投げ?」 「講道館では、柔《やわら》の勝負を、投げだけで決めたりしています」 「投げだけで」 「はい」 「馬鹿な。投げる、投げられるというのは、勝負の流れの中のひとつの局面ぞ。投げて、それで終りというものではない。投げられて相手が動けなくなったというのなら、それはわかるが、柔の勝負は、投げられた後もまだ続くものじゃ」 「講道館じゃあ、これが、もし外での闘いであったらどうなのかと」 「外?」 「ええ」  大竹は、講道館であったことについて、細かく語った。  これまで、一心斎の病と葬儀のことがあって、細かい話はしていなかったのである。 「なるほど、理屈は通っている」 「でしょう」 「おもしろい」  海外から、激しい勢いで、西欧の文化や文明が、日本に流れ込んできている。その時代にあって、今、日本人が学ぶべきは日本である。 �それには、柔術が一番よい�  これが、治五郎の考えていることであった。 「そんなことまで言ってるのか」 「言ってます」 「おまえの言い方をするなら、講道館は、世界が見えているということか」 「ええ」  大竹は、頭を掻いた。 「楽しそうだな」  定中は言った。 「え?」 「東京からもどってきてからのおまえが、なんだか楽しそうに見えるってことだ」 「そう見えますか」 「うむ」  確かに、このところの大竹は、傍目にも心が浮き立っているように見える。 「もしもそうなら……」  腕組みをして、定中はつぶやいた。 「そうなら?」 「とられるな」  定中は言った。 「何をです」 「柔術をさ」 「———」 「戸塚道場の大竹森吉を、そんな風にしてしまうのが講道館流なら、いずれ、柔術は講道館流にとられてしまうであろうと言うたのさ」 「義兄《あにき》」  大竹が、真顔になった。 「わたしは、この先何があるにしろ、死ぬまで揚心流戸塚道場の大竹ですぜ」  大竹は、その一生を通じて、この時自分の言った台詞をまっとうした。 (十二)  大竹森吉は、元|菊間《きくま》藩士であった。  嘉永六年(一八五三)の生まれである。  戸塚道場門下生三千人の中で、高弟十傑のうちに数えられ、戸塚四天王のひとりであった。  揚心流戸塚派の雄、英俊一心斎が明治十九年、警視庁武術試合の直前にこの世を去った後、道場を継いだのは、息子の彦九郎英美であった。  この英美は、後の明治三十六年十一月、大日本武徳会から最初の柔術範士の称号を受けている。  その五年後、六十余歳で英美が世を去った後、戸塚流を孤守したのが、大竹森吉であった。  背丈五尺七寸五分、目方二十三貫。  美男であり、眼元に愛敬があった。  よくもてた。  晩年まで、艶っぽい話が常にその周辺にあった。  黒羽二重の笹竜胆《ささりんどう》の紋服袴を身につけ、大道を濶歩した。  直心影流榊原鍵吉の撃剣会興行に刺激され、自らも、浅草奥山で柔術興行を打った。  この興行中、講道館の西郷四郎も巻き込まれた相撲対柔術の大立ち回わりがあって、これが原因となって、四郎は講道館を去ってゆくことになるのだが、それは、いずれ、触れることになる。  大正の中頃まで、日本橋浜町一丁目に、大竹森吉の道場があった。  道場の広さ、四〇畳。  揚心流——大竹にとっては�戸塚流�の柔術と、泳術の笹沼流を教えた。  この泳術笹沼流でも、大竹森吉の名は知られている。  大正末期、両国国技館仮設プールにおいて、笹沼流の泳ぎを披露した話は、今も伝えられている。  褌《ふんどし》一本に、南蛮鉄の兜を被り、立ち泳ぎをしながら、白扇に筆で雄渾《ゆうこん》な書を書いてみせた。  その時、大竹の年齢は、七〇歳を越えていた。  異様な体力の持ち主であった。  盛時には、門人六千人を数え、その柔術の門人の中には文豪芥川龍之介の名もある。  日本画で名をなした奥村土牛《おくむらとぎゅう》は、笹沼流の方の門下生であった。  大竹の人柄が好まれ、後援者には安田財閥の安田善次郎、善衛が付いた。  山田浅右衛門とも親交があり、維新前には、小塚原刑場で、死罪人の試し斬りをしたこともあると言われており、毒婦高橋お伝《でん》の斬首を、浅右衛門の代理として行なったとの噂もある。  酒豪であった。  山田浅右衛門、西村定中と三人で、小塚原《こづかっぱら》刑場で飲んだ。  竹矢来を背に、豪飲した。  そのまま三人でそこに眠り、朝眼が覚めたら、定中、大竹の腹に、槍のようになっている竹矢来の先端が、潜り込んでいたという。  竹が腹に刺さったまま、ふたりはそれに気づかず、朝まで眠っていたという凄まじい話だ。  この大竹の姉が、また、気丈な女性であった。  名を、都賀といった。  教養人であり、能筆。  小太刀を使った。  最初の夫は、子爵祐乗坊玄斎。  三人の子をなした。  この玄斎と離別して、寒川の実家へ帰る時の逸話が残っている。  途中、野犬が狼と化し、何頭も出没しては人に害をなすという場所があった。中には、噛み殺され、喰われてしまった者もいるという。  都賀が、そこへさしかかったのは夜である。  都賀は、三人の子連れである。  そのうちの一人を背に負い、ふたりを左右の手に引いて、都賀はそこを通った。  常に身につけていたという細身の短刀を抜き身で口に咥え、鬼の如き形相をして、夜道を抜けた。  弟である大竹森吉の縁で、都賀は定中と知り合い、嫁《か》して豊という娘をなした。  大竹森吉は、昭和五年、七十八歳で、隠栖の地千葉市猪之鼻台市場町に建つ浄土宗|胤重寺《いんじゅうじ》の前にあった、自邸で没した。  自邸の敷地は千数百坪もあったというから、経済的には、充分に恵まれた環境にいたのであろう。  胤重寺には、大竹の師であった彦介一心斎、二代英美の墓所がある。  ここは、千葉県文化財史蹟に指定されており、傍に門人三千人の内という碑があって、戸塚英美をはじめとする門流百士の出身藩姓名が刻まれている。その中央近くに、菊間藩大竹森吉の名も見える。  晩年、大竹は、白い髯を長く伸ばしたが、頭はつるりとして毛がなかった。この頭部に、刀創のあとが二十七カ所もあったというから、若い頃からよほど危ない目にもあってきたのであろう。  この大竹の墓は、胤重寺ではなく、千葉市内にある日蓮宗|本敬寺《ほんきょうじ》の一角にある。  死ぬまで、柔術揚心流戸塚派に生きた。 (十三) 「ところで、義兄《あにき》——」  大竹は、定中に言った。 「何だ」  定中が、組んでいた腕を解きながら言う。 「照島ですが、ひとつ考えがあるんです」 「どんな考えだ」 「この前会った、東京の市川大八師範が、誰か、自分のところへよこしてもらってもいいと言ってるんです」 「ほう」 「警視庁武術試合まで、戸塚道場の人間を預かってくれるそうです」 「おもしろそうではないか」 「でしょう」 「で、照島か」 「はい」 「好地は?」 「あの男は、他の水には馴じめません。こちらで責任のとれぬほどの騒ぎを起こしかねません」 「だろうな」 「好地は、こちらに置いておきましょう」 「照島を、天神真楊流に預けるわけか」 「講道館の流儀は、起倒流と天神真楊流です——」 「その手の裡《うち》を照島にさぐらせておくということか」 「所詮、試合は我流でしょう」 「うむ」 「講道館流だろうが、天神真楊流だろうが、戸塚流だろうが、学ぶのは表向きの技——どんな技でも、身につけた時は我流になります。同じ技でも、使う人間によって、皆少しずつ違う」 「その通りだな」 「照島に、天神真楊流を経験させておけば、初めから我流と我流の闘いになります」 「———」 「照島は、我流が強い」 「うむ」 「講道館にも、我流の強そうな癖のある人間が何人かいます」 「横山作次郎、保科四郎——おまえが言っていた名だ」 「うちの、照島や好地と、ぜひやらせてみたい」 「いいだろう」  うなずいてから、 「しかし、少し気になることもある」  定中は言った。 「何です」 「さっき、おまえの言った、投げのことだ」 「投げ?」 「このことで、講道館が、何か仕掛けてくるやもしれぬ……」  思案気な顔で、定中はつぶやいた。 [#改ページ]  八章 柔術対柔道 (一)  すっかり、葉桜になっていた。  その葉桜の下で、保科四郎は、足踏みをしていた。  稽古衣の洗濯をしているのである。  富士見町にある道場の裏手だ。  盥《たらい》の中に水を張り、稽古衣を中に入れて石鹸でこすったあと、その稽古衣を盥の中で踏んでいるのである。  朝の稽古が終り、道場の掃除を済ませ、自分の稽古衣を洗っているところであった。  天気がよい。  ほどよい風で、四郎の頭上で葉桜が揺れている。  昼前に干しておけば、夕方の稽古までには充分乾く。  八重に洗ってもらうよりも、稽古衣はこうして自分で洗った方が綺麗になるし、早く乾く。稽古衣を絞るのは、八重がやるより四郎が絞った方が倍くらいは水分が抜ける。従って、乾くのも早いのだ。  着ているものの裾をからげて、腰のところで帯に挟んでいる。  太い、筋肉質の脚が見えている。  脹脛《ふくらはぎ》などは、丸い岩のようであった。足首が細いため、脹脛の太さがより際立って見える。 「ちょっと、きみ——」  声がかかった。  男の声だ。  四郎は、足踏みをしたまま、声のした方を見やった。  竹垣があり、その竹垣の向こうに、ひとりの老人が立っていた。  いや、老人と呼ぶのは、まだ少し早いかもしれない。  歳の頃なら、六十三、四歳であろうか。  白髪の混じる髪を後方へ撫でつけていた。  羽織、袴——それをゆったりと着こみ、右手にはステッキを突いていた。  丈は、五尺一寸ほどであろうか。  小柄な老人であった。 「はい」  四郎は、盥の中で足を止めて返事をした。 「いや、表で何度か声をかけたのだが、どなたも出てこないのでな、こちらへ回らせてもらった」  老人は言った。  言ったそのすぐ後に、 「ほう」  四郎に何か言う隙を与えずに、声をあげた。 「よい足をしておる」  竹垣に設けられていた木戸を開けて、中へ入ってきた。  そのまま、四郎の前までやってくると、 「なかなかの丸みだ」  四郎の脹脛を眺めた。  この時には、もう、四郎は足踏みを止めている。  老人は、そこにしゃがみ、 「触らせてくれるかね」  四郎の脹脛に左手を伸ばしてきた。  右脚の脹脛を掴まれた。 「柔らこうて、若い女の乳房《ちち》のようじゃ」  手が下がってゆき、足首を掴まれた。 「足は?」  石鹸の汚れの付いた足を持ちあげさせられた。 「なんと長い指じゃ」  確かに、四郎の足は大きい。  六尺に近い、大男並の大きさで、さらに足の指はそれ以上に長かった。人というよりは猿に近い。  手を離し、老人は立ちあがった。 「保科四郎君じゃな」 「はい」  四郎はうなずいた。  まだ右足を上に持ちあげたままだ。 「嘉納君から、きみの話は耳にしている。なるほど、この足なら強いわけじゃ」  四郎を見て、笑った。  なんとも言えない愛敬が、その顔にある。  めったに笑うことのない四郎であったが、老人の笑みにつられるように、四郎もまた唇に笑みを浮かべていた。  知らぬ間に、老人は四郎の懐に入り込んでしまった。  これが、仮に試合ならば、老人に好きなように襟や袖を掴まれ、組まれてしまったことになる。  四郎は、持ちあげていた足をようやく下ろし、 「何か——」  老人に訊ねた。 「嘉納君に会いに来たのだが……」 「先生は、今、こちらにおりません」 「ほう」 「学習院の方に出かけております」 「こいつはしまったな」  老人は、頭に手を当てて、そこをぼりぼりと音をたてて掻いた。 「お帰りは?」 「午後になると思います」 「そうか、午後か」  黒い紋付きに、袴——  その老人は、四郎を見つめ、 「きみの稽古でも眺めながら、待たせてもらおうかねえ」  そう言った。  その時—— 「勝《かつ》先生——」  道場の方から声が響いた。  窓に、富田常次郎の顔があった。 「おう、富田君か——」  どうやら、老人と富田は前から顔を見知っているらしい。 「どうしてこちらに?」 「野暮用さ」  そう答えた。  老人は、あらためて四郎を見やり、 「まだ、名を名のってなかったな」  つぶやいた。  その時にはもう、富田の姿は、先ほどの窓から消えていた。富田は下駄を突っかけて、こちらに向かって走ってくるところだった。 「勝海舟《かつかいしゅう》——」  老人は言った。 (二)  有馬純臣《ありますみおみ》は、稽古衣をぶら下げて、玄関をくぐってきた。  玄関横に、 �天神真楊流柔術指南�  の看板が下がっている。  本郷駒込曙町にある、市川大八の道場であった。  有馬純臣——  士族の出である。  講道館の道場生だ。  入門の時期は早い。  講道館ができた年の、明治十五年に入門している。  一番目の道場生が、嘉納治五郎の書生をやっていた富田常次郎である。  有馬は六番目の入門者だ。  そのすぐ後、七番目に入門したのが、志田四郎——保科四郎である。  常次郎も、四郎も、治五郎の内弟子であり、外から講道館に通っているわけではない。  有馬は、外から通っている。  当然ながら、仕事があり、常に講道館に通えるわけではない。  近くにあったのが天神真楊流の市川道場であった。  いそがしい時、講道館まで足を運べなくとも、市川道場までならゆくことができる。  幸いに、天神真楊流は、治五郎がかつて学んだ流派であり、道場主の市川大八とは知らぬ仲ではない。  有馬が願って、治五郎が紹介状を書いた。  それで、有馬は市川道場で、月のうちに何度か稽古をするようになったのである。  その日も、そういう月のうちの何度かにあたる日であった。  声をかけて、道場へ入っていった有馬は、すぐに、いつもと違う雰囲気に気がついた。  道場内の空気が、ぴりぴりと張りつめているのである。  あのことか——  有馬には、思いあたることがあった。  半月前、ここの道場主、市川大八と起倒流の奥田松五郎、そして、揚心流戸塚道場の大竹森吉が、講道館へ出かけている。  自分にも、治五郎にも、事前に告げずに足を運んだ。  その方が、道場の常の状態を見ることができると考えたからであった。  そのおりに、講道館の横山と市川が試合をし、市川が敗れている。  治五郎も、自分もその場にはいなかった。  治五郎が学習院からもどってきたのは、その試合が終わってからであった。  有馬が、そのことを知ったのは三日後である。 「あの市川大八が、手も足も出なかった」  道場生たちがそのように言っていたのを覚えている。  さもあろう——  有馬は、そう思った。  自分は、横山とも市川大八とも、道場で手合わせしている。  市川は、仮にも道場主である。確かに、実力はある。当て身技には優れたものがあり、当ててから、投げ、固めに入る流れには見るべきものがある。  しかし、市川と横山が闘った時は、当て身が禁じられていたはずだ。  市川は、愚直すぎるくらいに愚直な人物である。当て身が禁じられていれば、始めから当てることを念頭からはずして闘ったのであろう。  それでは、まず、横山に勝てまい。  これが、横山、市川の両名と手を合わせている有馬の実感であった。  市川が相手なら、この自分でも、当て身なしであれば、まず、勝てる。まだ試したことこそないが、当て身がありの試合でも、なんとか勝てるであろう。自分が勝つのではない。講道館の創り出した新しい柔《やわら》の術理が、自分を勝たせてくれるのである。  しかし、横山は——  最初に組んでみて、すぐにわかった。  この男には勝てない。  まるで、岩か、松の巨木を相手にしているようであった。  投げることができるという気がしなかった。  圧倒的な力の差があった。  市川も、組んでみてすぐに、それとわかったはずだ。  それでも、市川は向かってゆき、負けた。  市川は、真面目な男だ。渾身の力を込めて、横山に向かっていったに違いない。その上での負けだ。  少し気の短いところはあるが、愛すべき人物である。  そのことがあってから、市川の道場へ顔を出すのは初めてである。おそらく、ここの道場生たちも、講道館で何があったかは、噂として耳にしていよう。  そういう時に、講道館の人間である自分がここへ顔を出すのは、少し不用意であったか。  有馬はそう思った。  だが、来てしまった以上は仕方がない。  覚悟を決めた時—— 「有馬君——」  声をかけてきた人物がいた。  見れば、道場主の市川大八本人がそこに立っていた。 「先生」 「よく来てくれた」  市川が歩み寄ってきた。  市川の背後では、二〇人近い道場生たちが、稽古をしている。  道場の広さは、五〇畳。  講道館より広い。 「きみに顔を出してもらってよかった」  立ち止まって、市川が言った。 「何のことでしょう」 「しばらく前に、講道館に顔を出したことだ——」 「———」 「本来ならば、きみから嘉納先生に都合をうかがってもらい、その上でゆくのが筋だったのだが、そうしなかった」  はい、とはうなずけない。  有馬は、ただ、黙って話を聴くだけだ。 「強いな、講道館は——」  ふいに、市川大八は言った。 「ふつうは、入門して、一年、二年かかるところを、嘉納さんのところでは、半年でやってしまう。これは、教え方が違うのだろう。我々も学ばねばならんところだ」 「———」 「それにしても、強いな、あの男は——」 「あの男?」 「聴いてるだろう。横山作次郎君さ。こっちは、頭に血が上っているから、むきになってしまった。何もさせてもらえぬうちに負けてしまったよ」  言ってから、 「もっとも、冷静になって闘ったとしたって、あの男には勝てなかったろう」  市川は正直に告白した。  有馬は、聴きながら、市川の正直さに驚きを覚えていた。  自分が負けた相手の所属している流派の道場生に、一派の道場の主がなかなか言えることではない。 「正直、講道館流何ほどのものかと思って出かけて行ったのだが、考えをあらためさせられた。いや、もっとも、うちの道場にやってきた君を見た時にこれはすぐに気づくべきことだったのだがね」  市川は、微笑した。 「久しぶりにくやしい思いをした。このくやしさを肥やしにして、精進したいと思う」 「先生」  有馬は、感動して言った。  ここへ顔を出さねばよかったかと考えた自分を恥じた。 「きみが来てくれてよかったというのは、そういうことなのだ」 「———」 「嘉納さんに、くれぐれもよろしく伝えておいてもらいたいのだ。突然に押しかけて申しわけなかったと。我々も、講道館に負けぬよう精進するつもりだとね」 「伝えます」  有馬は、深々と市川に頭を下げた。  よかった。  根が深いことにならずにすんでよかった。  だが、しかし。  それなら、この道場に漂っている、このぴりぴりしたような空気は何なのか。  そう思った時、 「ちょうどよかったというのは、実はもうひとつある」  市川が、道場の中を見やった。 「照島君」  市川が声をかけると、形稽古の最中だったひと組が動きを止め、 「はい」  一方の男が、返事をした。  道場全体の空気が、その一瞬、張りつめた。  この男か!?  今、返事をしたこの男が、いつもの市川道場にない雰囲気を作っていたのか。  その男が、道場を横切って、ゆっくりと近づいてくる。  身体の大きな男であった。  丈、五尺九寸余。  目方は三十一貫もあるであろうか。  その男が動くと、まるで道場全体が揺れているかのようであった。  道場生たちが、稽古を続けながら、意識をその男に向けているのがわかる。  その男が立ち止まった。 「紹介しておこう。揚心流戸塚道場の照島太郎君じゃ」  市川が言った。 「照島です」  その大きな男は、ぼそりと言った。 「講道館の、有馬純臣です」  有馬は言った。 「嘉納先生のところの——」  照島が、有馬を、ぞろりとその視線で撫でた。  ——値踏みされた。  有馬は思った。  今の視線で、照島が自分を量《はか》ったのだ。 「有馬君、きみと同じだよ」  市川は言った。 「同じ?」 「照島君は、うちの道場生ではない。大竹森吉師範から、預かっているのさ。出稽古だよ。きみが、うちに通っているようにね」 「———」 「ただ、家が遠いので、うちの道場で寝泊まりしてもらっている」  照島は、正面から有馬を見つめ、 「講道館流を勉強してこいと、大竹先生から言いつかってきたもので——」  そう言った。 「講道館流を?」  言ってから、すぐに、有馬は事情を呑み込んだ。  講道館の流儀は、天神真楊流と起倒流の術理が、その基にある。それに、さらに嘉納治五郎が自分なりの工夫を加え、講道館を開いたのである。 「うちの大竹は、講道館流をえらく気に入ってしまったようで、六月の警視庁武術試合は、戸塚道場対講道館じゃと、言っとります」 「そんなことを——」  有馬も、六月にある警視庁武術試合のことは耳にしている。その試合に、講道館が出場するというのも承知している。  ただ、講道館から誰が出場するのか、何人出場するのか、それはまだ決まっていないはずであった。 「照島君は、五日前にうちに来たのだが、来たその日に、乱取りで十人抜きをしたよ」  市川は言った。 「うちの主《おも》だった者は、皆、照島君に投げられて極《き》められてしまった」 「———」  有馬は、しばし、言葉が出てこなかった。  加倉新八。  今岡一平。  楠田荘太郎。  実力のあるかなりの猛者《もさ》が、市川の道場にはいる。 「加倉、今岡、楠田——三人とも投げられた中に入っている」  なんと。  あの三人が、一〇人続けて闘った中に入っているというのか。しかも、その全員に勝ったと。  有馬は、照島を見つめた。  照島は、頭をごりごりと掻いている。 「有馬さん——」  照島が、ふいに言った。 「揚心流を知りたくはありませんか」 「———」 「市川先生も言ってました。この道場で一番強いのは、講道館流の有馬さんだろうって」 「———」 「わたしも、講道館流を知りたい。有馬さんも、揚心流を知りたいんじゃないかと思って——」 「それは、つまり——」 「今日、市川先生のお許しをいただいて、ここで試合ってみたいんですが」  照島は言った。 (三)  有馬純臣は、泰然として畳の上に立っている。  すぐ向こうに、照島太郎が立っている。  巨漢であった。  丈五尺九寸。  三十一貫。  横山作次郎より、丈でも、肉の分厚さでも勝《まさ》っている。  有馬は、丈五尺六寸。  肉の量では、ひとまわり以上も照島より小さい。  しかし、有馬の心に、怖じ気はない。  あの、鬼横山と、何度も乱取りをしているのだ。相手の身体が大きいからといって、それでひるんだりはしない。照島の巨体を前にして、むしろ闘志を掻きたてられている。  自分の肉の温度が上がっているのがわかる。  しかし、その温度に負けて、闇雲に突っかけたりしない。自分の肉の内部にあるその熱を、うまく操って利用する。  肉体だけではない。闘いの中に生ずる感情の機微まで自在にコントロールする。  それが嘉納流だと思っている。  横山も、保科四郎も、確かに強い。  しかし、その強さには、生まれつきが加わっている。  横山の力、四郎の発条《ばね》——それは、彼等の肉体が、生まれつき持っているものだ。  横山の豪放な性格も、四郎の足の指の長さも、天がふたりに付与したものだ。  そういう意味では、彼等は真の意味で嘉納流の具現者ではない。  自分は、肉体的には、まず世間並みである。  横山よりは小さいが、四郎よりは大きい。  世間の標準よりやや丈があるくらいだ。  今、自分が柔術のことで有しているものがあるとするなら、それは皆、嘉納流で身につけたものだ。  技も、筋肉も、学び、稽古をし、努力のたまものとしてこの身に具わったものだ。生まれつき身に纏《まと》っていたものではない。  自分のような普通の者が、いかに強くなるか。小さな者が、いかにして大きな者を投げるか。そこにこそ、嘉納流の真骨頂がある。  そういう意味からすれば、この自分こそが嘉納流の具現者であると思っている。  自分が横山に勝てぬのは、結局、横山も嘉納流を学んでいるからだ。横山が、もしも、他流儀の人間であれば、自分は勝つことができるであろう。  現に、この市川大八の道場では、誰《だれ》と闘っても負ける気がしない。自分より古くからこの市川道場で学んでいる、自分より大きな男たちと乱取りをしても、まず、負けない。  その差が、どうして生じたかを、自分はよくわかっている。  それは、自分は天神真楊流について知っているが、彼等は嘉納流について知らないということにつきる。  そういう意味で言えば、自分とこの照島とは、対等である。  自分は、照島の流儀である揚心流については、ほとんど知らぬも同然であるが、照島は照島で、嘉納流についての知識はまずないであろうと考えてよい。  五分と五分。  市川大八が、照島と有馬とを、交互に見つめている。  初め、市川は反対した。  自分の道場で、それぞれの師範の承諾も得ずに、他流派どうしを闘わせることになるわけであるから、それも当然である。  そこを、 「ぜひ」  そう言ったのは有馬純臣である。  揚心流の戸塚派——以前から噂は耳にしている。  機会があれば、手合わせをしてみたいと考えていた流派であった。  この照島という人物が、どこまでの実力を持っているのかはわからぬが、この道場の猛者たちを一〇人抜きしたという。  一対一で闘えば勝てる相手でも、続けて一〇人と闘うとなると、話は違う。闘っている間に、一人で闘う人間の体力がどんどん落ちてくるからだ。  よほどの実力差がなければできることではない。  自分なら、それができたか。  判断ができない。  それを知るための方法がある。  それが、照島と闘うことであった。  幸いにも、有馬は、よくこの道場に出稽古にやってくる。照島も、他流派からこの市川の道場に出稽古に来ている人間である。  そのふたりが、ここで乱取りをすることがあってもおかしくない。  そもそも、出稽古の意味は他流と交流することにこそある。  有馬は、それを市川に言った。 「ただの乱取り、ただの稽古じゃ」  誰にともなく、照島がつぶやいた。  それで、市川の気持ちがふっ切れたようであった。 「わかった」  市川はうなずいた。 「ただし、当て身は禁止じゃ」  逆や、締めが極まったら、すぐに参ったの合図をする。  そういう取り決めが事前になされた。  立ち合い人は、道場主の市川が務めることになった。  そして、今、有馬は照島と向きあっているのである。 「始め」  市川が、鋭く叫んだ。 (四)  照島は、どっしりとそこに立っている。  山のようであった。  動かない。  どういう構えもとっていない。  有馬も動かない。  照島が動くのを待っている。  動かぬ山は投げられない。  山を投げたければ、まず、山を動かさねばならない。その山が動かない時は、まず、自分から動いてゆくしかない。  しかし、正面から近づいていって、照島に自由に組まれたら、有馬が不利になる。相手が小さければ、正面から組みにゆく手はあるが、照島にその戦法は使えない。 「来ないな」  ぼそりと、照島がつぶやいた。  唇に、笑みが浮いている。 「おれからいこうか」  しかし、そういう言葉を口にはしても、やはり照島は動かなかった。  有馬もまだ動かない。  互いに、睨みあっている。  ならば、こちらから先に仕掛けるか。  何も、まっすぐに組みに行くのだけが、正しいわけではない。  よし。  横へ。  呼吸を整え、有馬が足を踏み出そうとしたその瞬間。  山が動いた。  まるで、有馬の呼吸を読んでいたように、照島が動いたのである。  距離がつまった。  逃げられない。  虚《きょ》を衝《つ》かれていた。  有馬の決心は疾《はや》かった。  逃げずに、逆に正面から前に出て行ったのである。  組んだ。  組む瞬間に、襟を取りに行った右手で照島の巨体を押した。  しかし、照島の身体は動かない。  凄い圧力が、有馬を押し返してきた。  その力を感じた瞬間、有馬は、おもいきり身を沈めていた。  仰向けに自ら倒れ込みながら、相手の身体の下に身を滑り込ませ、照島の腹を足で蹴りあげる。巴投げ。  照島の身体がふわりと宙に浮いた。  やったか!?  有馬はそう思った。  しかし——  それにしては、あまりにも軽い。手応えがなさすぎた。  危ない!?  有馬は、ほとんど本能的に、身をひねっていた。  その有馬の身体に、上から覆いかぶさってくるものがあった。照島の巨躯であった。  逃げる。  しかし、掴まれていた。  襟だ。  巴投げにいった時、掴まれた襟であった。  それを、まだ、照島は離していなかったのである。  その時になって、理解が、先に動いた有馬の肉体に追いついてきた。  照島は、投げられる時、自ら足で畳を蹴って、その体重を宙に浮かせたのである。それでも、普通であれば仰向けに倒れるところなのだが、照島は宙で身をひねり、うつ伏せになるように体を入れかえていたのだ。  足から先に畳に落ち、そのまま、照島は上から有馬を押さえ込みにきたのである。  有馬は、それを察して、逃げたのだ。  だが、逃げきれなかった。  襟を掴まれ、動きを止められていた。  ぞろり、  と、太い蛇のように、畳の上を照島の巨躯が動く。照島の肉体が、有馬にからみついてくる。 「くむっ」 「ぬむっ」  まだ、上四方固めの体勢には遠い。  もう一本の腕が、有馬を追ってくる。  その腕を振りきるように、膝を突き、足を突き、立ちあがる。  まだ、襟を掴まれている。  立ちあがりかけたところを、下からも引きもどされた。  しつような寝技への誘いだ。  それなら——  自分の左襟を掴んでいる照島の手首を両手で握り、太い照島の腕を、有馬は、左足でまたいだ。照島の右腕を股の間に挟み、前に倒れ込む。照島の腕を腹の下に抱え込むようにして、変形の逆十字固めに入ろうとした。  裏十字だ。  しかし、照島の肘を伸ばしきれなかった。  なんという太い腕だ。  なんという固い腕だ。  こんな腕に、本当に技を掛けられるのか。  照島が、畳に膝を突き、左手を突く。  その重い身体が、起きあがってくる。  凄い男だ。  本物の山が動き出したようだ。  それを押さえきれるか。  襟を握っていた照島の右手が離れた。  ならば、今だ。  照島の右腕をまたいでいた左足をもとにもどし、その勢いを利用して、照島に背を向ける。  起きあがってきた照島の身体の下に、有馬の身体が潜り込む。  背負い投げだ。 「たあああっ!」  投げにゆく。  動かない。  神社や寺の境内に生えている巨木を投げようとするようなものであった。 「かかったな」  耳元で、ぼそりと照島の声が響いた。  身体を背後から抱えられていた。 「よいしょ」  いきなり、畳の上から身体を引っこ抜かれた。  いったい、どうすれば、あんなに低い体勢にあったこの自分の身体を宙に浮かせることができるのか。  軽々と、体重を失った自分の身体が宙を動いてゆく。  後ろに放り投げられた。  裏投げだ。  いや、そういう技の範疇を超えた力に持ちあげられ、自分は投げられたのだと思った。  畳に、頭を打つのを避ける。  左手で、頭を庇う。  その手ごと、頭が畳にぶつかった。  脳震盪を起こした。  朦朧となった。  しかし、逃げねばならない。  何か、重いものがのしかかってきた。  逃げる。  逃げられない。  動きを封じられた。  腕をとられる。  肘を、ひと息に伸ばされた。  左腕だ。  完全に極《き》められた。  こつん、  という小さな音が、肘の中でする。  肘関節の靭帯が、極限まで伸び切った音だ。  もう、どういう弾力も靭帯に残っていない。  ガラスのように硬くなり、わずかの力でも割れそうになっているのがわかる。  声がする。  誰だろう。  誰の声だろう。  その声が、叫んでいる。 「参ったをするか」  市川大八の声だ。  しない。  するもんか。  しないことが、自分の意地だ。 「まだまだ」  有馬が叫ぶ。  次の瞬間、どういう間もおかずに、ぐうっと無造作に、さらに腕が伸ばされた。  有馬の左腕が、肘を支点にして反り返った。  みちっ、  という音が肘の中でした。  靭帯が、破壊される音だ。  みち、  みち、  続いて聴こえてきたのは、布を裂くような音だ。  本当にそっくりだ。  丈夫な布を、手でびりりと引き裂く音。  それが、自分の腕の中でする。  音が最初であった。  痛みは、その後からやってきた。  激痛。  有馬は、声を聴いていた。  人の叫び声だ。  誰だ。  誰の声だ?  おれか。  この叫び声をあげているのはおれか。 (五)  嘉納治五郎は、自室に座して、勝海舟と向かいあっていた。  床の間を背に座しているのは、勝海舟である。  窓に近い場所に、大きな文机が置かれていて、その上に、何冊もの本が置かれていた。  日本語の本だけではなく、何冊もの洋書が、文机の上にも、その横の畳の上にも積みあげられている。  調度品は、ほとんど無いも同然であった。  床の間に、太い、よどみのない筆致で、 �敬天愛人《けいてんあいじん》�  と書かれた軸が下がっている。  西郷南洲——西郷隆盛の書であった。  その軸の前に、青磁の花器が置かれていて、菖蒲が活けられている。  蕾《つぼみ》がふたつ。  咲いているのがひとつ。  濃い青い花と蕾が、凜と澄んだ空間をそこに作っている。  庭の小さな池の端にあったものを、今朝、治五郎が切ってきて、活けたものである。  部屋を飾っているのは、その床の間だけで、あとは部屋中に置かれた本の山が、調度品と言えば調度品である。  勝海舟は、しばらく前に出された茶をひと口ふた口飲んでから、今は膝の上でその茶碗を両手に包んでいる。 「まるで、書生の部屋だな」  勝は言った。  その眼が、楽しそうに部屋の様子を眺めている。  文机は、うず高く積まれた本の山に囲まれて、部屋の中に、もうひとつ別の空間を作っているようであった。 「いらっしゃるのがわかっていれば、もう少しかたづけておくのでした」  治五郎は言った。 「わざわざ行くと遣いを出して、それから出かけて行くってのは、こっちも疲れる。来られる方だって、気疲れがするぜ」  勝は、茶碗を、膝先の茶托の上にもどした。 「いいねえ、この部屋は——」  手を膝にもどしながら、勝は言った。 「ちらかっているだけです」 「そこがいいんだよ。ただ、だらしなくちらかってるんじゃあねえ。休む間もなく、仕事をしてるってこった。こうでなくちゃいけねえよ。あんたくらいの歳の頃は、おれも、屁をひる間だって惜しいくらいにしてたんだ。綺麗な部屋にふん反り返って、能書きを垂れて生きていくのは、八〇歳を超えてからでいい——」  勝は、笑った。 「しかし、驚きました。わざわざいらっしゃっていただけるとは思っていませんでした」 「なあに。近くまで来る用事があったんでな。ちょっと顔を出させてもらったのさ」 「用事?」 「赤坂で、警視庁の三島と会ってたんだよ」 「三島総監と?」 「ああ」  勝はうなずいた。 「で、そこで話をしてたら、急におまえさんの顔を見たくなったんだよ」 「わたしの?」 「ああ。何だかおもしろそうな話になってるってえのを耳に挟んだんでな」 「おもしろそうな話?」 「来月の弥生社の大祭で、やるんだってなア」 「そのことですか」 「三島は、おまえさんのことを随分買っているようだねえ」 「わたしを?」 「おまえさんの弟子にも、おもしれえ人間が何人もいるってね」 「そんなことを——」 「保科四郎、横山作次郎、他に何人もいるって言ってたぜ」  勝は、嬉しそうに言った。 (六)  勝安芳——  海舟と号し、勝海舟の名で知られる幕末の雄《ゆう》である。  慶応四年(一八六八)、江戸城で薩摩の西郷隆盛と会って、江戸を無傷で薩長連合にひきわたした明治維新の、一方の立役者である。  土佐脱藩浪人坂本龍馬の師であり、万延元年(一八六〇)、咸臨丸《かんりんまる》で、アメリカまで出かけ、もどってから軍艦奉行となった。  維新後は、新政府にも関わり、明治八年(一八七五)には元老院議官にまで任じられたが、同年これを辞して野に下った。  明治十九年(一八八六)のこの時六十四歳。  嘉納家と勝との縁は、深い。  治五郎には、ふたりの姉がいて、次姉の名を勝子というが、これは勝海舟からの一文字をとったものである。  そもそも、嘉納家は、灘の地にあって代々酒造業を営んでいる。  万治二年(一六五九)に、初代治郎太夫がこれを始め、文化、文政の頃には、嘉納家が灘酒業界の主座をしめるまでに発展した。菊正宗酒造株式会社として現時に継承されている。  治五郎の父次郎作は、その分家の三代目である。  勝と嘉納との縁が生まれたのは、安政三年(一八五六)の時である。  治五郎が生まれた嘉納家の屋敷は、「千帆閣」と呼ばれており、御影浜東にあった。  背に六甲の山並を負い、前面には茅渟《ちぬ》の海を臨む景勝の地であった。  古風な長屋門が城門のごとくに四方にそびえ、一棟の母屋は二階建て、大廊下でつながった客座敷が平屋建てであった。  母屋には二十四畳の大座敷がふたつ並び、大坂湾上、紀淡の海峡を往く船の帆影も、屋敷から遠望できた。  ここを、軍艦奉行であった勝が訪れたのである。  この時、母屋でお産があり、次郎作の二番目の娘——治五郎の次姉勝子が生まれたのである。  次郎作は、大坂に出て幕府の廻船方《かいせんかた》御用を勤め、汽船および帆船を託されて運輸の業に従った。  文久三年(一八六三)幕府の軍艦奉行勝海舟が、和田岬、神戸、および西宮に砲台築造の命を受けたおり、次郎作はこれを助けて工事を請負い、翌元治元年(一八六四)には、和田岬砲台を完成させている。  慶応三年(一八六七)には、次郎作は若年寄格永井尚志らとはかって幕府に請い、長鯨丸、奇捷丸《きしょうまる》、順動丸、太平丸など洋式の用船をもってはじめて江戸と大坂、神戸間に定期航路を開き、貨客の輸送にあたった。これが、我が国初の、洋式船による定期航海となった。  こういった、事業の発展も、勝の存在と無関係ではない。  治五郎は、勝とは子供の頃からの顔見知りであり、勝は治五郎の相談相手でもあった。  治五郎が、東京大学を卒業し、学習院に籍を置くようになった時にも、相談したのが勝であった。 「しばらく、学問に没頭しようかと考えているのです」  その時、治五郎は勝にそう言った。 「学問はいいが、おまえさん、何になりたいんだい。学者かい。それとも、この世の中で何かひと仕事やってみてえってことなのかい」  勝はそう問うてきた。 「学者になろうというわけではありません。学問を身につけ、それで、世の中の役に立つような仕事をしたいと考えているのです。そのために、まず、学問に集中すべきではないかと思っているのです」 「治五郎さん、そいつあよくないね」  あっさりと、勝は言った。 「学問だけやってたら、それじゃあ学者になっちまうよ。学者が悪いってえわけじゃあねえが、おまえさんが、学者じゃあなくて、世の中へ出て何か事《こと》をなそうって考えてるんなら、事と学問と両方一緒にやったがいいよ。あんたがまだ学生だってえんならともかく、もう、世の中に出ちまったんだ。胆《はら》アくくっちまったがいいよ」  治五郎が、すでに学習院講師の職にありながら、二十三歳の若さで、嘉納塾と講道館を起こした背景に、この勝の助言があったことは間違いない。  和と洋、柔術とスポーツ、文と武——治五郎が、常に対立するふたつのものを両立させる方向でものごとを思考していたことは何度か触れたが、勝はそういった思考法の先駆者であった。  治五郎の考え方で顕著であったのが、能力による平等である。武士や町人——華族も士族も関係がない。能力のある者がそれにふさわしい役に就けばいい——治五郎がこういった考え方を抱くようになったのも、自身の資質に加えて、勝の影響があったと考えていい。  治五郎のそういった考え方は、治五郎自身に多くの試練を与えたが、それを克服してゆくことによって、治五郎も大きくなっていったのである。  やがて、治五郎は学習院教頭となり、新しく院長としてやってきた�閔妃《びんひ》事件�の三浦梧楼と対立してゆくことになるのだが。それはまた後の話である。 (七)  治五郎は、自室で勝と向かいあっている。 「いよいよ正念場だな」  勝は言った。 「いよいよ、講道館が、天下に向かって立つ時が来たってえわけだ」 「はい」 「おまえさんが、柔術に夢中になってるのは知っていたが、四年|前《めえ》、相談された時ゃあ、まさかこういったものをおまえさんが始めるたあ思っちゃいなかったよ」 「勝先生のおかげです」 「よせやい。俺《おい》らは何もしちゃあいねえよ。みんな、おまえさんのやったことさ——」 「いえ。わたしひとりでは、どれほどのこともできなかったでしょう。柔術では、多くの師範にお世話になりました。学習院でも立花種恭先生、谷干城先生、大鳥圭介男爵、皆様のおかげで、なんとかこれまでやってこられました。この道場にしても、品川弥二郎先生がお声を掛けて下さいましたので、移ることができたのです」  治五郎は言った。  世辞や、謙遜で言っているのではない。  治五郎はどこまでも本気である。 「そういう眼で、人を見るもんじゃないよ、治五郎さん」  勝は笑った。 「あんまり、真っ正直な眼で人を見ちゃあ、見られた方が、心のやり場がなくなっちまって、困るじゃねえか」 「すみません」  治五郎は、この時二十七歳である。  勝は、この若者が可愛くてならないらしい。 「俺《おい》らもそうだが、皆んな、おまえさんのことが楽しみなんだよ。おまえさんが、どこまで行こうとしているのか、何をやろうとしているのか、そいつを見てみたいのさ。俺《おい》らは、ただの見物だけどね」  勝はまた笑った。 「人《にん》は違うが、龍馬にもそういうところがあった」 「龍馬?」 「坂本龍馬だよ。死んじまったがね。あいつも、おまえさんのように楽しみなところがあって、あいつが何をやらかすのか見たいために、まわりの人間が放っとかなかった……」 「———」 「警視庁の三島もそうだよ。おまえさんに期待してる。ただ、三島にしても、できるのは機会をおまえさんにくれてやることだけだ。後は、嘉納治五郎が結果を出さにゃあならねえ」 「はい」 「今度のことでもさ、ただの勝ち負けのことだけじゃあねえ」 「———」 「負けていいってことじゃねえ。勝つことは必要だ。しかし、勝ったの負けたのってことだけなら、おまえさんも講道館もいらねえよ。三島が見たがってるのは——」 「見たがってるのは?」 「そうさなア」  勝は、顔をあげて天井を見やり、 「風かな」  そう言った。 「新しい風だよ」 「風?」 「うん」  勝はうなずいた。 「その風は、もう吹きはじめてる」 「どういうことでしょう」 「講道館の出場にあたっては、古流の連中が、動きはじめてる」 「古流?」 「九州熊本の竹内三統流、久留米の良移心頭流——こっちでは、千葉の揚心流戸塚派、これが大きなところだな。そりゃあ、彼等にしてみりゃあ、講道館には負けられねえだろうなア」  勝は治五郎を見やり、 「俺《おい》らも行くぜ」  そう言った。 「え?」 「弥生社の試合だよ。三島が席を用意してくれるというんでな、見させてもらうよ」  勝がそう言った時、廊下を誰かが歩いてくる気配があって、 「先生——」  障子の向こうから声がかかった。  富田常次郎の声であった。 「天神真楊流の市川大八先生がお見えです」 「ほう」 「有馬純臣が一緒なのですが、他にもうひとり……」 「どなたが?」 「揚心流戸塚道場の照島太郎さんが」 「揚心流の!?」 「はい」 「何かありましたか」 「それが……」  富田は、何かいいにくそうに口ごもった。 「何です?」 「有馬が、市川先生の道場で、照島さんと試合って、腕を折られました」  富田が言った。 (八)  治五郎の部屋に、六人の人間が座していた。  まず、嘉納治五郎。  そして、勝海舟。  富田常次郎。  富田常次郎の横には、添え木をあてた左腕を首から吊っている有馬純臣が座している。  治五郎が向きあっているのは、ふたりの男であった。  ひとりは、天神真楊流の市川大八である。  もうひとりは、大男であった。  岩の如くに、市川の横に座している。  ひと通りの話が、今、市川の口から語られたところであった。 「軽率であった。全てわたしの責任だ」  市川が、頭を下げた。  腕の折れた有馬を医者に診せ、手当てを済ませてから、三人でここまでやってきたのだという。  警視庁が主催する武術試合の前に、遺恨を残してはいけないと、市川が照島と共に講道館へ足を運ぶ決心をしたのである。 「詫びを言いに来ました」  市川の表情は硬い。  治五郎の横に、勝がいる。  市川は、むろん、勝が何者であるかは充分に承知をしている。  勝が治五郎を訪れていることを知って、市川はいったんは出なおそうとしたのだが、 「いや、俺《おい》らの用事は済んだんだ。俺らが失礼するよ」  勝がそういった。  それに、ますます市川が恐縮してしまった。 「御迷惑かもしれませんが、勝先生がいらっしゃる場の方が、よいのです」  覚悟したように市川はそう言った。 「俺《おい》らなら、かまわねえよ」  結局、勝がそこに残ったのである。 「お話は承りました」  治五郎は、丁寧に言った。 「うかがえば、参ったをしなかったのは、有馬の責任です。参ったをしない以上、照島さんとしては、ああするしかないでしょう」  治五郎が言うと、 「申しわけありません」  有馬が、無事な右手を畳に突いて、頭を下げた。 「有馬」  治五郎は言った。 「おふたりに、感謝しなさい。めったにない貴重な体験をさせていただいたのですから——」 「申しわけありません」  有馬は、ただ、その言葉を繰り返し、頭を下げるだけであった。 「今後にこの体験を生かし、これを糧にして大きくなればいいのです。あなた次第です」  治五郎が言った時—— 「ふうん」  その場に満ちている緊張感には、ややそぐわない声が響いた。  照島があげた声であった。 「やっぱりたいした人だなあ、嘉納先生は——」  照島が微笑している。 「もっと恐いところかと思っていましたが、うちの大竹先生の言う通りだな」  大竹森吉のことである。 「大竹さんが、何か?」 「講道館と、嘉納先生のことを、褒めてました」 「わたしを?」 「おもしろいと」  照島は、物に動じない顔で言った。  照島と治五郎は、歳は同じである。  しかし、照島は、仮にも治五郎の弟子の腕を折った本人である。そのことを謝りに来ているのだ。  道場主の治五郎に対してしゃべる言葉としては、あまりにもあっけらかんとしすぎているようであった。 「また、不思議な評ですね」 「でしょう」  照島が笑った。 「わたしも、この度は勉強させていただきました」 「勉強?」 「講道館流についてです」 「ほう」 「言っていいですか」 「もちろんです。いかがでしたか」 「そうですねえ」  照島は、ぼりぼりと頭を掻いてから、 「弱点がわかったかな」  そう言った。 「照島君、嘉納さんに失礼だぞ」  横から市川大八が声をかけた。 「そうですね。失礼ですねえ」  また照島は微笑した。  くったくがない。 「かまいません。思うところをおっしゃって下さい」  治五郎がうながすと、 「寝技かな……」  照島がつぶやいた。 「寝技?」 「講道館では、寝技の稽古をあまりやっておられないようですね」 「いや、それは——」  口を開いたのは、富田常次郎であった。  富田は、続けて何かを言おうとしたのだが、 「照島さんのお話の途中だ」  治五郎にたしなめられて、もどかしそうに口をつぐんだ。  勝は、そういったやりとりを、凝《じ》っと黙ったまま聴いている。 「御流儀では投げが主になっているとお見受けいたしますが、柔《やわら》の闘いの中には、様々な局面があって、投げてから、倒してからの方が、真の闘いであるような気がいたします」  つい先日も言われたのと同様のことを、照島は語った。  富田が、ようやく口を開こうとしたその時—— 「失礼」  障子の向こうから声がかかった。 「横山です」  その言葉と同時に、障子戸が引きあけられた。  廊下に、横山作次郎と保科四郎が並んで座していた。 「今の話、ここで聴かせていただきました」  座したまま、横山が言った。  その顔が、赤く染まっている。  その横に座し、保科四郎は、表情のない顔で唇を固く閉じている。 「立ち聴きした非礼は詫びますが、今の話、聞き捨てるにはあまりにも無礼——」 「控えなさい、横山。わたしがお願いして、講道館のいたらぬところを照島さんからうかがっているのだ。耳の痛い話があろうとも、黙ってまず耳を傾けるのが礼儀ではないか——」  横山が言うと、 「いいなあ」  照島が微笑した。 「あんたが横山さんか。怒るのはわかる。おれだって、おれみたいな奴が、ある日突然に道場へやってきて、きいた風なことを言いはじめたら腹が立つからなあ」 「弱点だか何だか知らんがね、やってみりゃあわかる。そういうもんだ」 「いいのかな」 「いい?」 「ここでやるの?」  照島が言った。  横山が、治五郎を見る。 「つつしみなさい、横山。照島さんは、今日は試合うために足を運ばれたのではありません」  治五郎は言った。 「なるほどなア」  その時、響いてきたのは勝の声であった。 「どうだえ、おまえさんたち、やりたいのなら俺《おい》らが骨を折ろうか」  勝は嬉しそうに微笑している。 「やりてえんなら、俺《おい》らから三島さんにお願いして、弥生社の試合で、おまえさんたちが当たるようにしてやってもいいんだぜ」 「———」 「どうせ、誰かと当たるんなら、顔見知りの方がいいじゃあねえか」  勝は言った。 (九)  六月十一日の、向ヶ丘弥生神社における、警視庁主催による武術試合の出場者が決まったのは、ちょうど、一カ月前の日であった。  富士見町の道場に皆を集め、治五郎は口頭でそれを伝えた。  講道館からの出場者は、四名。  山下義韶。  宗像逸郎《むなかたいつろう》。  横山作次郎。  保科四郎。  彼らの名前があがるたびに、道場には低いどよめきがあがった。  日頃、治五郎から騒ぐことを窘《たしな》められている道場生たちも、思わず声を洩らしてしまう人選であった。  四天王のひとり、富田常次郎が選から洩れた。  これは、仕方がない。  常次郎は、治五郎の書生をしていたことから、講道館入門者のひとり目となったが、もともと、体術に優れたものがあって、柔術を学ぶことにしたわけではない。  講道館流においては、もちろん実力者のひとりであるが、才能ある者や、他流派からやってきた実力ある者たちが講道館で学ぶことによって、嘉納流を身につけてゆくと、乱取りで常次郎を凌ぐ者が次々に現われてきたのである。  富田常次郎の名が、出場者の中にないのは、それほど驚くことではない。 「対戦相手も、すでに決まっている」  治五郎が言うと、ざわめきが止んだ。  そして、治五郎は、対戦相手の名を、ひとりずつ告げていったのである。  山下義韶対奥田松五郎(起倒流)  宗像逸郎対中村半助(良移心頭流)  横山作次郎対照島太郎(揚心流戸塚派)  保科四郎対好地円太郎(揚心流戸塚派) 「かああああっ」  治五郎が、対戦相手を告げ終えた後、声をあげた者がいた。  横山作次郎であった。 (十)  治五郎の部屋であった。  畳の上に立てられたランプに灯りが点《とも》っている。  夜。  文机の前に座した治五郎と、富田常次郎が向きあっている。  ふたりきりだ。  すでに夜の稽古も終っており、後は寝るだけの時間帯である。  治五郎が、書きものをしているところへ、常次郎がやってきたのである。 「お話があります」  常次郎は、治五郎に、障子の向こうからそう告げた。  それで、治五郎が常次郎を部屋へ入れ、今、向きあったところであった。 「話というのは?」  治五郎が、常次郎に問うた。 「警視庁の武術試合のことです」  常次郎は言った。  常次郎の顔は、真剣であった。 「あの人選に、不満があるという顔ではなさそうだな」 「不満はありません。わたし自身が選んでも、あの四名になるでしょう」 「うむ」 「いずれも、わたしより実力が上の者たちばかりです。講道館の代表として、恥ずかしくない試合をしてくれることでしょう」 「では、何だ?」 「試合規則のことです」 「試合規則?」 「今度の試合、どのような規則でとり行なわれるのでしょう」 「それが、まだ、決まっていないのだ」 「まだ?」 「そうだ。昨日、三島総監に呼ばれて警視庁まで出かけてゆき、対戦相手について打診があった。あれで、お受けする旨を、明日、三島総監に伝えにゆく——」 「横山と照島の対戦が決まったということですね」 「照島が断わらねばな」 「断わらないでしょう」 「だろうな」 「やはり、勝先生が——」 「うむ。三島総監の所までじきじきに足を運んで、進言して下さったらしい。講道館流と古流とを闘わせてみたらどうかともおっしゃったらしい」 「それで、あのような」 「ああ」  治五郎は、うなずいた。 「三島総監から、この話をうかがっている時に、規則の話が出た」 「規則の?」 「講道館では、日頃、乱取りをどのような取り決めでやっているのかと問われた」  今回は、幾つかの流派が試合をする。  それぞれの流派は、その流派ごとに、違う方式で乱取りや試合を行なっている。警視庁が主催する武術試合においては、どれかの流派に偏った方式を採用するわけにはいかない。  だから、今回は出場する各流派の、乱取りや試合における規則をそれぞれに訊ね、各流派の納得のゆく方式——試合規則をあらたに設け、それで試合ってもらいたいと考えているのだと、三島は言った。 「三島総監には、講道館の方式について、お伝えしておいた」 「少し、ほっといたしました」 「何のことだ」 「あの照島の言っていたことが、気になっていたのです」 「ほう」 「我が講道館では、他流より投げを重視しております」 「うむ」 「それは、野外で闘いとなった時、投げが勝敗を決っするからです」  野外で闘いとなった場合、どのような地面であろうと、畳より硬い。背からであろうと、腰からであろうと、肩からであろうと、地に投げ落とされたら、半分以上はそこで勝負は決まる。  それが、頭から落とされたら、生命に関わることもあり得る。  したがって、講道館における稽古は投げ技と受け身が中心である。  寝技は、二次局面であり、基本的な稽古はするものの、投げ技の稽古に比べてそれに費やす時間は少ない。  照島が言ったことは、根拠があるのである。  警視庁武術試合において、諸流との他流試合となった場合、講道館では一本勝ちとなる投げをきめても、そのまま試合は続行され、寝技に持ち込まれるおそれがある。 「わたしは、それを心配しておりました」  講道館としては、投げでの一本勝ちを警視庁武術試合での試合規則に取り入れることを警視庁に提案すべきであろうと、それを治五郎に伝えるためにやってきたのだと常次郎は言った。  だが、三島から問われて、講道館の方式については、すでに伝えてあると治五郎は言った。  それを聞いて、常次郎が、少しほっとしたと言ったのは、そういう理由からであった。 「常次郎」  治五郎は、膝を正して言った。 「はい」 「わたしは、柔術は一生の仕事だと思っている」 「はい」 「講道館が、これから世に出てゆくもゆかぬも、この試合の持つ意味は大きい。しかし、たとえ、ここで勝とうが負けようが、柔術が一生の仕事であるということにかわりがあるわけではない。どのような規則で闘うことになっても、おそれることは何もないのだ」  治五郎は、染み入るような声で言った。 [#改ページ]  九章 弥生祭 (一)  弥生神社が建てられたのは、明治十八年(一八八五)の十月である。  場所は、本郷向ヶ丘。  警視庁の殉職者を祀ったものであり、これを記念して、警視庁主催による武術大会が開かれ、剣術、柔術、弓術、相撲等の試合が奉納された。  それまでにも、警視庁主催の武術大会は開かれていたが、大がかりなものとしては、この明治十八年の武術大会が最初であった。  この最初の時に、はたして講道館の出場があったのかどうか。  二説ある。  講道館が、明治十八年の最初の弥生祭の時から出場していたというものと、その翌年の明治十九年からというものである。  多くの状況から、筆者自身は、十九年説を考えているが、この十九年説にしても、二月説、五月説、六月説がある。  講道館は、この弥生祭の武術試合に、明治十九年、二〇年、二十一年と出場している。  これ以外にも、警視庁主催による武術や柔術の試合は行なわれていたはずなのだが、その記録は、現在ほとんど残っていない。大正十二年(一九二三)九月に関東地方を襲った大震災にともなう火災によって、警視庁に残されていた資料のほとんどが焼失してしまったからである。  当時についての資料のほとんどは、何十年も経ってから当事者が記憶で語っている(あるいは書いている)ものばかりであり、その中では比較的古いE・J・ハリソンの『日本の武道精神』の中の「横山作次郎談話」にしても、初版は大正元年(一九一二)であり、明治十九年(一八八六)の警視庁武術試合からは、すでに二十六年が過ぎている。  横山の死は、この本の出版された大正元年であり、当然これ以前に横山の談話がとられていたのだとしても、本の出版の五年以上前に談話をとったわけでもないであろうから、警視庁武術試合がすんでから二〇年以上は過ぎてからの話ということになる。  治五郎の「柔道家としての私の生涯」の中にも、警視庁武術試合のことが書かれているが、これにしても昭和二年(一九二七)に発行された『作興』に所載されたものであり、他の資料と比べて、明らかに、矛盾する箇所もある。  山下義韶も「講道館柔道最初の他流試合」を『キング』に書いているが、これは昭和四年(一九二九)の発行である。  富田常次郎の息子である、作家富田常雄も本名、あるいはペンネームの伊皿木恒雄《いざらぎつねお》で、この時期のことを書いたりしているが、基本的に父である富田常次郎からのまた聞きと思われるものや、前後の事情から創作としか考えられぬことを事実として書いており、このことの功罪は相なかばする。  今日残っている古流柔術と柔道との対立関係という図式は、富田常雄の著作から派生してきたものが多く、実情は、対立関係はあったものの、柔道と古流とは、基本的には友好関係にあり、互いの道場開きには、それぞれの流儀の師範たちが、自流派の形などを披露しているのである。  その中には、講道館と、警視庁武術試合で闘った中村半助をはじめとする、古流の大物たちが何人もいるのである。  警視庁武術試合において、講道館の誰が出場して、いつ、誰と闘ったかということは、これを発言する人間によって、皆まちまちであり、どれを定説と考えるかは、これもまた人それぞれということになる。  ただ、明治十八年から二十二年(一八八九)までの間に、警視庁主催の武術大会が何度か開催され、それに講道館の横山作次郎、西郷(保科)四郎、山下義韶らが出場し、古流と闘ったというのは事実であろう。  それら全ての試合に、講道館は全勝しているわけではない。  勝った者も、負けた者もいる。  しかし、この闘いの中で、講道館の名が世に知られ、次第に柔術の主流が柔道に移っていったというのは事実である。  明治十九年から二十一年(一八八八)——この三年間が、新興の柔術流派、嘉納流あるいは講道館流にとって、将来の運命を左右する重要な時期であったというのは間違いないことであろう。 (二)  試合について、細かいことが決定したのは、五月二〇日のことであった。  まず、審判として、立ち合い人をひとりおくこと。  立ち合い人は、闘うどちらの流派にも属さない人間が務めること。  当て身の使用は認められた。  拳でも、足でも、相手の身体に当ててよい。  ただし、眼への攻撃と、股間の急所への攻撃は禁止となった。睾丸に当てるのも、睾丸を握ることもできない。  他は、噛みつくことが禁止された。  弥生神社の境内に、畳十八枚を敷いて、これを試合場とすることになった。  野外ではあるが、床は畳。  他は、投げ技、寝技——逆も締めも、全ての技の使用が許されることとなった。  試合時間は、制限がない。  決着がつくまで、闘う。  一方が参ったをすることで、勝敗が決まる。  あるいは、一方が意識を失うまで。  もうひとつは、立ち合い人の判断で、一方の勝利を決める。  どれだけ怪我をしようと、歯が折れようが腕が折れようが、闘う者は自ら敗北を認めたりしない。気力があれば、最後まで闘おうとする。  そのため、極めて危険な試合になることが、他流試合の場合は少なくない。  だから、たとえ一方が参ったをしなくとも、立ち合い人の判断で試合を終了させ、一方の勝利を宣言することができるようにしたのである。  ここまでは、概《おおむ》ね、昨年明治十八年の弥生祭の試合と同じ方式であった。  昨年と違っていたのは、投げによる一本勝ちが認められたことであった。  投げて、頭から落とされる——あるいは、背から落とされる。  そういう時に、立ち合い人の判断で投げられた方が一本負けになる場合もあることが決まったのである。  このことが発表された時、古流側から反対意見が出た。 「投げられただけで、まだ動けるのに一本負けとするのは、いかがなものか」  そういう意見であった。  反対意見をのべたのは、出場流派ではなく、別流派の人間である。  これに対し、 「投げられたら、何でも負けにするのではない」  主催者側はそう言った。  そこがもし地面であったらその投げで勝負が決っしていたに違いないと立ち合い人が判断した場合のみ、一方の勝ち、あるいは一方の負けが宣言されるのだと主催者側は言った。 「昨年はそうではなかったのに、どうして今年からそうなのか」 「これは、講道館流ではないのか」  そういう意見があがった。 「講道館に偏ったわけではない。それが合理的であると判断しただけである。西洋のレッスリングでは、両肩がマットに着いただけで、負けになるではないか。あれは、両肩をマットにつけられたら、戦場ではそのまま喉を刀で突かれるのと同じ意味であるとの判断から、両肩がマットに着いたら負けという取り決めがなされているのである。それと同様のことだ」  どんな投げでも投げたら勝ち、そういうことではないのだと主催する側は主張した。  そして、結局、そういうことになったのであった。  これを耳にした時—— 「逆に頭から投げ落としてやれば、それでこちらの勝ちということでしょう」  そう言ったのは、照島太郎であった。 「関係ないっしょう」  好地円太郎は、ただそう言った。 「こちらも投げようとするから投げられるのだ。始めから、当て身か寝技で勝負するつもりなら、どちらでもよいことだ」  奥田松五郎はそう言った。 「そうですか」  中村半助は、ただそう言ってうなずいただけであった。  どういうことも口にしなかった。  ただ黙々と稽古をした。  このひと月の稽古で、両肩が、さらにひとまわりずつ太くなっていた。  講道館では、ひとり、富田常次郎が、その知らせを受けた時に、わずかに笑みを漏らしただけであった。  横山は、どういう表情も顔に出さなかった。 「講道館は、いよいよ、負けられんちゅうことじゃ」  山下は、淡々として言った。 「もしも、投げで勝ったら何を言われるか」  宗像は黙々と稽古をしながらそう言った。  保科四郎は、何も言わなかった。  そして——  その翌日、富士見町の道場から、四郎の姿が消えた。 (三) 「先生、四郎の姿が見えません」  治五郎の部屋にやってきて、そう告げたのは、富田常次郎であった。  朝の稽古のため、常次郎が眼を覚ました時には、もう、保科四郎の姿はなかった。  四郎の布団は、すでにきれいに畳まれており、道場にも、庭にも、四郎の姿は見えなかった。  調べてみたら、四郎の稽古衣が失くなっている。一緒に、四郎が日常に使う手拭いなどの洗面用具も、常の場所にない。  単に、何かの用事で外出しただけであれば、洗面用具まで持って出る必要はない。  朝の稽古の前であった。  すでに、常次郎も治五郎も、稽古衣に着替えている。 「心配はいりません」  治五郎は、落ちついた声で言った。 「全てわたしが承知している」 「先生は、御存知だったのですか」 「うむ」  うなずいてから、 「昨夜、四郎が、この部屋までやってきたのだ」  治五郎はそう言った。 「昨夜?」 「そうだ」  ちょうど、治五郎が眠ろうとしている時であった。  読書のため、点けていたランプの炎を消そうとした時、 「先生」  外の廊下から声がかかった。  保科四郎の声であった。 「もう、お休みですか」 「まだ、起きている」  治五郎が答えると、やや間があって、 「お話があります」  四郎の堅い声が響いてきた。 「入りなさい」 「失礼します」  障子を開けて、四郎が入ってきた。  治五郎の前に、四郎が座した。 「何かね」 「しばらく、道場を留守にさせていただきたいのです」  常より表情の少ない四郎の顔から、さらに表情が消えている。 「留守に?」 「弥生祭の前に、会っておかねばならない方がいるのです」 「誰かね、その方は——」 「父です」  四郎は、堅い声で言った。 「それは、つまり——」 「保科近悳《ほしなちかのり》です」  保科近悳——四郎の養父である。  四郎は、もとの姓を志田といった。  会津藩士志田貞二郎の三男として、慶応二年に会津若松に生まれている。  その父の貞二郎は、明治五年に三十八歳で世を去っていた。  それから十二年後の明治十七年(一八八四)——つまり二年前に、四郎は保科近悳の養子となり、姓を志田から保科に改めている。  保科近悳——旧会津藩家老の西郷|頼母《たのも》近悳のことだ。 「警視庁武術試合の前に?」 「はい」 「理由は?」  治五郎は問うた。  四郎は、堅く唇を閉じている。  理由は言えぬと、その顔と眼が語っている。  しかし、師から問われて、言えぬとは口にできない。  それで黙っている。  黙って、治五郎を睨むように見つめている。 「わかった」  治五郎はうなずいた。 「行ってきなさい」 「ありがとうございます」  四郎は、両手を畳に突いて、頭を下げた。  昨夜、そういうことがあったのだと、治五郎は富田常次郎に言った。 「会津藩の保科と言えば……」  常次郎が何か思い出そうとして、言葉を止めると、 「西郷頼母先生ということだな」  治五郎が言った。  大東流というのは、会津藩に伝わる武術であり、明治までは門外不出——御留流《おとめりゅう》であった。他藩の者に教えてはならぬ流儀であり、藩内の者であっても、限られた人間にしか伝えられなかった。  その大東流を受け継いでいるのが、四郎の養父保科近悳であった。 「その大東流の中に、御式内《おしきうち》というのがある——」  治五郎は言った。 「御式内!?」  富田は、思わず声をあげていた。  初めて耳にする言葉ではない。  以前に耳にしたことがある。  四年前——  明治十五年、まだ志田姓を名のっていた四郎が入門した年だ。  夏——  武田惣角という奇妙な人物が、まだ永昌寺にあった講道館を訪ねてきた。  その惣角と自分は立ち合い、敗れている。  師である治五郎もまた、惣角と立ち合い、下からの不思議な締め技で敗れた。  その時に、武田惣角が言っていたのが、 �御式内�  ではなかったか。  それは何か?  富田は、惣角に訊ねたが、惣角は答えなかった。 「志田四郎君に訊いてくれればわかります」  惣角は、そう答えただけであった。  富田と治五郎は、惣角が帰った後、四郎に御式内のことを訊ねている。  しかし、四郎は答えなかった。 �知らぬ�  とも、 �言えぬ�  とも、四郎は言わなかった。  ただ、 「もうしわけありません」  そう言って畳に手を突いた。  以来、治五郎も富田も、御式内について、四郎に問うたことはない。 「わかったのですか、御式内のことが?」 「わかったというほどのことではないが……」  治五郎は、低い声で言った。 「何なのです?」 「大東流の奥伝《おうでん》だ」 「奥伝?」 「大東流を知る者の中でも、さらに限られた者にしか教えない」 「どのような伝なのでしょう」 「わからぬ」  治五郎は、腕を組んだ。 「ただ、御式内とは�敷居内《しきいうち》�のことだと言われてはいるらしい」  敷居内——これに�御�をつけて御敷居内《おしきいうち》。  これが転じて、御式内となったのだと伝える書もある。 「敷居内?」 「敷居の内側——つまり、殿中のことだ」 「殿中と言いますと?」 「ここからは、私の想像だ。御式内とは無刀《むとう》の術理——すなわち、武器を持たぬ技」 「———」 「柔術ということになるか——」  治五郎は、組んでいた腕をほどき、手を膝に置いた。 「大東流は、もともと、剣術、棒術など武器を持って闘うための術理であるが、その中に武器を持たぬ術、無手《むて》の術理のことを御式内と呼んでいるのではないか」  治五郎は言った。  古今の柔術や武道の伝書を、治五郎は無数に眼にしている。  この頃、日本の武術の伝について、総合的に見て一番詳しい人間が治五郎であった。その治五郎の言葉は、それなりの説得力があった。 「おそらくは、座した状態から、その形は始められるのではないかと考えている」 「座した状態から?」 「そうだ」 「どのように?」 「わからぬ。これ以上、想像に想像を重ねても意味はなかろう」 「あの、武田惣角が、御式内を学んでいて、それを四郎に訊ねよということは、四郎も御式内を——」 「さて——」  治五郎は、また、腕を組んだ。 「あの男、妙に謎が多い……」  富田はつぶやき、 「で、四郎はどこに?」  訊ねた。 「日光だ」  治五郎は言った。 (四)  庭の、井戸の横で、八重が洗濯をしている。  昼——  陽は、中天に昇っている。  陽射しは、道場の屋根を越えて、八重の上から注いでいた。  盥《たらい》に洗濯板を入れて、その上で、両手で稽古衣をこすっている。  その斜め前に、横山作次郎がしゃがんでいる。  八重の洗濯を眺めている。  横山の上半身は、裸であった。  しばらく前に、洗濯をしている八重のところへ稽古衣姿でやってきたのだ。  そうしたら—— 「お脱ぎなさい」  八重が、横山に声をかけたのである。 「臭いますよ」 「本当ですか」  横山は、自分の右腕をあげ、袖のあたりの臭いを嗅いだ。 「臭います。自分の臭いというのは、自分じゃ気づかないけれど、他人にはよくわかりますよ」  無理やり、八重に稽古衣を脱がされたのである。 「今日は、お天気がいいから、あなたが絞ってくれたら、夕方のお稽古までには乾きますから——」  それで、横山は、そこにしゃがんで、八重の洗濯姿を眺めているのである。  下駄を履いた横山は、しゃがんでも大きい。  肩や首の周囲の筋肉が、皮膚の下に石を入れたようにふくらんでいる。  その筋肉の上にも陽は注いでいた。 「八重さん……」  横山は、しゃがんだまま声をかけた。 「なんですか」 「四郎のやつ、八重さんには挨拶をしていったんですか」 「はい、いきましたよ」  八重は、手を休めずに言った。  八重は、まだ、四〇代である。  子供がいる。  もと、会津藩士の妻であったのだが、戊辰戦争で夫を失った。知人や親類の家を転々としながら生きてきたのだが、五年前に東京へ出てきて、縁あって嘉納家と知り合い、治五郎の身の回わりの世話をするようになったのだ。  四郎とは、四郎が講道館に入門する前からの知り合いであった。  そもそも、四郎入門のきっかけが、この八重であった。  八重を訪ねてきた四郎を治五郎が見て、四郎を気に入り、井上道場まで四郎をもらいうけに行ったのである。  横山も、そのあたりのいきさつは知っている。  横山もまた、天神真楊流の井上敬太郎道場にいたからである。  横山は、四郎に四年遅れて、講道館に入門している。 「何と言ってました?」  横山は訊ねた。 「行ってくるって——」 「日光へ?」 「ええ」  八重の手は、動き続けている。 「何をしに?」  横山が、八重の顔を覗き込むようにして訊ねた。  しかし、八重は、手元を見つめているだけで、答えない。  ただ、手は動き続けている。  横山は、八重を見つめながら、頭をぼりぼりと掻いた。 「終りましたよ」  八重が言った。 「さあ、絞って下さい」  横山は、濡れた自分の稽古衣を手に取って、それを絞った。  石鹸の混じった白い液が、盥の中に滴り落ちる。  その間に、八重は、桶に井戸から水を汲んでいる。  盥の水をこぼし、そこへ、新しい水を入れた。その水で、横山が絞った稽古衣を濯《すす》ぐ。 「これを絞って——」 「はい」  横山が、また、稽古衣を絞る。  絞り終えた稽古衣を、ぱんぱんと音をたてて広げ、八重は声をあげた。 「さすがに凄い力ね。半分乾いてしまってるわ」 「ありがとうございます」  頭を下げた横山に、 「ねえ」  八重が声をかけた。 「はい?」 「何故、闘ったりするんでしょう」  八重が、ふいに訊ねてきた。 「え」  横山は、一瞬、八重に何を問われたのかわからなかった。 「何故?」 「戦争……」 「———」 「あの戦争だけで充分なのに……」 「はあ……」 「闘わなければわからないことがあるのかしら——」  八重の言葉に、 「はあ……」  横山は、右手を頭にやって、髪の毛の中をぼりぼりと掻くばかりであった。 [#改ページ]  十章 御式内 (一)  周囲が、騒がしかった。  広い部屋に、男や女たちがたくさんいた。  色々な人間たちが、声をあげている。  激しく言い争っているような声でもあり、中には、泣いているような声もあった。  泣いているような声の中には、男の声も女の声もあった。  何を話しているのか、何を泣いているのか、それがわからない。  言葉を覚える前だ。  長い時間のようでもあり、短い時間のようでもある。  それを、誰かの腕の中で聴いている。  柔らかで、温かな腕。  その体温のことは、声よりも鮮明だった。  自分が身体を預けている肉体が、小刻みに震えている。  自分に腕を回わしている人物が、泣いているらしい。  嗚咽しているのだ。  どうやら、女のようだ。  次に、何がおこるかを、四郎は知っていた。  何度も見た夢だ。  それが、四郎はいやだった。  ここで、夢が終って欲しかった。  しかし、夢はそこで終らずに続いた。  自分の身体が、その温かい腕の中から引き剥がされて、もっと別の、ごつごつした腕の中に包まれるのを。  ひどく寒い。  温かな温度が、それで消えてしまった。  そして——  長い時間、自分は、そのごつごつした腕の中で運ばれたのだ。  そこで——  四郎は、眼覚めていた。  堅い、板の上に頭を載せていた。  見あげると、軒の向こうに、凄いほどの星空が見えた。  着ているものが、夜露で湿っていた。  野宿をしていたのだ。  宇都宮だ。  日光へ行く途中、日暮れて、見つけた小さな神社の軒下に眠ったのである。  そして、眼を覚ましたのだ。  夜半だ。  時おり見る、あの夢を、また見ていたのだとわかった。  風が、境内の杉の梢を揺すっている。  四郎は、上体を起こし、頬に手をやった。  頬は濡れていた。  夜露ではない。  また、天を見あげる。  そこに、星が光っている。  天狼星であった。 (二)  杉林の中であった。  ひんやりとした冷たい風が、ゆるゆると動いている。  杉の古木が林立する中で、その男は、ちんまりと座していた。  初老の男であった。  頭が、みごとに禿げあがり、両耳の周辺にわずかに残った白髪混じりの髪がからんでいるだけであった。  しかし、鬚《ひげ》が長い。  顎の下の鬚が、胸を越え、腹のあたりまで下がっていた。  顔には、深い皺が刻まれていた。  年齢は、四〇代の終り頃であろうか。  頭髪の量と、顔の皺だけを見れば、四〇代を超えているようにも見えるが、直《すぐ》に伸びた背と、その佇まいからうかがえば、やはり四〇代であろう。  ただ、身体が、極端に小さい。  猿が、人の姿をして、そこに座しているようにも見える。  もちろん、人であるから、身体の大きさは猿より大きいのは当然であるが、それにしても小さかった。  立ちあがっても、せいぜい四尺六寸(一四〇センチ)もあればいいところであろう。  白い稽古衣を着ていた。  その下に、黒い袴を穿いていた。  素足である。  わずかに湿り気を含んだ土の上に、初老の男は静かに座して眼を閉じていた。  端座《たんざ》した男の身体の中に、山の霊気がそのまま流れ込み、そのまま流れ出てゆく。  まるで、初老の男の存在そのものが、山の中に溶け込んでしまっているかのようであった。  それだけ、男の存在感は、希薄で透明であった。  静かに息を吸い込み、静かに吐いてゆく。  その呼吸のたびに、男の肉体は山の気に染まって、ますます透明になってゆくようであった。  その男の前、一間ほど離れた場所に、保科四郎が座していた。  やはり、土の上である。  四郎が身につけているのは、講道館の稽古衣であった。  四郎は、男と同様に眼を閉じて座しているが、その佇まいは、明らかに違っていた。  直に背が伸び、身じろぎもせずに座して呼吸しているところは同じだが、四郎の身体は、熱気のごときものを帯びている。  呼吸で抑えようとしても抑えきれない熱気——魂の温度のようなもの。  四郎の鼻孔に入ってくる山の大気の中に、様々な匂いが混ざっている。  湿った土の匂い。  枯れ葉の匂い。  萌え出たばかりの新緑の匂い。  意識は、澄んでいる。  湿った土の中で、腐食してゆく枯れ葉の放つ匂いもわかる。  その枯れ葉を食べる微生物が動く音までも聴こえてきそうであった。  微生物によって食べられ、分解されて排泄された葉が養分となって、また、樹によって吸収されてゆく。  この森が、何千年、何万年となく繰り返し続けてきたその循環の中に身を置きながら、四郎の肉体は、異物の如く発光していた。  四郎自身にも、その自覚はある。  沈黙しながら、我を通す。  黙ることで、これまで肉の中に溜め込んできたものが、自然に熱を帯びてくるのだ。  普段はわからないが、こういう場所で端座した時に、自分の肉の持つ温度がまざまざと見えてきてしまうのである。 「眼を開けなさい……」  静かな声が響いてきた。  眼を開くと、初老の男もすでに眼を開け、四郎を見つめていた。 「できたかね」  男は言った。 「いいえ」  四郎は、小さく首を左右に振った。 「できませんでした」  四郎は、素直に言った。  座す前に、男は、 「己れを捨てなさい」  四郎にそう言った。 「森が、自分の身体の中に流れ込んでくるのにまかせなさい」  そうも言った。 「自分が、森の中に流れ込んでゆくのにまかせなさい」  そうも言われた。  森とひとつになる——  それができなかった。  森とひとつになれと言われても、それがどういうことであるのか四郎にはわからない。  どうやればひとつになれるのか。  座した瞬間は、心の中にまだ雑念が動いている。  考えるなと思っても、考えてしまう。  そのうちに、意識が落ちついてくる。  心の中に、様々な想念が浮かんではくるが、それが、ただの意識の浮遊物のようになる。  その浮遊物を見ても、心は動かされなくなる。  心は、ざわめかない。  周囲のことも、認識できる。  たとえば、いきなり誰かから襲いかかられたとしても、それに反応して動くことができるだろう。  しかし——  男の言っている�森とひとつになる�ということはどうも違うような気がしている。  だから、四郎は「できませんでした」と答えたのである。  四郎の言葉を聴いて、男は、少し微笑したように見えた。 「まだ、できなくていい」  男は言った。 「先生」  四郎は言った。 「森とひとつになるというのは、どういうことですか」 「説明はできぬ」  男は言った。 「しかし、ひとつになった時にわかる。ああ、このことであったのかとわかる」 「わかれば強くなれますか」 「さて」  今度は、はっきりと男は微笑した。 「それはわからぬ」 「———」 「もしかしたら、弱くなるかもしれぬ」 「弱く?」 「強くなるかもしれぬ」  男が、何のことを言っているのか、ここまでくると、四郎はもうわからない。 「父上——」  そう言いかけて、 「先生」  と四郎は言いなおした。 「やはり、わかりません」  真面目な口調で、四郎は言った。 「わからなくてよい」  男は言った。  男——名は保科近悳《ほしなちかのり》、四郎の養父である。 「これまでにも、何度か口にしてきたことだが、大東流の奥義《おうぎ》は、合気《あいき》にある」  男——保科近悳は言った。 「この天地と気を合わせる、相手と気を合わせる。これができるようになれば、闘いは自在じゃ。もはや、勝つとか負けるとか、そういう勝負の外じゃ」  四郎はうなずかない。  わからないのである。  わからないことにはうなずけない。 �わかるか�  とは、近悳も問うてこない。 「立ちなさい」  近悳が言った。  四郎が、ゆっくりと立ちあがり、稽古衣の膝についていた泥をはらった。  近悳は立ちあがらない。  まだ、そこに座したままである。  正座しているように見える近悳だが、体重の全てを足の上に落としているわけではない。  それを、四郎は知っている。  両足の親指は、地を掴んでいる。  それが、御式内の形だ。  近悳の両手は、軽く太腿の上に載せられている。 「来なさい」  近悳は、静かに言った。 「講道館での修業の成果を見せるのだ」 (三)  四郎は、近悳の前に立った。  近悳は、端座したままである。  手は、まだ太腿の上に置かれている。  一見、無防備な姿だ。  たやすく、顔を蹴ることもできそうであるし、横から頭部を蹴ることもできそうな気がする。しかし、それが、そうたやすいことではないのはわかっていた。  まず、近悳の膝が、身体より前に出ているというのが曲者であった。  相手が立っているのなら間合いが測れるが、座していては、それを測るのが難しい。  自然に懐が深くなっている。  簡単に、蹴り足が届かない。  蹴りに行けば、かわされて、軸足を掬われてしまう。  かといって、組みにもいけない。  組むために、腕を伸ばせば、前かがみになる。  重心があやうくなる。  講道館で言えば、�崩し�がすでにかかった状態で相手と組むことになる。  これも、たやすく投げられてしまう。  あるいは、引き込まれてしまう。  座している人間の重心は低い。  投げるためには、崩さねばならず、崩すためには組まねばならない。  組んだら、投げられてしまう。  攻めてくる相手に対して、自然に身を守るかたちになっている。  自ら相手に仕掛けてゆくかたちではない。  背後にまわり込めば、先手の攻撃を加えられるが、相手はただ、身体の向きを変えるだけで、すぐにこちらに身体の正面を向けることができる。背後にまわり込む方は、動く距離が大きい分、遅れてしまう。  座している方からは仕掛けない。  相手が仕掛けてくるのを待つ、そういうかたちである。  仕掛けてくる技は、立っている時よりも限られてしまう。  技を掛ける時には、いずれにしてもいきなりではない。互いに相手の身体に触れ合いながら、崩しを掛けあい、隙を見て崩す、あるいは当て身を当てる。  しかし、座している相手に対しては、そういう駆け引きのしようがない。  立っている方にしては、やりにくいかたちであった。  これが真剣な果たし合いであれば、離れて、相手が立つまで待てばいい。  しかし、近悳は、講道館流を見せよと要求したのだ。  だが、講道館流には、座している相手を崩して投げる形はない。  治五郎なら、どうするか。  四郎はそう思った。  治五郎であれば、相手が座したまま向かってこないならば、逃げる。  そう思った。  護身術ということであれば、それで充分である。  野外で、誰かに襲われたとしたら、身を守るためにも闘わねばならないが、相手が襲ってこないのなら逃げる——それが、治五郎だ。  四郎は、腰を落とし、近悳の前で地に片膝をついた。  まだ、間合いではない。 �ほう……�  近悳の眼が、何か興味深いものでも見たように光った。  そのまま、四郎は、ゆっくりと片膝をついた姿勢で近悳ににじり寄ってゆく。  近悳は両膝を、四郎は右膝をついている。  四郎の右膝が、近悳の左膝と、ほとんど触れ合いそうになるほど距離が縮まった。  いきなりは仕掛けない。  まず、相手の襟か袖を掴むことだ。  ゆっくりでいい。  四郎は右手を持ちあげ、ゆっくりと伸ばしてゆく。  その手を近悳が払ったり、逆にこちらの袖か襟を掴んでくれば、勝負になる。  しかし、近悳は動かない。  近悳の左袖に、伸ばした右手の指先が触れる。  まだ、近悳は動かない。  呼吸があらくなりそうである。  たいして動いてもいないのに、空気が足りなくなったようであった。  掴む。  その瞬間に、近悳の身体が動いた。  動いたといってもわずかである。  肩をちょっと引いて、身体を小さく振っただけのようであった。  近悳のやった動作は、それだけであった。  しかし、その瞬間、信じられないことが起こっていた。  四郎の身体が、宙に飛ばされていたのである。  あっ、  と思った時には、頭から斜め右前方に向かって転がされていた。  近悳の左側へ四郎の身体が転がった。  しかし、四郎は宙で身をひねり、両手と両足で、四つん這いになるかたちで着地した。  最初に両手、次に両足が地につく。  両手がついた時には、もう、顔を近悳に向けている。  近悳に、横から仕掛けることができる。  両足がついた瞬間、地を蹴って近悳に組みつくつもりでいたのだが、四郎はその動きを途中で止めていた。  近悳が、もう、四郎に向きなおっていたからである。  近悳は、まだ、両手を太腿の上に載せたままであった。  さっきと、同じ姿勢だ。  今、四郎を投げた時も、近悳の両手は太腿から離れてはいないはずであった。 「猫の三寸返りか……」  ぼそりと近悳は言った。  もしも、背から落ちていたら、近悳の方から組みついてきたに違いない。  それで襟を取られて、襟締めにされていたことであろう。  近悳と、初めて会ったのはいつであったろうか。  十年以上も前になるであろうか。  近悳とは、こより[#「こより」に傍点]で遊んだ。  こより[#「こより」に傍点]で、何度も投げられた。  それで、�猫の三寸返り�を覚えたのだ。  今も、こより[#「こより」に傍点]で投げられた。  今度は、両手をついたまま、近悳に近づいてゆく。  顔から——  顔を蹴ってくるか、顔に拳を当ててくるか、どちらでもいい。  先に近悳が仕掛けてくるのなら、その方がわかりやすい。  這いながら近づいてゆくということは、両手か、あるいはどちらか一方の手に必ず重心がかかっているということだ。  重心がかかっている方の側から当て身を入れられたら、手で、それを受けるのにわずかに時間がかかる。  当てる方が速い。  それでもかまわなかった。  当てさせておいて、先に組みついてこちらのかたちを作ってしまえば、その方が有利だからである。  御式内に対して、立ったままかかってゆくよりはずっとよい。  しかし、近悳は何も仕掛けてはこなかった。  すぐに、間合いに入った。  いつでも、近悳の身体に手が届く距離である。  どうするか。  御式内の形で、応用できぬ仕掛け方をしなければならない。だが、形にないからといっても、こちらが不利な体勢での攻撃はできない。  小さく息を吐き、小さく息を吸う。  近悳は、まだ、同じ姿勢で座したままだ。  間合いの中で呼吸をしていると、自分の息が荒くなってしまいそうであった。  退がった。  距離をとって、呼吸を整える。  決心がついたように、四郎は息を吐いた。  四つん這いの姿勢から、仰向けになった。  尻を地につけ、両足を地に下ろした。  左手を地につけ、右手を持ちあげ、今度は足から近悳に近づいていったのである。  これは、御式内にも形がない。  足から近づき、足の指で、近悳の袖か襟を掴む——四郎の足の指は、長い。  蛸足である。  その指で、近悳の稽古衣のどこかを掴めば、それだけで相手の自由を奪うことができる。  この体勢ならば、投げられることはない。  近悳は、動くしかない。  四郎が近づいてゆく。  間合いに入った。  その時、初めて、近悳は自ら動いていた。  近悳は、退がったのである。  さっきと同じ距離が、近悳と四郎との間にあった。 「さあ、どうする」  近悳が言った。 (四)  慶應四年八月二十三日——  早朝。  朝もやの漂う林の中の径《こみち》を、西郷頼母近悳は走っていた。  四〇人近い水戸兵が後ろに続いている。  山道である。  下り坂だ。  坂は急でこそないが、径のあちらこちらに岩や樹の根が露出している。その上を、飛ぶように近悳の身体が疾っている。  背あぶり峠からの下りであった。  およそ、一五〇名の水戸兵を率いて、近悳は、背あぶり峠を西軍から守っていた。  背あぶり峠は、会津へ入るための重要な関門であった。西軍に、この峠を越えさせるわけにはいかなかった。  しかし、峠を下らねばならない事情ができてしまった。  早朝——明るくなってすぐに見下ろした鶴ヶ城城下が、火と煙に包まれていたのである。  天守のあたりにも白煙があがっているのが見えた。 「しまった」  近悳は、思わず声をあげていた。  この峠を死守している間に、別の場所から西軍が入り込み、城下が戦火に巻き込まれていたのである。  予想していたことではあったが、それが現実のものとなって、眼下に見えた時、近悳の覚悟は決まっていた。  主力を峠に残し、何人かの兵を連れて、鶴ヶ城に入ることにしたのである。  鶴ヶ城の守りは薄い。  詰めているのは、ほとんどが老人か年少の者だ。  一刻も早く、城に入らねばならない。  峠を下ることについては、近悳が決めた。  城に使者を送って、その返事を待っている時ではなかった。  事態は、予想以上に早く動いている。  すでに、西軍は、鶴ヶ城の喉元に刃を突きつけているのである。  昨夜の一件がそうであった。  昨夜—— 「見張り番の者が倒れております」  背あぶり峠の陣で、そう報告を受けた。 「何?」 「それが、妙な死に方をしております」 「妙とは?」 「刀を抜いてはいるのですが、自分の刀で自分を——」  話の要領を得ない。  陣内で眠っていた者たちを起こし、何があってもいいように、それぞれを持ち場につかせた。 「おれがゆこう」  反対する者もいたが、近悳自ら、様子を見にゆくことにした。  敵がいるにしても、大人数ではない。大人数なら、それとわかる。知られずに、陣の近くまでやってきたのなら、小人数だ。  見張り番の者ふたりの屍体を見つけたのは、交代の者であった。その交代の者ふたりが、現場まで行って陣まで戻ってきているのである。距離にしても、それほど遠くではない。  大声で叫ぶか、笛を鳴らすかすれば、陣まで届く。  近悳は、八人ほどの人数を連れて、陣を出た。  四人に灯りを持たせた。  現場に着いて、屍体を見た。  ひとりは、左肩から袈裟切りに、ほとんど上体が両断されそうなほど、深々と切り下げられていた。  左の鎖骨から断ち割られ、肋《あばら》、背骨、肺腑《はいふ》までがみごとに断たれていた。  即死であろう。  もうひとつの屍体を見た時—— 「むう」  近悳は声をあげていた。  聴いた通り、それは奇怪な死に様であった。  こちらの屍体は、その両手に刀を握っていたのである。最初の屍体は刀を抜いていなかったが、こちらはどうやら、刀を抜く間くらいはあったらしい。  しかし——  その屍体は、自ら握った剣を、自分の額にめり込ませて死んでいたのである。  しかも、めり込んでいるのは、刀の峰の方であった。  額の左側、刀身の幅の半分以上までが、頭蓋骨の中にめり込んでいたのである。 「近悳さま——」 「騒ぐな」  そう言って、近悳は、細かく屍体を見分した。 「灯りを——」  灯りを近づけさせてよく見れば、屍体の握っている剣の、鍔元から五、六寸ほど上のあたりに、大きな刃こぼれがあった。  そこだけ、刃が欠けている。  よほど大きな力が加わったのであろう。  相手から頭部に切りつけられ、自分の剣でそれを受けた。  しかし、相手の剣の斬撃がおそろしく強かったため、合わせ負けして、受けた自分の剣の峰で自らの額を打ってしまったのだ。  凄まじい剣だ。  そのような剣があるのか。 「示現流か——」  近悳はつぶやいた。  西軍の本隊ではない。  斥候の者が何人か、夜陰にまぎれてここまでやってきて、見張りの者に見つかって、切り合いとなったのであろう。  切り合いといっても、ほとんど瞬時に決着がついている。  独りか!?  屍体を見る限りは、その可能性が高い。  何人かいたにしろ、相手をしたのは独り。  まず、ひとりを斬り、次に剣を抜いたもうひとりを斬る。  いずれもひと太刀で勝負を決め、相手を絶命させている。  恐るべき手練《てだれ》であった。  その敵も、もう、この場所には居まい。 「陣に戻る」  近悳は言った。  今、闇の中で屍体を運んでいる時ではない。  明日——  明るくなって、周囲の様子が見えてから考えればいい。  ひき返そうとした近悳は、足をそこに止めていた。  ひやり、  と、首筋のあたりに何か触れたような気がしたのだ。  氷のように冷たい蜘蛛の糸——それが、首にふわりとからみついたような感触。 「誰《だれ》じゃ?」  近悳は、闇に向かって誰何《すいか》した。  その気配に気づいたのは、近悳だけである。  驚いたのは、近悳と共にやってきた者たちであった。  かちゃり、  かちゃり、  音をたてて、八人が抜刀した。  四人は、灯りを左手に持ちかえ、右手で抜刀した。  抜いてないのは、近悳だけである。  近悳が、浅く腰を落として睨んでいるのは、横手奥にある、太い杉の木立であった。  四つの灯りが、その千年は経たであろうと思われる杉を照らし出した。  返事はない。 「誰《だれ》か!?」  声をかけながら、ふたりが、その杉の樹に向かって疾った。  いずれも、藩内では、腕に覚えのある者たちであった。 「待て」  近悳が止める間もなく、ふたりがその杉の後方へ回わり込もうとした時——  灯りの中を、  ぎらっ、  ぎらっ、  二度、金属光を放つものが、激しく煌めいた。 「おがっ」 「あばっ」  ふたりの首筋から血煙があがって、ふたりが地に倒れ伏した。 「おれがゆこう」  近悳は、鯉口《こいぐち》を切って、腰を落とし、ためらわずに前に歩を踏み出した。  すうっ、と、滑るように近悳が杉に近づいてゆく。  右でもない、左でもない、正面から。  杉の、一尺ほど手前で足を止めた。  杉の陰に、誰が隠れているにしろ、これで、近悳と相手とは対等になったことになる。  どちらの姿も、杉の幹に隠れて、互いに見ることはできない。  沈黙の時間は短かった。 「待て」  杉の向こうから声がかかった。 「今、出る」  ゆらりと、杉の陰から、ひとりの男が現われた。  六尺近い大漢であった。  右手に、剣を握っている。  刀身が分厚い。  剣というよりは鉈《なた》のように見える。  普通の剣より、遥かに重そうであった。  余程の膂力《りょりょく》がなければ、あつかいきれぬであろう。 「独りか」  近悳が問う。 「独りじゃ」  男がうなずく。 「何故、逃げなかった?」 「いつでん、逃げられると思うちょった」  気づかれたら、逃げる。  独りで逃げれば、それだけ身軽だ。  夜の闇にまぎれてしまえば、相手はもう追えない。  深追いすればするほど、敵の中に入ってゆくことになり、追う方の気持も萎える。  どこかで待ち伏せされていたら——  どこかに罠が仕掛けられていないか——  逃げるより、追う方が疲労する。 「薩摩か」 「片山悦次郎じゃ」  その大漢は、名をつげた。 「西郷頼母近悳じゃ」 「知っちょりもす」 「ほう」 「会津御留流の大東流、この眼で見たかと思うちょりました」 「何故、気配を?」  近悳は問うた。  しばらく前から、その木立の陰に、この片山という男が隠れていたことは間違いない。  みごとに気配を殺していた。  それが、どうして近悳に気配をさとられたのか。 「西郷頼母近悳殿の御高名、かねてより聴き及んでおりもす。さきほど、その名ば耳にして、我が気魂《きこん》が煮えたとです」  さきほど、近悳に声を掛けた者がいた。  それで、片山は近悳がそこにいたことを知ったというのである。  あれが近悳か——  どれほどの人物か。  そう思って、木陰からうかがっているうちに、気持ちが高ぶって、思わず気配が洩れてしまった——そういうことであった。 「見つけた以上、捕らえるか、斬るかせねばならぬ」  近悳が言えば、 「望むところ」  片山が、左足を前に踏み出した。 「相手は、近悳さまただお独り。あとは、殺すも逃ぐるも我が思うままじゃ」  その言葉に、 「何!?」  近悳の背後にいる男たちが色めきたった。 「動くな」  近悳が、男たちを制した。 「おれ独りでよい」  近悳は、さらに腰を沈めた。  片山が、両手で握った剣を、右肩に担ぐように持ちあげてゆく。  剣の切っ先が、天を刺す。  蜻蛉《とんぼ》の構え。  片山の両膝が、浅く曲がっている。  示現流——  薩摩藩の門外不出の剣技である。  この構えから、踏み込みざまに、真っ向から剣を打ち下ろす。  そのひと太刀こそが、示現流であり、その全てである。  その後の受けの形はないといっていい。  そのひと太刀のみに、全身の力と全身の気魂を込める。  ありったけのものを込めて打ち下ろす。  その後のことは考えない。  相手を切り、その足元の大地までをも両断する。  それだけの気合を込めたひと太刀である。  相手が、それを避けたらどうなるか、受けられたらどうするか、その先を考えない。  そのひと太刀めをかわされたら、死ねばよいだけのことだ。  そういう覚悟の一撃である。  そのただ一撃に、自分の生命を込める。一度打ち下ろしたら、魂が擦り切れて消失してしまってもいい——そういう思いを込めた一撃である。  相手より、わずかでも早く。  たとえ、髪ひと筋分でも早く、相手を切ればよい。  相手が、どういう流儀で、どういう技を使ってくるかは、考えの他だ。そういうことは関係がない。  ただ、相手に向かって渾身の一撃を振り下ろす。  実直で、わかり易い。  それだけに恐ろしい剣法だ。  片山の剣は、分厚い。  あんな剣をまともに受ければ、剣ははじかれてしまう。  刀身が折れる。  頭上で受けた剣を一撃されれば、受けた自分の刀の峰が頭蓋骨を割って、頭部にめり込む。  近悳は、それを知っている。  しかし、話に聴いただけだ。  真剣を持って、このように向き合うことはむろん初めてである。  近悳は、小さな身体をより小さく丸めるように、身を沈めた。  まだ、抜いてない。  鞘《さや》の鯉口近くを左手で握り、鞘ごと刀を前に押し出し、柄を右手で握っている。  近悳が小さいことと、さらに身を沈めていることで、片山にとっては間合いが遠くなっている。しかし、近悳にとっては、間合が近くなっている。  片山の顔が、赤くなっている。  片山の肉の中に、むりむりとふくれあがってくるものがある。  気配を隠さない。  気魂が、片山の肉に満ち、充実してゆく様が眼に見えるようであった。 「ひいいいい……」  片山が、その唇から、声を洩らす。  その声が、急速に高まってゆく。  狂ってゆく。 「あやああああああああ……」  片山が、かあっ、と口を開き、 「あきゃあっ!!」  声をあげて、飛び込んできた。  片山が絶叫したその声は、猿叫《えんきょう》といって、示現流の者が相手に切りかかる時にあげる雄叫びである。  ぎいん、  と金属音がして、一本の刀が、灯りを受けてくるくると宙に舞った。  何が起こったのか。  兵たちがそこに見たのは、仰向けになって倒れている片山の上に馬乗りになり、剣を握った片山の右腕を抱え込んでいる近悳の姿であった。  片山の右腕から、刀が落ちた。  そのまま、近悳は仰向けになり、片山の腕を抱え込んだ両手に力を込めた。  いやな音がした。  片山の右腕が折れていた。 「ぬうう」  片山は、折れた右腕にかまわず起きあがろうとした。  その背後に、近悳がするりと回わり込んだ。  その時には、もう、片山の襟を握っている。  それでも、片山は立ちあがった。  近悳は、その背に負われるようなかたちで、片山の襟をとって、その頸をしめている。  片山は、地を蹴って、後方の樹に背中からぶつかっていった。  樹にぶつかる瞬間、両足を持ちあげ、それを樹の幹について、近悳はぶつかった衝撃を和らげた。  その瞬間——  ごとり、  と、巨木が倒れるように、片山が前のめりに倒れていた。  片山の背から降り、近悳が立ちあがった。  小さく息を吐いた。  片山の初太刀を受ける時に、近悳ははじめから剣を捨てる覚悟をした。片山の剣を受けた時、もう、近悳は自分の剣の下にいなかった。剣だけを、空間の同じ位置に残し、自らはもう、片山に向かって動き出していたのである。 「殺してはおらん」  近悳は言った。  意識を失った片山を、その場で縛《ばく》し、陣に連れもどった。  片山から、逆に西側の動きを訊き出そうとしたのである。  しかし、片山は、自陣の情勢については、ひと言も語らなかった。 「おいを殺すがよか」  片山はそう言っただけであった。  拷問してでも、吐かせようという意見もあったが、 「やめておけ」  近悳がそれを止めた。 「どうせ、何も言わぬであろう」  結局、そのまま寝ずに朝をむかえ、城下にあがる白煙を見たのである。  背あぶり峠の陣に、半数の兵と片山を残したまま、今、近悳は鶴ヶ城に向かって背あぶり峠から駆け下っているのである。  西郷頼母近悳——三十九歳の時である。 (五)  藩主松平|容保《かたもり》は、天守の外、黒金門の前に床几《しょうぎ》を置き、そこに座して指揮をとっていたのだが、近悳が雨の中を駆けつけたのを知ると、腰をあげてこれを出迎えた。 「よう来てくれた、近悳——」  容保の顔には、疲労の色が濃い。  近悳が考えた通り、城の手勢は増えていなかった。  玄武足軽隊はいたものの、老人組、少年組、わずかの人数しか城には残っていなかったのである。  休む間はなかった。  天神の南門、北出丸、埋《うずみ》門に、連れてきた手勢を配置すると、近悳は自ら容保の横に立って指揮をとった。  西軍の砲火は北出丸に集まっている。そこの一点突破をねらっているのであろう。時おり、砲弾は天守にまで届いてくる。砲弾で、天守の壁に罅《ひび》が入るのを眼にすれば、いやでも士気が落ちる。  容保が、天守から出て外に身を置いたのも、兵を鼓舞するためだが、それにも限界がある。  近悳は、ちょうどよい時に帰ってきたといえる。  兵たちへの下知がすみ、ようやく一段落した時、近悳は、自分の眼の前にひとりの少年兵が立っていることに気がついた。 「吉十郎」 「父上」  甲賀町通りにある屋敷に残してきた、近悳の嫡子吉十郎であった。  十一歳。  額に巻いた白鉢巻の濡れているのが痛々しい。  頬に幾つもの雨滴が張りついている。 「千重子は?」  思わず、近悳は問うていた。  屋敷のことは、気になっていた。できれば城へ駆け込む前に様子を見に行きたかったが、すでに覚悟を決めて家を出てきたのである。寄らずに城へ入った。 「母上は——」  言いかけた吉十郎の言葉を遮るように、 「言わぬでよい」  近悳は言った。  訊くまでもないことであった。  吉十郎がこの城に入っているということは、その時が来たということだ。その前に、妻の千重子が、吉十郎を送り出したのであろう。 「父上、吉十郎は、もう、戦働《いくさばたら》きができます」 「わかっている」  近悳はうなずいた。  しかし——  この戦《いくさ》は負ける。  近悳はそう思っている。  勝つことのない戦であった。  時の勢いは、薩摩、長州、土佐にある。  これは、古いものと新しいものの戦だ。古いものと新しいものが戦をすれば、古いものが負ける。  自分は、古いものだ。  この戦においては負ける側の人間だ。  容保に殉ずるのが、自分の使命であると思っている。  もともと、自分はこの戦には反対を唱えてきた人間である。しかし、いったん戦となれば、容保のために死ぬ。それだけのことだ。そのために、自分という存在はあったのであり、そのことで、自分は生かされてきた。  武士は、そのための存在である。  日本の歴史上、武士としての生き方をまっとうできた者が何人いるか。それを思えば、武士として死ねることは本望である。  しかし、この吉十郎は——  もはや、武士の世ではない。  妻の千重子も、そして、娘たちも——  この戦を、自分が止めることができていたら——  いや、それは思うまい。  思っても、詮ないことだからだ。戦は始まった。その戦の中で、自分はどうやって武士として生きてみせるか。  容保の生命と共に自分はある。主君である容保を守ることが自分の使命である。容保が死ぬ時に自分が死ぬ。  あやうく人の情をもって考えそうになる時、常に近悳を律してきたのは、�武士�という概念であった。  人であれば、情に流される。どう生きてよいかわからない。人である西郷頼母近悳は、迷いに満たされている。しかし、武士である西郷頼母近悳という人間が、どう生きればよいかということであれば、迷わない。  容保のために死ぬ——  その覚悟があるかどうかだけだ。 「悳武《のりたけ》は?」  近悳は問うた。 「志田様がいらっしゃって、連れてゆきました」 「津川へ?」 「はい」  吉十郎がうなずいた時、人の気配があった。 「近悳」  容保が、声をかけてきた。 「そなたの息子か」 「はい」  近悳がうなずくと、 「吉十郎と申します」  吉十郎が、片膝を突いて頭を下げた。 「よい、顔をあげよ」  容保が言った。  吉十郎が顔をあげる。 「よい面構えじゃ」  容保に声をかけられて、吉十郎は雨に濡れた顔から湯気があがるほど、頬を赤く染めた。  吉十郎が去ってから、 「教えたのか」  容保が訊ねてきた。  近悳が、一瞬怪訝そうな顔をすると、 「大東流じゃ」  容保が言った。 「はい」 「御式内は?」 「まだでござります」 「まだ?」 「はい」 「では、誰《だれ》にも?」 「はい」 「おまえの弟子の中に、なかなかできる者がいたはずだ。確か——」 「志田貞二郎と、武田惣吉のことでしょう」  志田貞二郎は、志田四郎の父で、大東流を学んでいる。武田惣吉は、武田惣角の父で、同様に大東流を学んでいる。相撲では大関までいった大漢である。 「そうだ。あのふたりはどうなのだ」 「あれは、大東流の中でも特別のものでござります。誰《だれ》でも学べるものではござりませぬ」 「では、誰もおらぬか」 「いないことはござりませぬが——」 「誰じゃ」 「武田惣吉の子の惣角という者です」 「武田惣角?」 「天分がござります。御式内には、この天分が欠かせませぬ」 「ほう」 「大東流に限らず、柔術や剣術は、誰でも、修行すれば、その才と修行に応じて強くなることができます。しかし、御式内だけは別でござります」 「どう別なのじゃ」 「人によっては、学べません。学べば却って弱くなってしまう者もおります」 「その武田惣角ならよいと申すか」 「はい。しかし——」 「しかし、何なのじゃ」 「まだ、子供にござります」 「だが、子供の頃から、修行させた方が覚えは早いであろう」 「仰せの通りにござります。そう思いまして、なぐさみに真似事程度に教えたことがあるのですが。その才、天分、この近悳を凌ぐものがござりました」 「何故、教えなんだ」 「いずれ養子に迎えて御式内をと思うておりましたが、時勢これなく、この戦となり、それどころではなくなってしまいました」  この戦——戊辰戦争のことである。  そもそも大東流を会津の地で教えてきたのは、惣吉の父、武田惣右衛門である。しかし、惣右衛門は、この大東流の奥義を、惣吉には伝えなかった。代りにこれを継いだのだが、近悳である。 「では、近悳、おまえが死ねば、そのまま御式内はこの世から——」 「消えてしまうことになりましょう」  近悳が言うと、雨の中で、容保は沈黙した。  やがて—— 「近悳——」  容保が言った。 「はい」 「この戦で、多くのものが消えてゆくことになろう」 「———」 「多くの者が死に、消え、この国は新しいものになってゆく——」 「容保様」  近悳は言った。  ふいをつかれた。  容保の言葉に、である。  まさか、容保がこのようなことを言い出すとは思っていなかった。 「我らは、消えてゆく側のものだ」  容保が言った。  近悳は、言葉を失った。  どう答えてよいかわからない。 「我らが相手をしているのは、薩長や土佐ではない。もっと大きなものだ。その大きなものには、勝てぬ」  そもそも、事の原因は、松平容保が、京都守護職に就任したことにある。  政事総裁職の松平慶永に、ぜひにと頼まれた。将軍後見役の一橋慶喜に、なにとぞと説得された。  松平容保は、純な人間であった。  それを引き受けた。  もともと、近悳は、それに反対をした。  時勢が徳川にあるとは思えなかったからだ。そのため、家老職も罷免された。  五年もの間、配所ですごし、鳥羽・伏見の戦いで家老職に復帰したのだ。  いくら、反対していたとはいえ、いったん容保が引き受けたとなれば、容保のために、全力をもって奉公する——それが近悳の生き方であった。  時勢が、はっきり薩長に傾くと、容保に京都守護職を頼んだ松平慶永は、あっという間に討つ者の側に与《くみ》した。  将軍すらも身を引いたあと、会津だけが取り残された。  この時も、近悳は戦に反対をした。  しかし、この痛々しいほどに純な君主は、いったん揚げた旗を下ろすことを、潔しとしなかった。 �それは、生き方として美しくない�  容保には、そのような心があった。  そして、この戦となったのである。 「しかし、勝つために戦をするのではない」  容保はつぶやいた。 「武士という生き方、規範、一種の美のために殉ずるのだ。そのために戦をするのだ」  そう考えたのは、藩主の容保だけではない。藩の多くの者たちが主戦派であり、容保にしても、彼らの意見に従わざるを得なかったところもある。 「しかし、何かが残る」  容保は、自分に言いきかせるように言った。 「はい」  近悳はうなずいた。  吉十郎と会った時にも流さなかった涙が、あやうくこぼれそうになった。 「大東流合気柔術は残るか?」 「残って欲しいと思います」  近悳は答えた。 「何が残るかなあ」  言ってから、 「近悳」  容保は、近悳を見た。 「はい」 「何が残るにしろ、それは人が伝えてゆくものであろう……」  容保は、雨に濡れた顔で、微笑した。 (六)  戊辰戦争のおり、多くの会津藩士の家族が自害して果てたが、西郷頼母近悳の場合も例外ではなかった。  西郷家は、西郷一族二十一名が、その年(一八六八)の八月二十三日、西郷頼母邸で自害した。  近悳には、妻千重子との間に二男五女があったが、次男五郎は早世していた。  嫡男、吉十郎、十一歳。  長女、細布《たえ》子、十六歳。  二女、瀑布《たき》子、十三歳。  三女、田鶴《たづ》子、九歳。  四女、常磐《とわ》子、四歳。  五女、季《すえ》子、二歳。  途中で城に入った吉十郎をのぞく、五人の娘全員がこの時に死んでいる。  五十八歳になる近悳の母律子も、自害。  近悳の妻千重子、近悳の妹|眉寿《みす》子と由布子も自害。  さらに、江戸藩邸よりもどっていた親戚、縁者をふくむ十二名が別室で自害し、合わせて二十一名がこの世を去った。  千重子が、三女田鶴子、四女常磐子、二歳になる五女の季子を刺し、その後、自らの胸を刺して死んだ。  長女の細布子、二女瀑布子、母の律子は自ら生命を断った。  この西郷邸へ、最初に入ったのが、土佐兵であり、海援隊出身の中島信行であるとされる(異説もある)。  中島が、抜刀したまま西郷邸に入った時、屋敷にたちこめていたのは、香の匂いと、むっとするような血の匂いであった。  邸内には、白無垢の死装束に身を包んだ女たちが倒れていた。その中には、幼女や少女の姿もあった。  邸内は、塵ひとつ落ちていないほど、綺麗に掃除がなされ、これが覚悟の死であったことがうかがわれた。  中島は、ほぼ全員の死を確認したが、ただひとり、細い指を微かに動かして、生きている者があった。  若い女である。  抱き起こすと、ほとんど聴きとれぬ声で、 「敵でござりますか、お味方でござりますか……」  と言う。 「安心せよ、味方だ」  中島は、咄嗟に嘘をついた。  女は、ほとんど見えぬ眼を動かし、指先を持ちあげて、畳の上に落ちている懐剣を指差した。 「どうぞ、とどめを……」  やっと、それだけを言った。  中島が懐剣を拾いあげてみれば、柄《つか》に九曜紋がある。  ——西郷頼母の邸であったか。  それではじめて、中島は、自分が入った屋敷が誰の邸であったかを知ったのである。  女が、中島の腕の中で、手を合わせた。  中島は、右手に握った懐剣で、女の喉を突き、とどめをさしてから立ちあがり、手を合わせた。  この中島がとどめをさした女が、近悳の長女、十六歳の細布子であった。  後に、近悳は、この話を人から聴き、『栖雲記』の中に記している。 [#ここから1字下げ]  ……齢十七、八なる女子の嬋娟《せんけん》たるが、いまだ死なずありて起かへりたれど、その目は見えず有けんかし。声かすかに、味方か敵かと問ふにぞ、わざと味方と答へしかば、身をかい探り懐剣を出せしは、これをもて命をとめてよとの事なるべけれど、見るに忍びねば、そのまま首をはねて出る…… [#ここで字下げ終わり]  近悳の慟哭が聴こえてきそうな記述である。 [#ここから1字下げ]  手をとりてともに行《ゆか》なばまよはじよ  いざたどらまし死出の山みち [#ここで字下げ終わり]  長女細布子と次女瀑布子が、二人で作った辞世の句である。  瀑布子が上の句を読み、細布子が、下の句を読んだ。 (七)  大東流は清和天皇第六皇子、貞純親王に発する源家古伝の武術であるという。新羅三郎義光(源義家の弟)より、甲斐源氏武田家に伝わった。新羅三郎は、幼時、近江の大東に居館があり、館の三郎または大東三郎と称したのが大東の称の出所であるという。  天正十年の武田家滅亡より以前の天正二年に、一族の武田国次は会津に行って芦名家の地頭になり、三浦平八郎盛重と改名していたが、武田家滅亡後は旧名にもどって、爾来、会津の領主となった蒲生氏郷・加藤嘉明・その子加藤明成・保科正之に順次仕え、合気の術として教えていた。  一説——武田家の遺臣大東久之助が、この伝を継承して会津に隠れ、以後、大東流として会津藩に伝統し、藩の御留め業《わざ》として、五百石以上の上士《じょうし》か、奥女中・側近だけに密かに伝えられたといい、あるいは、武田家の馬場美濃守信房の影武者だった相木森之助以前は相気の術と称したとか、大東流はもと御式内と称されていたとか、いろいろ説かれている。 [#地から2字上げ]——『武芸流派大事典』 (八)  泣かない子供だった。  明治五年、七歳の時に、父親の志田貞二郎が死んだ。  その時も泣かなかった。  貞二郎は、三十八歳で死んだ。死ぬには早い歳である。  戊辰戦争で生き残りはしたものの、その後の幽閉生活で身体を壊した。自由になってから、武士をやめて百姓となった。その慣れぬ仕事が祟《たた》ったのであろう。  志田四郎は、貞二郎の四番目の子供ということになっている。  貞二郎が死んだ時、姉りつは一五歳。長兄駒之助は一四歳。次兄三郎は一〇歳であった。  その子供たちは皆泣いたが、四郎だけは泣かなかった。  七歳ながら、死が、どういうものであるかはわかっていた。  会津の人間は、戊辰戦争後は、子供であろうと死については、自然に理解している。  貞二郎の棺を葬式の間中、睨むように見つめていた。最後の別れで、その死に顔を見た時も、眼を開いて、貞二郎の顔を睨んでいた。  可愛くない子供であった。  同年代の子供たちと遊ぶことは少なかった。  たまに遊ぶと、必ず着物の袖を引き千切って帰ってくる。  どうしたのか、と母親のさたが問うても答えない。  そのうちに、原因がわかる。  仲間の子供と喧嘩になったのである。  遊び仲間の親が、四郎の家まで怒鳴り込んでくるからだ。  相手の子供は、子供の喧嘩とは思えぬ怪我をしている。  歯が折れたり、眼の周囲に痣《あざ》を作ったり、時には鼻が潰れていたりする。  まだ生きていた頃、貞二郎はそれを知って、 「おそろしい子じゃ」  そう言った。  闇雲に手を振り回わす喧嘩なら、相手はそういう怪我をしない。  相手の顔を、正確に打っているからこその怪我であった。  喧嘩になった理由を尋ねても、四郎は何も言わなかった。  親に問われても、時には叩かれても、四郎は何も語らなかった。相手にも謝らない。謝るのはいつも母のさたであった。 「おまえという子は——」  さたが泣いても、四郎は泣かなかった。 「鬼の子じゃ」  近所の家からは、そう呼ばれたこともあった。  何度かそういうことがあるうちに、相手側から、喧嘩の原因がおぼろげに見えてくる。  四郎には、どうやら遊びと本気の境目がないらしい。  たとえば、木の枝を刀に見たて、遊びの斬りあいをする。  たとえば、相撲をとる。  そういう時に、四郎は、はじめから本気になる。  木の枝で、全力で打つ。  相手を、投げる。  相手が怒って向かってくれば、顔を拳で打つ。  どうもそういうことらしい。 「血は争えぬ」  貞二郎は、さたの前で、四郎についてそうつぶやいたこともある。  当時、志田家が暮らしていたのは、越後国蒲原郡角嶋村であった。現在の新潟県東蒲原郡阿賀町である。  会津藩の人間の多くが、下北半島の斗南に移住した時、志田家は近くに残って津川に移住したのである。  貞二郎が死んだ翌年、明治六年——  津川に、小学校が開設された。  場所は、新善光寺宝善院の仮校舎である。  志田四郎、八歳——  ここで、四郎は、歳上の子供たちとも、喧嘩とも、闘いともつかぬ争いをすることになった。  下級生に、志田という妙な人間がいることがわかると、上級生が四郎を試しにやってくる。  相手は、一〇歳、十一歳である。  父親から、柔術を学んでいる者もいる。  この時期の、三歳の歳の差は圧倒的だ。  時には、四郎が負けることもある。  しかし、四郎は、負けたと言わなかった。  負ければ、翌日に、また闘いを挑む。  また負ける。  すると、その翌日に、また四郎がやってきて闘いを挑む。  どれほど痛めつけても、四郎はやってきた。  歯が折れ、鼻が潰されても、その恐ろしい形相でやってくる。  ついには、相手が怖くなって、心が折れる。 「もう、許してくれ」  相手がそう言い出すのである。  九歳の時には、上級生に、腕を折られた。  その腕が、まだ治らぬうちに、四郎はその上級生のところへやってきて、勝負をせがんだ。  勝つ、負ける——そういうことに、四郎は異常な執着を見せた。  家の者も、四郎のそういう癖《へき》には、うんざりするほどであった。  その四郎を、庇《かば》ってくれたのが、隣家の湯浅八重《ゆあさやえ》であった。  顔に傷を作り、汚れた姿で帰ってくる四郎を見つけると、まず自分の家に呼んで、傷を診てやり、姿を整え、帰す。  夫と、ちょうど四郎と同じ歳の子供を、戦争でなくしていた。後に、東京へ出た四郎が、講道館へ八重を訪ね、ここで治五郎と出会っている。言うなれば、四郎の恩人である。  明治九年——  新校舎ができて、生徒も教師も、そちらへ移った。  志田四郎十一歳——  生徒は、男子百四十五名、女子五十一名。  すでに、本気にせよ、遊びにせよ、四郎に闘いを挑んで来るような者はいなくなっていた。  その年の五月——  朝、学校へ出かけてゆくと、いつもと教師たちの雰囲気が違っていた。  教師たちは、いずれも緊張し、ざわついていた。 「都々古別《つつこわけ》神社の神主さんが来るそうじゃ」  どこからか、話を聴き込んできたわけ知りの佐藤与四郎が、わざわざ四郎の教室までやってきて、そう言った。  あれか——  と、四郎は思った。  あれ——というのは、今朝の志田家でのことである。  家の者たちが、妙にそわそわしていたのである。 「都々古別から、近悳さまがおいでになられるそうじゃ」  そういう話をしていた。 「小学校にも顔を出すそうじゃ」 「ならば、四郎にはもそっとよいものを着せておけ」  祖父の耕作に言われ、母のさたが用意した、新しい着物を四郎は着ていた。  西郷頼母近悳——  旧会津藩の家老であった人物だ。  この時、西郷姓から保科姓となっていた。  戦にはもともと反対をしていたが、戦となった時には大きな働きをした。  今は、都々古別で、神社の宮司をしている。  与四郎は、四郎にそう語った。  与四郎は、四郎よりも一歳年上である。  ——それくらいのことなら自分も知っている。  四郎はそう思ったが、口には出さなかった。 (九)  四郎は、草の上に寝ころんで、瀬音を聴いていた。  河原——  ちょうど、津川町で、阿賀野川と常浪《とこなみ》川が合流し、その合流点に巨大な岩塊がそびえている。  標高一九五メートルの麒麟山である。  目を開けば、草の間からその麒麟山が見える。  津川は、河川港として栄えた町だ。  大正三年に磐越西《ばんえつさい》線が開通し、その後水運の機能を失って衰えたが、四郎が暮らしたこの時期、津川はまだ河川港として健在であった。  父貞二郎の死後、四郎の兄駒之助は、船大工となるべく修業中であった。津川の近在には、大小合わせて二百隻以上の川船があり、船大工の需要もあったのである。  四郎は、河原のその場所から、麒麟山を背景にして川と船を眺めるのが好きであった。  五月も終ろうとしている頃だ。  梅雨にはまだ間があり、草の中に身を沈めていると、濃い草の匂いが鼻から入り込んでくる。  四郎は、草の中で、朝のことを思い出していた。  朝、校庭に生徒が集められた。  朝礼台の上に校長が立ち、その横に、ひとりの男が立った。  こぢんまりとした、小さな男だった。  校長よりも、頭ひとつ小さい。  その男が、西郷頼母近悳だった。  その小さな男の横で、謹厳愚直な校長が、いつにも増して硬くなって挨拶をした。  その時の校長の挨拶はもう忘れてしまったが、ただ静かにそこに立っているだけの近悳の姿の方が四郎の印象に残っている。  四郎には、むしろ、近悳はそんな場所に立たされて、困っているように見えた。  近悳も、短い挨拶をしたが、四郎が覚えているのは、その短さくらいであった。  小さな近悳の、静かなたたずまいが、まだ不思議に四郎の脳裏に残っている。  その時の、近悳の姿を、四郎は思い出していた。  と——  四郎は、その時、音を聴いた。  はじめ、四郎は、それを風の音かと思った。  風が吹いて、静かに草を鳴らす——そんな音であった。  風の音ではなかった。  その音が、ゆっくりと近づいてきたからだ。  誰かが、草を踏みながら、ゆるゆると近づいてくる——その音である。  着ているものの裾が、さわさわと草に触れてゆく音。  こんな風のような歩き方が、人にできるのか——  風が止まった。  四郎は、顔をあげた。  草の中に、男が立っていた。  朝、朝礼台の上に見たあの、西郷頼母近悳である。 「なかなか、聡《さと》いのだな、きみは——」  近悳は言った。  その顔が、静かに微笑している。  四郎は、近悳を見ながら上体を起こした。  どうして、近悳がここにいるのかわからない。 「偶然ではないよ。きみがここにいるのではないかと聴いてね、それでやってきたのだよ」  近悳は微笑した。 「志田四郎くんだろう?」 「はい」  四郎は、草の上に立ちあがった。  近悳と、正面から向きあった。  自分と、丈があまりかわらない。  わずかに近悳の方が高いかもしれない。 「おもしろい子供がいると、校長先生から聴いてね、ぜひ、会いたいと思っていたのだ」  近悳は言った。  しかし、それが、どういうことか。四郎にはわからない。 「きみの知り合いの、佐藤与四郎くんが、きみがたぶんここにいるだろうと教えてくれたんだ」  与四郎は、数少ない四郎の友人であった。  この六年後、四郎は、佐藤与四郎と一緒に、東京へ出ることになる。  四郎は、もの怖じしない眼で、近悳を見つめている。  四郎の方に、まだ、語るべき言葉はない。  何をどう、この近悳に語ればいいのかわからない。 「きみは、強いらしいな」  ふいに、近悳は、思いがけない言葉を口にした。 「どうだね、ちょっとおもしろい遊びをしてみないか」 「遊び?」 「こよりを使ってやる遊びだよ」  こより?  紙を、細く裂いて、それをよって作るあのこよりのことだろうか。 「しかし、今、ここにこよりはないから……」  言いながら、近悳は周囲を見回した。 「ああ、これでいい」  近悳は、身をかがめ、細長い草の一本をちぎって手に取った。 「これでやろう」  近悳は、右手の、人差し指と親指で、その一方の端をつまんだ。 「そちらの端を持ってごらん」  近悳が、持った草の葉を差し出してきた。 「さあ」  うながされて、意味もわからず、四郎はその一方の端を、右手で握った。 「それを、放したらいけないよ」 「放す?」 「放したら負け——そういう遊びだ」  何を言っているのだろう、この人物は。  四郎には、まだ、近悳の言う遊びがどういうものかわからない。 「あとは——そうだな。足の裏以外の場所が地面についたら負けだ」 「相撲ですか」 「そうだ、相撲だ。この草の端を握りあったままで、相撲を取るということだな」 「———」 「それだけじゃあ、きみに分が悪い。そうだな。相撲の最中に、この草が、両方が手に持ったまま切れてしまったら、わたしの負けということにしようか」  近悳はそう言った。  それでも、まだ、四郎は、これから何が始まるのかわからない。 「さあ、いいよ」  いいと言われても、どうするのか。  このまま組みにいけばいいのか。  しかし、この、右手で握った草をどうしていいのかわからない。 「では、最初は、わたしの方から行こうか」  つん、  つん、  と、四郎が右手に握った草が引かれた。 「そうだ、草を放さないように」  くいっ  と、草が引かれた。  手からはずれないように、力をこめる。  近悳が、すうっ、と前に出た。  その瞬間——  四郎の天地がひっくり返っていた。  四郎は、仰向けに、草の中に倒れていた。  何がおこったのか。  投げられたのか。  しかし、近悳が、自分の身体に一度も触れていないのはわかっている。  しかし、自分は倒された。  投げられたのだ。 「放したね」  近悳が、上から四郎を見下ろしている。  その右手に、草が握られていた。  四郎は、草を放していた。  四郎は、起きあがった。 「もう一度」  近悳が、草を差し出してくる。  その端を四郎が握る。 「今度は、放さないように——」  また、軽く草が引かれた。  強く握る。 「行くよ」  声が聴こえたその瞬間、さっきと同じことがおこっていた。  四郎は、草の中に仰向けに倒れていた。  今度は、すぐ上から、近悳の顔が見下ろしている。 「今度は、放さなかったね」  近悳は笑った。  何がおこったのか。  わからない。  投げとばされたのだとはわかるが、今度もまた、近悳は自分の身体に触れていない。  たまらない好奇心が湧いた。 「もう一度」  自分でそう言って、四郎は起きあがった。  今度は、自分から草を引いた。  草を引くことで、草を切らずに、どうやって相手を投げるのか。  引いた時——  また、四郎は投げられていた。 (十)  どうやっても、駄目であった。  どうやっても、投げられてしまう。  相手の方が歳上とは言っても、身長はいくらも変わらないのだ。  くやしい。  もう、相手を投げようとは思わなかった。  草が切れたら自分の負けでいいと、近悳は言った。ならば、投げるまでもない。いきなり草を強く引いて、切ってしまえばいい。  四郎はそう考えた。 「やっ」  おもいきり引いた。  しかし、それでも投げられた。  力を込めた分、それだけ強く草の上に転がされていた。  まるで、魔法であった。  人間ではないものが使う、怪《あや》しの術にかけられてしまったようだった。  四郎は、膝を突き、草の中から近悳を見あげた。 「これは、合気というんだ」  近悳は、微笑した。 「合気!?」 「相手の気に合わせるのだ」 「気?」  気と言われても、四郎には何のことかわからない。 「きみがね、何かをしようとすると、まず身体より先に、この気が動くのだ」 「———」 「今、きみが立ちあがろうとする時、まず最初に、立ちあがろうという気持ちが心の中に生まれる。心が動き——つまり、気持ちが先に動いてから、次に身体が動く。合気というのは、まず、その心や気持ちの働き——つまり相手の気にこちらの気を合わせることなのさ——」  四郎は、うなずかない。  近悳が、何を言っているかわからないからだ。 「だから、わたしは、きみが動くのより先に、きみの動きがわかるのさ。だから、きみを崩して、投げることができるのだよ」 「———」 「これは、魔法などではないよ。誰でも、鍛錬すれば、身につけることができるのだ」 「ぼくも?」 「もちろん、きみもだ」 「———」 「普通の人にとっては、ほとんど同時に見える。どっちが先かなんてわからない。また、どちらでもいいことだ。本人でも意識していないことが多い。右足を出して、左足を出して、一緒に手を振って——などと考えて歩いてる人はいないしね」 「———」 「しかし、時には、それがわかるかわからないかが、人の生死を分けることもあるのだ」  近悳がそう言っている間に、四郎は立ちあがった。 「どうした」  四郎は、右手を差し出し、 「もう一度」  そう言った。 「いいよ」  近悳は、また、一本の草をちぎり取り、一方の端をつまんで、もう一方の端を四郎に向かって差し出した。  草の端をつまみながら、四郎はそのままごろりと草の中に仰向けになった。四郎が、上に向かって持ちあげた手に握っている草の一方の端を、立っている近悳が握っている。 「これでは投げられないな」  近悳は言った。 「しかし、約束は、足の裏以外のところが地面に付いたら負けだったはずだ」  言われて、 「あ」  と、四郎は声をあげた。  確かにその通りだった。  投げられないことばかりに気を遣っていて、その初めの約束を忘れてしまっていたのである。  起きあがろうとした四郎を、 「そのままでいい」  近悳が止めた。 「きみのその工夫は凄いよ。今のその姿勢なら、わたしはもうどうやってもきみを投げることはできないよ。だから、もし、投げられたくなかったら、立っている時に、身体を今のきみの姿勢と同じ状態にすればいいのさ」  その言葉を耳にした時——  四郎の身体の中心を、何か、太いものが疾りぬけていた。  そうか。  そういう考え方があるのか。  肉体の中で、天と地が入れかわったような衝撃があった。  これまで、思ってもみなかったこと。考えてもみなかったこと。  人と人とが闘うということは、力を強くすることだと思っていた。闘って勝つには、強い力を持つことだと。  そして、気持ちだ。  絶対に負けないという気持ち。  負けない——その気持ちが自分の肉や骨と同化しているかどうか。その気持ちが強い方が勝つ。そういうものだと思っていた。たとえ、相手が柔術だの相撲だのをやっていたところで、その気持ちがなければどうしようもない。  しかし——  近悳の言葉を耳にしたその時、これまであると思ってもみなかった扉が、四郎の肉の中で開いたのである。  立っていながら、自分の肉体を倒れているのと同じ状態に保つ。  そのためには、具体的にどうすればよいのかはわからない。わからないが、そのように考える、そのように発想する——そういうことが、人と人との闘いの機微の中にはあるのだということに、四郎は驚き、感動したのである。  おもしろい——  四郎は立ちあがった。 「どうしたのだね」  近悳は、四郎に言った。 「どうして、嬉しそうにきみは笑っているんだい」  笑っている!?  この自分が!?  笑わない子供であった。  いつも、唇をきつく結んで宙を睨んでいるような子供だった。  四郎に因縁をつけてくる悪童たちは、いつも、その四郎の顔つきをタネにすることが多かった。 「不思議な子だなあ」  近悳も、嬉しそうに言った。 「きみで、ふたり目だよ」 「ふたりめ?」 「この、こより[#「こより」に傍点]の遊びは、時々やるんだよ」 「こよりって——」 「ああ。いつもは、草じゃなくて、こよりで同じことをやるんだ」 「———」 「もう、八年も前にね、このこよりの遊びをやった子がいるんだが、その子も、今のきみみたいに、他の子と違うことをしてきたんだよ——」 「誰ですか?」 「きみは、知らないと思うが、武田惣角という子だ」  近悳は言った。 (十一)  それから、近悳は、二月《ふたつき》に一度くらい、津川にやってくるようになった。  学校に顔を出す時もあれば、志田家に直接足を運んでくることもあった。  志田の家にやってくる時は、家中が磨きたてられ、家の者たちは、いつも着ない服を着る。  最初は、四郎は、何故家の者がそんなになるのかわからなかった。  しかし、一年もしないうちに、近悳がどういう人物であるか、四郎もわかるようになった。  保科近悳——もとは西郷頼母近悳と名のっており、会津藩の家老職にあった。 「お殿様の次に偉いお方」  であるという言い方をしたのは、湯浅八重であった。  近悳が、藩主松平容保の京都守護職就任に反対したことは、すでに記した。  それで、家老職を罷免され、四年間「栖雲亭」に隠栖《いんせい》したが、会津戦争では白河口総督として西軍と戦っている。  会津藩全体としては、徹底抗戦が主流であったが、近悳が主張したのはこの時も�和議恭順�であった。近悳の主張はむろん聴き入れられず、ついに新政府軍は若松城下に侵攻し、この時、西郷一族二十一人が屋敷内で自刃している。  近悳は、若松城下を、一子吉十郎|有隣《ありちか》と脱出し、榎本軍団に加わって、箱館戦争を闘い、これに破れたが吉十郎と共に生き残った。  ここで、近悳は、西郷姓から保科姓に改姓した。  館林で六カ月間幽閉され、その後、近悳は東京に出る。  この東京で、近悳は�雲井龍雄事件�に巻き込まれてしまうのである。この時、実弟であった山田陽次郎は捕えられ、獄中でその生涯を終えている。  近悳は、捕縛の手を逃れ、伊豆松崎に入り、私塾謹申学舎塾長となるも、明治八年八月、福島県棚倉にある都々古別《つつこわけ》神社の宮司となった。  これでようやく近悳は、故郷や、かつての知人たちの家を、身を隠すことなく訪ねることができるようになったのである。  近悳が、四郎の前に姿を現わしたのは、こういう時期のことであった。  四郎は、十一歳。  周囲に無数にいる会津戊辰戦争の生き残りの人々が語る戦《いくさ》の話や、多くの者が自刃した話を、すでに理解できる歳であった。  だから、四郎は、家の者たちが、近悳に対して気を遣うのは理解できた。しかし、理解できなかったのは、「殿様の次に偉い」ような人物が、何故、自分たちのような者の家を訪ねてくるのか——ということであった。  近悳が来る度に、四郎は、こよりの遊びをやった。  一年もたたないうちに、四郎は、こよりの捌《さば》きだけでは投げられなくなった。投げられる前に、こよりが切れてしまうのである。  これを、近悳はひどく悦んだ。 「では、次からは、残っている手や足を、相手の身体にかけてもいいということにしようか——」  そういうことになった。  たちまち、また四郎は近悳に投げとばされるようになった。  近悳は、やってくれば、二日か三日、四郎の相手をしてゆく。  来ない間は、四郎は自分で色々と工夫した。  その工夫を試したくて、近悳がやってくるのが待ち遠しかった。  二年目になって、 「こよりの遊びは、これくらいにしておこう——」  近悳は言った。  近悳は、外に四郎を連れ出した。  初めて出会った、あの麒麟山の見える草原まで一緒に行った。 「今度は、こよりなしで、わたしを投げてごらん」  近悳は、黙って、そこに立った。  四郎は、もちろん、柔術のことは知っている。投げる、ということがどういうことかもわかっている。  立っている近悳の襟を掴んだ。 「しゃあっ」  投げようとした。  近悳は、びくともしない。 「たあっ」  声をかけて、足を掛ける。  腰を落として投げようとする。  近悳は、動かない。 「どうした」  近悳が言う。  しかし、四郎が、どう攻撃しても、近悳は動かない。 「前に、きみがこの場所でやったことがあったな」  襟を掴んで、さかんに近悳を投げようとしている四郎に言った。 「あれと同じさ。立ってはいるが、今、わたしはあの時のきみと一緒で、寝ているようなものなのだ」  近悳の、手応えがない。  技を掛けようとすればするほど、近悳は空気のようになってゆく。空気のように、軽いくせに、持ちあがらない。動かない。 「では、わたしからいくよ」  近悳が言った途端、四郎の身体は、ふわりと宙に浮きあがり、背から地面に転がされていた。  あの、草の葉でやったこより遊びの時と同じだった。自分が、どうやって、どのように投げられたのかがわからないのだ。 「もう一度——」  起きあがり、四郎は、また近悳に組みついていった。  同じだった。  また、投げられていた。  立った時に、 「そうか」  ふいに、理解していた。  今、自分が掴んだ近悳の襟というのは、実は、こよりと同じ意味を持つものだったのだ。  襟を掴んだのは自分だが、それを着ている近悳は、手を使わずとも、こよりの一方の端を握っているのと同じ状態なのである。  違っているのは、ただひとつ、このこより——襟は切れることがないということだ。  その日一日、四郎は近悳に投げられ続けた。  近悳は、肩をわずかに上下させたり、身を開いて半身になったりするだけなのだが、その度に、四郎の身体が宙に舞うのである。  ほとんど体捌《たいさば》きだけで、四郎を投げているのである。  近悳が帰ってからも、四郎はあの草原に足を運んだ。  そこで、自身が近悳となって、あの時近悳がやった体捌きの真似をするのである。  自分が、技を掛けようと襟を掴んでくる——それを、近悳であるもうひとりの自分が受ける。  そして、投げる。  それを何日も繰り返した。  それを眺めていた近所の悪童たちが、草原で四郎を囲んだ。  このところ、四郎はすっかり大人しくなっている。  彼らはそう思っていた。  そのうちに、四郎が、河原の草原で奇妙なことを始めた。  それを、彼らは見物にきたのである。 「おい、四郎、何をやっているのだ」  彼らのひとりが訊いてくる。  四郎は、黙っていた。  黙々と、同じ動作を繰り返している。  彼らに、自分のやっていることを説明できない。  自分でも、実のところ、何をやっているのか、正確にわかっているわけではないのだ。  これまで、近悳とやってきたことを、細かく説明したところで、彼らに理解できるとは思えなかった。  どう答えたらいいのか、それを考えるのもわずらわしかった。  黙るしかなかった。 「おれたちのことを馬鹿にしてるのか」  彼らは、四郎を囲んだ。  全部で、五人。  四郎が十二歳。  彼らの中には、十四歳の少年も混ざっている。 「おい、何とか言え」  ひとりが、四郎の襟を掴んできた。  四郎は、身を引きながら、体を入れ替えた。 「わあっ」  それだけで、その少年はもんどりうって草の中に転がった。 「できた——」  四郎は、声に出していた。  近悳がやったことが、自分にもできたのだ。  こうか。  どうだったか。  こんな感じだったか。  四郎は、興奮している。 「こいつ」 「やってしまえ」  少年たちが、四郎に掴みかかってきた。 「ふん」 「くむ」  四郎が、どこかを掴まれるたびに、自分の身体を入れかえて、小さく身をひねる。  そのたびに、少年たちが地に転がってゆく。  近悳ほどわずかな動きでこそないが、相手のどこも掴まず、足も掛けずに、むかってくる少年たちを投げ飛ばす。  ついに、十四歳の、一番大柄な少年が残った。  その少年は、声をあげ、両手を振り回わしながら四郎にかかってきた。  四郎の身体に触れるのと同時に、その少年の身体は、大きく宙に飛んでいた。  四郎自身は、どれほども力を入れてない。  相手が勝手に宙に跳んだように思えた。  頭から草の中に飛び込んだ。  四郎に突きかかってきたその分だけ、勢いがついていたのである。 �これかっ!�  四郎は心の中で声をあげていた。  近悳がやっていたのは、これだったのか。  四郎の肉の中から、歓喜が噴き上げた。  できた。  自分にも。  草の中から、今、四郎に投げ飛ばされたばかりの少年が起きあがってきた。  その顔が、血まみれだった。  草の中に隠れていた岩か石に、顔面がぶつかったのであろう。  自分の両手で、顔を押さえ、その手が血だらけになったのを見て、少年は激しく泣き出していた。 (十二)  ひと月後に、近悳がやってきた。  四郎の家である。  近悳を中へあげ、祖父の耕作が客間で話をした。  父の貞二郎は、五年前、三十八歳の若さでこの世を去っている。  志田家の主、祖父の耕作は、この時六十五歳。  近悳は四十八歳。  ほどなく、四郎は客間へ呼ばれた。 「近悳様が、おまえに話があるそうじゃ」  そう言って、耕作は立ちあがり、その場を辞した。  四郎は、近悳とふたりきりで、向かい合った。  四郎は、畳の上に正座して、両手を膝の上に置き、神妙な顔つきで、近悳の言葉を待っていた。 「近所の子供を投げて、怪我をさせたそうだな」  近悳の声は、低く、底にこもっていた。  何故、近悳は、そのことを知っているのか。  祖父の耕作が話したのであろうか。  そうに違いない。  顔面から血を流した少年は、近所の家の長男であった。  子供どうしのこととはいえ、顔に傷をつけてしまったとあっては、家の者も放ってはおけない。四郎の母親であるさた[#「さた」に傍点]と、祖父の耕作が謝りに行った。  顔面から流れ出た血の量が多かったわりには、傷が浅かったのが幸いして、それで事はうまく収まった。  それで、もう、四郎は済んでいると思っていたのだ。  それを、わざわざ耕作は近悳に言ってしまったらしい。  言うのなら、四郎は、自分で近悳に言いたかった。  近悳のやっていたことが、自分にもできるようになったのだと。  しかし、その言葉は、四郎が口にする前に、近悳の口から発っせられてしまったのである。  四郎は、自分が、近悳から叱られるのかと思った。  しかし、どうも、それだけではない様子が近悳から見てとれた。 「おまえは、強くなっている」  近悳は言った。 「何も知らない者が相手なら、そこらのどんな大人よりも、おまえは強いのだ」 �はい�  とはうなずけなかった。  しかし、どう答えたらよいのか、他の言葉も思いつかなかった。  近悳の言うにまかせた。 「それだけのものを、わたしはおまえにすでに教えたのだ」 「———」 「いよいよ、おまえに、あるものを教える時期が来たのではないかと思っている」  淡々として、近悳は言った。 「それは、何でしょう」 「御式内《おしきうち》じゃ」  近悳は言った。 (十三)  西郷頼母近悳——文政十三年(一八三〇)の三月二十四日に、会津藩二十三万石の家老西郷頼母|近思《ちかもと》の嫡男として生まれている。  この会津西郷家の元をたどれば、遠く九州は熊本の菊池一族にゆきあたる。  ここから出た血のひとつの流れが、肥前国高来郡西郷に居城を構え、さらに諫早《いさはや》にまで進出した。これが、天正年間に至り、豊臣秀吉の島津攻略の命に従わなかったため、竜造寺によって攻め滅ぼされた。  この時に、一族は九州一円に散って、そのうちのひとつの流れから、やがて西郷隆盛という人物を生み落とすに至ることになる。  会津西郷は、諫早西郷と同じ頃に、三河各地に台頭した西郷氏族から流れ出た血筋である。享徳年間に、西郷弾正左衛門|稠頼《つぎより》が岡崎城を築くが、徳川家康を生んだ松平一族の進出によって、土地を追われ、この分流が会津西郷となったのである。  会津西郷は、戊辰戦争のおり、一族二十一人が自刃している。  この戦で近悳は息子である吉十郎|有隣《ありちか》と共に城外に脱出し、仙台を経て榎本軍団に加わって、箱館戦争を闘っている。  ここで語っておかねばならないことがある。  それは、近悳の姓についてだ。  会津西郷家の初代は、名を保科正近といった。後に会津松平の藩祖となった信州|高遠《たかとお》藩主保科家の一族である。この保科家が、三代近房の時に、会津藩のお家騒動にからんで西郷姓となった。  この西郷姓が、初代の保科姓にもどったのは箱館戦争の後である。  この明治二年十月に、近悳は十八歳年下の伊与田きみという女性を後妻としてむかえている。  箱館戦争での自訴降伏後、館林で六カ月間の幽閉生活を送った後、近悳は東京へ出る。ここで近悳は雲井龍雄事件に遭遇し、実弟の山田陽次郎は捕縛されて獄死。  近悳は逃れて伊豆松崎の私塾謹申学舎塾長となった。  そして、明治八年八月、福島県棚倉の都々古別《つつこわけ》神社の宮司となったのである。  子供の四郎が、近悳と津川で出会ったのは、この翌年の明治九年である。  明治十二年「西郷隆盛が謀反に組せし疑」で、近悳は都々古別神社の仕事も諭旨免官となった。不幸はさらに続き、この年の八月九日に、共に戊辰戦争を生きぬいた長男の吉十郎が二十二歳で病没。  そして、明治十三年に、日光東照宮|禰宜《ねぎ》に就任する。この時、宮司として赴任してきたのが、かつての藩主松平|容保《かたもり》であった。  ここで、近悳は七年余の神官生活を過すことになる。  四郎が、近悳の養子となって、保科四郎となったのは、明治十七年のことだ。  四郎が講道館に入門して二年後——四郎が十九歳の時である。  どういういきさつがあって、どちらが言い出し、四郎の志田姓が保科姓となったかは明らかでないが、もちろんこの話を最初にもちかけたのは近悳からであったろう。  保科姓も西郷姓も、会津藩においては名門中の名門であり、当時の社会の通念から考えて、志田家とは家格が違いすぎ、志田家からこの養子縁組の話が出たとは考えにくい。  ここに、四郎が、津川の家族に東京より宛てた手紙がある。 [#ここから1字下げ]  | 前 々 申 上 候 陳 《さきざきもうしあげそうろうのぶれ》ば此《こ》の|度深川町之佐藤氏 隔 京 致 候 《たびふかがわまちのさとうしかくきょういたしそうろう》に付《つ》き|御 書 面 拝 見 仕 候《ごしょめんはいけんつかまつりそうろう》、| 愈 御健康《いよいよごけんこう》の| 由 奉 南 山 候 《よしなんざんたてまつりそうろう》 次《つぎ》に迂生《うせい》に於《おい》ても|無 恙 消 光 罷 在 候 間 乍 憚 御 休 神 被 下 度 候《つつがなくしょうこうまかりありそうろうあいだはばかりながらごきゅうしんくだされたくそうろう》  陳《のぶれ》ば亦毎月入費及三円五十銭《またまいつきにゅうひにおよぶさんえんごじっせん》の儀《ぎ》は送籍《そうせき》の上御依頼被下様御申越《うえごいらいくださるようおもうしこし》に相成候《あいなりそうら》へ共然《どもしか》し餘《あま》り日数《にっすう》も掛《かか》り| 候 間 《そうろうあいだ》、|送籍 無 之 候《そうせきこれなくそうろう》ても御依頼被下度候《ごいらいくだされたくそうろう》、如何《いかん》となれば先日日光《せんじつにっこう》よりの別紙《べっし》の書状達《しょじょうたっ》し| 候 間 決 《そうろうあいだけっ》して苦《くるし》からず| 候 間 御依頼被下度候《そうろうあいだごいらいくだされたくそうろう》 然《しか》して送籍《そうせき》の儀《ぎ》は左程御急《さほどおいそ》ぎ無之候《これなくそうらい》ても|宜敷 候 間 日光《よろしくそうろうあいだにっこう》より申迄御置《もうすまでおんお》きに|相成 候 様《あいなりそうろうよう》が宜敷《よろしき》かと| 存 候 《ぞんじそうろう》、此《こ》れも一策《いっさく》に| 候 又御家内様《そうろうまたごかないさま》より此書面達《このしょめんたっ》す次第一円丈御送《しだいいちえんだけおおく》り|下 度 候《くだされたくそうろう》 [#ここで字下げ終わり] [#地から4字上げ]早々 [#地から7字上げ]四郎   九月廿三日  御家内様  この四郎の手紙に、日光から出されたと思われる保科近悳から四郎に宛てられた手紙の写しが添えられている。  次のようなものだ。 [#ここから1字下げ]  此《こ》の間《あいだ》は始《はじ》めての来翰面会《らいかんめんかい》の心地《ここち》にて両人打《りょうにんうち》より| 悦 入 候 《よろこびいりそうろう》、弥御無事勤学一段之事《いやごぶじにてきんがくいちだんのこと》に候《そうろう》、|手前無事御安意可賜 候 《てまえぶじにてごあんいたまわるべくそうろう》、|其内出 京致 候 事《そのうちしゅっきょういたしそうろうこと》も|可有之 候 間 一同撮影《あるべくこれそうろうあいだいちどうさつえい》も可致《いたすべし》と|存居 候 《ぞんじおりそうろう》、さて今《いま》いまだ送籍《そうせき》は不相済候《あいすまずそうら》へ共《ども》、我方《わがほう》は家族《かぞく》と|心得居 候 間《こころえおりそうろうあいだ》、以来何事《いらいなにごと》にても|用向無遠慮御申越可有之 候 《ようむきえんりょなくおもうしこしあるべくこれそうろう》、且又息災無事《かつまたそくさいぶじ》の節《せつ》は互《たがい》に無沙汰《ぶさた》致し候《そうらい》ても不若只々身体堅固《しかずただただしんたいけんご》に修行出来少《しゅぎょうできすこ》しも早《はや》く|成業 候 儀《せいぎょうそうろうぎ》は何《なに》より楽《たの》しみに|存居 候 《ぞんじおりそうろう》、此状《このじょう》も返書《へんしょ》に及《およば》ず候《そうろう》 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]早々 [#地から4字上げ]近悳   八月二十日   四郎殿  近悳の文面の中に両人とあるのは、妻きみと近悳本人のことであろう。  前後の事情から、明治十六年——つまり、養子縁組の前年の手紙と考えられるが、近悳の文面は細やかな情に溢れている。 �此の間は始めての来翰面会の心地にて両人打より悦入候�  四郎から手紙をもらって、実際に会ったような気持で、自分たちは心から嬉しく思っている——そういう書き出しである。  この二通の手紙から察するに、明治十六年には、すでに四郎と近悳の縁組の話は決まっていたと思われる。 (十四)  話はもどる。  森の中で、四郎は、近悳と向きあっている。  近悳は、そこに座したままだ。  四郎は、そこに立ったまま、攻めあぐねている。  先ほど足からせめてゆき、それを受けてもらえずに、勝負にならなかったのである。  どうしたらよいか。  近悳から攻撃してくれば色々と方法はあるが、このままでは勝負にならない。 「どうした」  近悳が問うてきた。  あの時と同じだ。  あの時——というのは、九年前、御式内を近悳から最初に学んだ時だ。  場所は、初めて近悳と出会ったあの河原だった。  草の上に、今と同様に近悳は座し、 「わたしを倒してみなさい」  そう言った。  投げてもよい。  蹴ってもよい。  打ってもよい。  得物を手にしてもよい。  好きな方法で自分を倒してみなさいと近悳は言ったのである。  できなかった。  投げようとしても投げられず、蹴ろうとしても蹴ることができず、打とうとして打つことができなかった。  得物を持って打ちかかっても、それをかわされてしまった。  座しているだけの近悳に、歯がたたなかった。  その時と同じであった。  いや、同じではない——四郎はそう思った。  あれから、一〇年が過ぎている。  治五郎のもとで、四年、柔道を修業しているのだ。  その四年、治五郎のもとで、自分は何を学んだか。  治五郎の顔を思い浮かべた。  治五郎が、四郎の顔を見つめている。  不思議と、気が静まってきた。  心臓の鼓動がゆっくりとなり、呼吸が整ってくる。  四郎が思い浮かべた治五郎は、何も言わない。ただ、四郎を見つめているだけだ。  この治五郎だったらどうするか。  さっき、考えたことを、また思う。  治五郎だったら、逃げ出すのではないか——さっきはそう思った。  しかし、今は少し違った。  相手が、こちらに危害を加えようとしているのではない。  逃げる必要はないのだ。  では、どうするか。  自分もまた、近悳と同様に、座し、御式内で闘えばよいのか。  その答が、四郎にはわかった。  四郎は、静かに腰を落とし、そこに座した。  正座である。 �ほう!?�  近悳が、そういう眼つきになった。  正座して、四郎は、真っ直に近悳を見つめた。  四郎は、地に両手をつき、頭を下げた。 「まいりました」  そう言った。 「まいった?」 「はい」  四郎は、頭を下げたままうなずいた。 「それが、講道館流か——」 「はい」  四郎は答え、顔をあげた。  近悳が、自分を見つめている。 「講道館流の師範の名だが、嘉納さんと言うたか——」 「はい」 「なかなか、おもしろい人物のようだな」  近悳は、微笑している。 「試《ため》し合いは、これでしまいじゃ」  近悳は、浅く浮かせていた腰を落とし、四郎と同じ、正座のかたちになった。  あらためて、四郎と近悳は向きあった。 「さて、話を聴こうか」  近悳は、声をくつろげて言った。 「今度は、何の用があってやってきたのだ——」 「来月の十一日、弥生神社において、警視庁武術試合が行なわれます」 「噂は耳にしている」 「それに、わが講道館も出場することが決まりました」 「そのようだな」  保科近悳も、その試合のことは聴いている。 「わたしも、出場することとなりました」 「ほう」  近悳の声には、驚きと悦びの響きが混ざっている。 「相手は?」 「まだ決まっておりませんが、おそらく揚心流戸塚道場になるかと——」 「戸塚英俊先生の門だな。先ごろ亡くなられたと耳にしている。たしか道場は、息子の英美さんが継いだはずだが——」 「はい」 「あそこには、大竹森吉という逸物がいる」 「御存知なのですか——」 「おもしろい男だ。大竹森吉は出場するのか?」 「わかりません」 「ここへ来た用事は?」  問われて、四郎は深く息を吸い込んでから—— 「お願い申しあげたいことがございます」 「何だ」 「御式内を、今度の試合で使わせていただきたいのです」  四郎は言った。  保科近悳は、眼を閉じた。  四郎は、近悳の言葉を待った。 「御式内は、長年、会津藩の御留流《おとめりゅう》であった……」  そこまで言って、近悳は言葉を切り、また沈黙した。  微風が、四郎の耳のあたりを吹き過ぎてゆく。 「……しかし、その会津藩も今はない」  近悳は、眼を開いた。 「かまわぬ。御式内を使うも使わぬも、おまえの心のままじゃ。これが、講道館の流儀の中に残るのなら、それはそれで嬉しい。好きにするがよい——」 「ありがとうございます」  四郎は、父であり、師である人物に向かって頭を下げた。 「だが、大東流御式内、まだおまえに全て教えきったわけではない」 「はい」 「いずれ、おりを見て、我がもとに来るがよい。わたしが知る限りをおまえに伝えよう」 「はい」 「わたしが死ぬ前に、この大東流の跡継ぎを決めねばならぬのだが……」  そこで、近悳は言葉を止めて、四郎を見つめた。 「実は、もうひとり、おまえの他に心に決めた人物がいる——」 「———」 「武田惣角という男だ。この人物については以前にも、おまえに話したことがある。覚えているか」 「はい」  四郎も覚えている。  たしか、こより[#「こより」に傍点]の遊びをしている時だ。  あの時、自分はこより[#「こより」に傍点]から手を放して、草の上に仰向けになったのではなかったか。  その時に、近悳は、武田惣角の名を口にした。 �八年前——�  近悳は、その武田惣角という子供と、こよりの遊びをしたのだと言った。  その武田惣角が、四郎と同様に�他の子と違うことをしてきた�のだと。  八年前——今から数えれば、十八年前のことだ。 「あの時、武田惣角は、九歳だったな」  四郎が三歳の時だ。  武田惣角は、四郎より六歳年上ということになる。嘉納治五郎と同じ歳だ。  その時、武田惣角は、四郎と同様にこよりの遊びで、近悳に何度も投げられた。  そして、何度目かの時、惣角は、いきなり—— 「こよりを手から放して、わたしに拳で打ちかかってきたのだよ」  子供とは思えぬほど鋭い拳であった。  その拳をかわし、近悳は惣角を草の上に投げ飛ばした。  惣角は、すぐに起きあがってきた。  石か何かにぶつけたのか、額から血が流れ出ていた。  その血をぬぐうこともなく、すぐにまた惣角は近悳にむかってきたというのである。 「短い期間だったが、惣角にも、わたしは御式内を教えたことがある。日光の、この場所でもね」 「ここで?」 「いつだったかな。そうだ。四年前、きみが講道館に入門した年だ。九州からの帰りに、ここへ寄ったのだ。そうだ、きみに会いに東京では講道館に顔を出したと言っていたな。その後、戸塚道場にも顔を出したと言っていたが……」 「戸塚道場に?」 「そこで、何があったかは言わなんだが……」 「何かあったらしいのですか——」 「うむ」  うなずきながら近悳は言った。 「ともあれ、講道館に出かけていった理由だが……九州で、きみについての噂を耳にして、興味をもったらしい。わたしが、きみのことは、惣角に話したことがあったのでね」 「どういう話をしたのですか」 「こよりの話をした。こよりの遊びをしていたら、手を放して仰向けになってしまった子がいるという話をね」 「———」 「講道館では、嘉納治五郎と試合ったと言っていたな」 「結果は、御存知なのですか」 「いや、結果については、あの男は言わなかったよ。惣角が、勝ったということだろう」 「その通りですが……」 「何故、惣角が、嘉納さんに勝ったことをわたしにしゃべらなかったのか、しゃべらなかったことを、どうして、わたしが知っているのか、そういうことかね」 「はい」 「あの男は、自分が、誰に勝ったとか負けたとかは口にしないのさ」 「———」 「それが、どこでどう伝わって、負けた相手から恨みを買うことになるかわからないからだよ。しかし、柔道と嘉納治五郎という人物には興味を覚えたようだったな」 「何か、言っていたのですか——」 「あの男とは、殺し合い以外は、もうやらぬと言っていた——」  鉄の板を吐き出すような身も蓋もない言い方である。 「技を盗まれたと言っていたよ。嘉納と闘うのは、技を教えてしまうことになるから、もう、しない——そういう言い方だった——」  近悳は、自分が発っした言葉を、四郎がどう受けとるか、それを眺めて楽しんでいるようであった。 「八重さんは、元気か——」  ふいに、近悳が言った。 「はい」 「八重さんが、嘉納さんのところでお世話になっていた。おまえが講道館に入門することになったのも、それが縁と言えば縁じゃ」  八重には、子供の頃から、四郎は世話になっている。  東京へ出てからも同じだ。 「帰ったら、八重さんによろしく伝えてくれ——」 「はい」  四郎は、うなずいていた。 [#地から3字上げ](第二巻 了   第三巻につづく) [#改ページ] 本書は「小説推理」'02年7月号〜'05年11月号にかけて不定期掲載された同名作品(全20回)に加筆、訂正を加えたものです。 なお、作中には実在の人物、団体が登場します。 執筆にあたり、各種資料を参考にしておりますが、その解釈は著者独自によるもので、作品はフィクションです。 夢枕獏●ゆめまくらばく 1951年神奈川県生まれ。77年、SF文芸誌『奇想天外』にて「カエルの死」でデビュー。89年『上弦の月を喰べる獅子』で第10回日本SF大賞、98年『神々の山嶺』で第11回柴田錬三郎賞を受賞。『餓狼伝』『魔獣狩り』『キマイラ』『陰陽師』シリーズなどで人気を博す。他に『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』『シナン』などの歴史長編や、趣味である格闘技、釣り、写真に関連した著作も数多い。近著に『毎日釣り日和』。 [#改ページ] 底本 双葉社 単行本  東天の獅子 第二巻 天の巻・嘉納流柔術  著 者——夢枕 獏  2008年10月19日  第1刷発行  発行者——赤坂了生  発行所——株式会社 双葉社 [#地付き]2008年11月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま 山下義韶《やましたよしかず》 置き換え文字 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74 蝉《※》 ※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]「虫+單」、第3水準1-91-66 箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 ※[#歌記号、1-3-28]歌記号、1-3-28